第二話 逆さ水鏡
祝詞が、夜明け前から聞こえていた。
几帳のうちで目を開けると、回廊の遠くで、神官の声が長く尾を引いている。澪は身を起こした。昨夜、斎の声で呼ばれた名が、まだ耳の奥に残っている。みお、と、一音ずつ置くように。
確かめたくて、几帳のほうを見た。白い影は、脇息にもたれたまま、動かない。眠っているのか、沈んでいるのか、闇の名残では分からなかった。
祝詞が、ひときわ高くなった。
枕元の水盤が、薄く光りはじめた。墨の翳りの底に、像が浮く。水鏡が、外の景色を映している。
天津宮の大広間だ。白い祭服の織部たちが居並び、その前に、笏を持った冬が立っていた。澪は、自分の寝起きの姿が、いま同じ水鏡で国じゅうへ流れていることを思い出した。
慌てて衿を合わせる。合わせてから、無駄だと気づいた。隠すところは、もう、ひとつもない。
「常磐の民よ」
冬の声が、水盤から染み出してきた。穏やかで、よく通る。
「比良坂の儀の終いに、お前たちは、見たであろう。穢れの娘が、神の器に触れた。神罰に弾かれもせず、触れた。あれが何を意味するか、私から伝えねばならぬ」
澪の指が、衿の上で止まった。
「あの娘は、ただの穢人ではない」冬は一拍を置いた。間の取り方まで、計られていた。「死の国から這い出てきた血を引く者。黄泉返りの穢れ。本来、地上にあってはならぬものだ」
黄泉返り。
その言葉を、澪は知っていた。比良坂の儀の正式の名に、その四文字が入っている。黄泉返りの大祓。死者を悼み、境を清める、尊い儀の名のはずだった。
それを、冬はいま、澪を指す言葉に変えた。同じ言葉で、聖いものと、穢れたものと、両方を呼ぶ。舌先ひとつで、意味が裏返る。
「案ずるな」冬は微笑んだ。水鏡越しでも、それが分かった。「その穢れは、私が宮に留め置く。花嫁として、儀の芯に据える。お前たちの世は、守られる。供物を、祈りを、絶やすな」
像が、消えた。
水盤は、また墨の翳りに戻った。けれど、翳りの底の目は、消えなかった。澪を見ている。
さっきまで「けなげな娘」を見ていた目が、いまは「あってはならぬもの」を見ている。同じ目だった。
いまごろ、国じゅうの社で、同じ宣下が流れている。澪は、その様子が、見なくても分かった。葦境の小さな社にも、水鏡はある。
村の者が、それを囲んで、息を呑んでいる。母も、いるかもしれない。あの宣下を聞いて、何を思うだろう。
澪自身も、宮へ来るまでは、その輪の中の一人だった。水鏡の前に座り、坂人を讃え、穢れを恐れた。誰かが「あってはならぬもの」と名指されれば、その通りに信じた。
疑いもしなかった。いまになって分かる。あの輪の中にいるかぎり、人は、水鏡が見せたいものしか、見ない。
その輪の真ん中に、いま、自分がいる。穢れとして。
*
朝の膳とともに、供物が運ばれてきた。
宮の女が、几帳の前に、それを置いた。澪は、見覚えのある光景に、ひととき昔へ引き戻された。判官贔屓で寵が上がった頃、供物は毎朝届いた。絹、櫛、菓子、押し花。
顔も知らぬ民が、澪のために選んだものたち。あの頃、それを開けるたび、雛に送れないことだけが胸に刺さった。送れなくても、誰かが澪を思ってくれている、その熱だけは、本物だと信じていた。
今朝の包みを、澪は開いた。
中から出てきたのは、塩だった。ひとつかみの、粗い塩。穢れを祓うために、戸口に撒くもの。
次の包みには、折った白い紙。よく見ると、紙には、墨で文字が書いてある。澪には読めない字も多かったが、繰り返し書かれた一字だけは、分かった。
穢、穢、穢。呪符だった。澪を祓うための。
最後の包みは、櫛だった。
かつて届いた櫛と、同じ作りの、黄楊の櫛。澪は手に取った。歯が、半分、折られていた。誰かが、わざと折ったのだ。
届けてから、折ったのか。折ってから、届けたのか。どちらでも、同じことだった。
寵が上がった頃、澪は、こういう櫛を見るたびに、雛を思った。妹の髪は、絡みやすい。この櫛で梳いてやれたら、と。けれど坂人の供物は、坂人のもの。
葦境の家へは、ひとすじの糸も送れなかった。守るために寵を集めるのに、その寵で得たものは、何ひとつ、守りたい相手に届かない。あの頃の二律背反を、折れた櫛が、そっくり思い出させた。
いまは、その雛さえ、手の届かぬところにいる。
供物は、何も変わっていなかった。届ける手が、同じ熱で、裏返っただけだった。
澪は櫛を置いた。塩を、紙を、櫛を、もとの包みに戻した。捨てる気にはならなかった。
これも、誰かが澪を思って選んだものだ。憎むという思いを込めて、ひとつひとつ、選んだ。讃えるのも、憎むのも、こんなにも、似ていた。
膳に箸をつける手が、止まった。澪は、息を二つ、止めた。肩を動かさず、細く吐く。けれど、いつもの蓋は、うまく閉まらなかった。
*
昼、宮の女たちの様子が、変わっていた。
昨日まで、敬いと嫌悪を同じ器に注いでいた女たちが、今日は、嫌悪だけになっていた。冬の宣下を、聞いたのだ。澪が「あってはならぬもの」だと、国じゅうが知った。だから、女たちも、もう敬う必要がなくなった。
膳を下げる女は、澪と目を合わせなかった。前は、合わせなかったのが慎みだった。今日は、見たくない、だった。
澪が手を伸ばして器を渡そうとすると、女は、触れないように、盆を差し出して受けた。指と指のあいだに、盆ひとつ分の距離。穢れが、うつらないように。
「……ありがとう」と澪は言った。
女の肩が、びくりと動いた。礼を言われると思っていなかったのだ。穢れたものは、礼など言わぬと。
女は何も返さず、足早に几帳を出ていった。残った澪の声だけが、宙に浮いて、行き場をなくした。
澪は、自分の手のひらを見た。
この手が、斎に触れた。神罰に弾かれなかった。あのとき、国じゅうが泣いていた。
けなげな娘が、愛のために禁忌を破った、と。その同じ手を、いま、国じゅうが恐れている。穢れを撒き散らす手だ、と。
手は、何も変わっていない。指の長さも、爪の形も、あの夜のままだ。変わったのは、この手を映す水鏡の、向こう側の目だけだった。
愛される指が、そのまま、突き落とす指になる。
いつか、宮の渡殿で、そう感じたことがあった。あのときは、まだ言葉にならなかった。いまは、はっきり分かる。
水鏡は、推す機構であり、狩る機構だった。最初から、ひとつのものだった。讃えるのと、狩るのは、同じ水面の、表と裏でしかなかった。
*
几帳の向こうで、衣擦れがした。
澪は顔を上げた。斎が、脇息から身を起こしている。こちらを、見ていた。
その目に、遠いものは、なかった。斎だった。澪を見て、指が、わずかに開いて、また閉じた。
「……手を」と斎は言った。掠れた、低い声。「見るな。お前の手は、何も、穢れていない」
澪は息を呑んだ。斎は、几帳越しに、澪が手のひらを見ていたのを、見ていた。澪が何を思っていたかまで、たどっていた。
「斎」
「俺が、知っている」斎の声が、ひとつ、震えた。「お前の手が、何をしたか。喰われかけた俺を、引き戻した手だ。あれは、穢れじゃない」
言ってから、斎は、視線を足元へ落とした。澪は、その仕草を知っていた。本心と逆を言うときではない。
本心を、言いすぎたときの、照れ隠しだった。喰われる定めを受け入れていた少年が、いま、澪の手を庇っている。器でも、神でもなく。
澪の目の奥が、熱くなった。
「ありがとう」と、また言った。今朝、誰にも届かなかった言葉が、いま、ひとりにだけ、届いた。斎のまつげが、一度、伏せられた。
そのとき、斎の肩が、こわばった。
目に、また遠いものが差した。すうっと、斎が退いていく。澪の名を呼びかけた唇が、途中で、別の形に固まった。
澪は、几帳のほうへ手を伸ばしかけ、止めた。引き戻したかった。けれど、どうやって。
触れれば届くのか。それとも、もっと深く沈めてしまうのか。澪には、まだ、その術がなかった。
斎の目が、空になった。脇息にもたれ、白い影は、また動かなくなった。
澪は、伸ばしかけた手を、ゆっくり下ろした。さっきまで斎だったものが、いまは、ただの白い装束の山のように見える。さっき、たしかに庇ってくれた。
穢れじゃない、と。その声の温さと、いまの空白の落差が、澪の喉の奥を、ひりつかせた。
何度、こうなるのだろう。浮いては、沈む。呼べば応え、また遠くへ退く。そのたびに、澪は手を伸ばし、止める。
届かせる術を知らないまま。引き戻すには、まず、術を知らなければならない。術は、ここにはない。豪奢な檻の中には、何ひとつ、ない。
*
夜。
灯が落ち、几帳のうちが藍に沈んだ頃、戸の外で、低い声がした。
「花嫁さま。膳の片づけに」
女の声に似ていた。けれど、入ってきたのは、女ではなかった。色褪せた麻の衣。
年は四十ほどに見えて、目だけが、やけに若い。盆を持つ手つきが、宮の女のものではなかった。澪は、その顔を知っていた。
「鶚」
指南役の還り人が、膳を下げるふりをして、几帳のうちへ膝を入れた。水盤の翳りに背を向け、その影で水鏡の目を遮るように、身を低くする。鏡断ちの作法だ、と澪は気づいた。この人は、水鏡の死角の作り方を、誰よりも知っている。
「無事だったの」澪は、声を落とした。「あの夜、雛を、受け止めて」
「受け止めた。そのあとで、もぎ取られた」鶚は、口の端だけを薄く曲げた。笑みに似て、笑みではない形。「鴉に、な。あんたの妹は、いま、あの男の手の中だ。それは、もう知っているだろう」
澪は、うなずいた。
「あんたに、礼を言いに来たんじゃない」鶚は、盆の上に、何かを置いた。小さく折りたたんだ、黒い布きれ。墨で染めた、穢人の衣の端切れだった。「警告に来た」
「警告」
「ここにいれば、あんたは喰われる」鶚の若い目が、澪をまっすぐ射た。「冬は、あんたを花嫁と呼んだ。芯に据えると言った。優しい言い方だ。だが、芯っていうのはな、いちばん最後に、いちばん深く、喰われる場所だ。讃えて、太らせて、喰う。あんたは、いま、太らされている最中だよ」
太らされている。供物の塩と呪符が、澪の脳裏をよぎった。讃えるのと、狩るのは、同じ水面。鶚の言葉は、澪が今日感じたことを、別の言葉で言い当てていた。
「逃げられない」と澪は言った。「戸は開いている。でも、一歩出れば、水鏡が映す。どこへ行っても、狩られる」
「上にいれば、な」鶚は、墨布を、澪の手に握らせた。布は、ざらりと乾いていた。「上の水鏡は、隅々まで届く。だが、下は違う。底のほうは、神都の目が薄くなる。黄泉に近いところほど、水鏡は、よく見えなくなるんだ」
「下」
「穢野の、底だ」鶚は、几帳の隙間から、闇の向こうの斎へ、ちらと目をやった。「器を連れて、下りる。あんたが本当のことを知りたいなら、行き先は、ひとつしかない。上には、嘘しかない。本当のことは、いつだって、いちばん下に、捨てられている」
「なぜ、あなたが、わたしを助けるの」澪は訊いた。鶚は、儀のあいだ、誰の味方もしない男だった。知って、選べ、とだけ言って、手は貸さなかった。
鶚は、しばらく黙った。若い目が、ふっと翳った。置いてきたものを探すような、あの目だった。
「俺は、一度、見捨てた」と、それだけ言った。「隣で、喰われるのを見ていた。止めなかった。止め方を、知らなかったからだ」鶚の指が、盆の縁を、ひとつ叩いた。「あんたは、止め方を、知るかもしれん。俺が知らなかったことを。それだけだ。期待は、していない。ただ、見届けたいだけだ。今度こそ、最後まで」
澪は、手の中の墨布を、握りしめた。
「下りるなら、今夜だ」鶚は、盆を持って、立ち上がった。膳を下げる、ただの女の動きに戻っていた。「迷う刻は、やらない。迷うのは、上にいる者の贅沢だ。あんたには、もう、ない」
戸が、静かに閉まった。
澪は、闇の中で、墨布を見た。見えはしない。ただ、手のひらに、その乾いた感触だけがあった。穢人の衣の、端切れ。
これを握って、下りろと、鶚は言った。穢れの底へ。澪が、十六年、落ちないようにと、必死で堪えてきた、その底へ。
几帳の向こうの斎を、見た。
沈んでいる。けれど、昼に、たしかに浮いてきた。澪の手を、庇った。
沈み切る前なら、間に合うかもしれない。本当のことが、底にあるのなら。斎を返す術も、そこにあるのかもしれない。
澪は、立ち上がった。花嫁の白い裾が、足にまとわりついた。脱ごう、と思った。
この白を脱いで、墨を、まとう。讃えられる色を捨てて、狩られる色を、自分から、着る。
握った墨布が、汗で、少し湿っていた。




