第三話 黄泉下り
白を脱ぐと、肌が冷えた。
花嫁の装束を畳み、褥の上に置いた。銀の波文様が、闇の中で、わずかに光る。澪はその上に、鶚の置いていった墨布を重ねた。
黒は、光らなかった。光らないことが、いまは、ありがたかった。光るものは、見られる。
宮の女の、麻の衣を一枚、几帳の隅から取った。膳を運ぶ女が、着替えに脱いでいったものだ。袖を通すと、藁と汗の匂いがした。葦境の家の匂いに、少しだけ似ていた。
澪は、その匂いを、肺の奥まで吸った。十六年、この匂いの中で生きてきた。花嫁の白檀より、こちらのほうが、息ができた。
几帳の向こうへ、にじり寄る。
「斎」
呼んでも、白い影は動かない。沈んでいる。澪は、唇を噛んだ。
連れていくと決めた。沈んだままの斎を、どうやって。背負うのか。
手を引くのか。手を引けば、触れる。触れれば、また何かが起きる。
そのとき、斎の指が、動いた。
闇の中で、白い手が、ゆっくりと持ち上がる。澪の袖を、つかんだ。布ごしに。肌には、触れずに。
斎は、薄く目を開けていた。遠いものは、なかった。斎だった。
「……行くのか」掠れた声。「下へ」
「うん」
「なら」斎は、つかんだ袖を、引いた。立ち上がろうとしている。「俺が、道を、知っている。なぜか、知っている。下りる道を」
なぜ知っているのか、斎にも分からない、という顔だった。澪も、問わなかった。問えば、また遠いものが、戻ってくる気がした。
いまは、斎が、ここにいる。それだけを、頼りにした。
立ち上がった斎は、思ったより痩せていた。礼装の肩が、骨の形をそのまま映している。比良坂の儀のあいだ、誰も、この少年に、まともに飯を食わせていない。喰われるための器に、養う者はいない。
澪は、斎の腕を取ろうとして、手を止めた。布ごしでなければ、触れられない。袖の端をつまんで、立つのを支えた。それだけのことが、ひどく、もどかしかった。
「重かったら、寄りかかって」と澪は言った。「布の上から」
斎は、答えなかった。けれど、ほんの少し、澪のほうへ、体を傾けた。布一枚を隔てた重みが、澪の腕に、伝わった。
生きている者の重みだった。皿ではない。澪は、その重みを、落とすまいと、足を踏みしめた。
*
回廊は、灯が落ちていた。
逢魔が時は過ぎ、夜のいちばん深いところに、宮は沈んでいた。澪は墨の衣の裾をからげ、斎の袖を引いて、几帳を出た。水盤が、回廊のそこかしこで、ほのかに翳っている。澪はそのたびに、柱の影を選んで歩いた。
穢野で、罠を見回るときの足だ。気配を消し、水の動かぬところを踏む。死地で身を隠す技が、こんなところで、役に立った。
水盤の前を、ひとつ、越えた。
息を止める。柱の影に入る。水の翳りが、澪を映さない位置を、足が覚えている。穢野で、何百回もやった。
鳥が水面を読むように、水の動かぬ筋を選ぶ。宮の回廊も、穢野の浅瀬も、澪にとっては、同じだった。見られてはならない。その一点だけが、同じだった。
斎は、思いのほか、しっかりと歩いた。
沈んでいるときの、人形のような足取りではない。先を、知っている足だ。回廊の分かれ道で、斎は迷わず、暗いほうを選んだ。
下りの石段。使われていない、苔の匂いのする道。神官も通らぬ、宮の裏の喉のような道を、斎の足が、覚えていた。
途中で、一度、足音がした。
澪は斎を柱の陰へ引き込み、息を殺した。神官が、ひとり、通り過ぎる。手燭の灯が、廊下を舐めた。澪のいる柱の、すぐ脇まで。
灯が、止まった。澪は、まばたきを、やめた。喉元の鼓動を、奥歯で噛んで、抑えた。
やがて、灯は、また動きだした。遠ざかる。澪は、肺の底の息を、ようやく、細く吐いた。
斎の腕が、布ごしに、わずかに震えていた。恐れではない。澪を庇って、前に出ようとした、その名残だった。
「ここを」と斎が、低く言った。「下りたことが、ある気がする。ずっと、昔に」
斎は、宮で生まれ育った依代だ。この裏道を歩いたことが、あるのかもしれない。けれど「ずっと昔」と言うとき、斎の声は、斎のものより、少しだけ、遠かった。
澪は、その遠さに、気づかないふりをした。気づけば、止まってしまう。止まれば、夜が明ける。
石段を、下りた。
下りるほど、空気が、変わった。檜と白檀の香が薄れ、土と、水と、何かの饐えた匂いが、濃くなる。澪の知っている匂いだった。穢野の匂い。
死者を捨てる、あの湿地の匂い。宮の床下から、すでに、それは滲んでいた。豪奢な宮の足の下に、ずっと、この匂いが溜まっていたのだ。香で蓋をして。
おかしなものだ、と澪は思った。葦境にいた頃、この匂いは、恐怖だった。穢れがうつる。
家が落ちる。鼻をつまんで、息を止めて、穢野で魚を獲った。その同じ匂いが、いまは、宮の白檀より、ずっと、澪を落ち着かせる。
嗅ぎ慣れた匂い。隠さなくていい匂い。澪は、清いふりをしなくて済む場所へ、近づいている。
斎も、その匂いを、吸っていた。沈んでいないときの斎が、ふと、鼻を鳴らした。なつかしむような、けれど、どこか痛むような、息の吸い方だった。
段は、果てしなかった。
一段、また一段。石は、苔で湿っていた。手すりはない。澪は片手で斎を支え、片手で壁を探った。
壁も、濡れていた。指先が、冷えていく。耳が、しんとした。
上の宮のざわめきは、もう、届かない。下の音も、まだ、聞こえない。澪と斎の足音だけが、石を打って、闇に吸われていった。
世界が、ふたりきりになったようだった。見られていない。澪は、ふと気づいた。この段の途中だけ、水鏡がない。
誰の目も、届かない。鏡断ちの中を、歩いているのだ。逢瀬の窓ではなく、降りていく道として。
*
裏門は、開いていた。
閂が、外されている。澪は足を止めた。夜の門が、開いている。衛士も、いない。
おかしい、と、肌が言った。
天津宮の裏門が、夜に開いているはずがない。誰かが、開けた。澪たちが、ここを通るために。澪の指が、斎の袖の上で、ひとりでにこわばった。
これは、用意された道ではないか。鶚の手引きも、斎が道を知っていることも、この開いた門も。誰かの、掌の上ではないか。
澪は、門の闇を見つめた。
引き返すか。けれど、引き返した先には、檻がある。喰われる順番を待つ、芯の座がある。
前にも、罠。後ろにも、罠。ならば、と澪は思った。
罠でもいい。前へ行けば、少なくとも、底に着く。本当のことが、底にあるのなら。
「斎、行こう」
澪は、斎の袖を握り直し、開いた門をくぐった。
門をくぐる、その一歩に、妙な重さがあった。
敷居をまたいだ瞬間、何かが、背後で、閉じた気がした。門は、開いたままだ。閂も、外れたままだ。なのに、もう、戻れないと、肌が言った。
穢野の言い伝えを、ふと、思い出した。黄泉の食を、ひとくちでも口にした者は、もう、生者の世界へは帰れない。この敷居が、その、ひとくちだったのかもしれない。澪は、墨の衣で、それを、呑み込んだ。
斎は、敷居の上で、一瞬、立ち止まった。沈んでいないほうの斎が、振り返って、宮を見た。生まれ育った場所。喰われるために育てられた場所。
その目に、なつかしさは、なかった。ただ、二度と見ない、と決めた者の、静かさだけがあった。それから斎は、澪より先に、闇のほうへ、足を踏み出した。
門の外は、坂だった。
天津宮は、丘の上にあった。その丘の裾へ、つづら折りの坂が、闇の底へと続いている。坂の先は、見えない。墨を流したような闇が、ただ、下へ、下へと垂れている。
生者の世界の縁。そのもっと先に、黄泉があると、神話は言う。澪は、その坂を、下りはじめた。
足が、すくみそうになった。
十六年、澪は、落ちないように生きてきた。穢人へ、黄泉子へ、転落しないように。家の秘密を隠し、穢れを拭い、必死で、この坂を上る側にいようとしてきた。
それを、いま、自分の足で、下りている。落ちるために。いちばん下へ、向かって。
不思議と、こわくは、なかった。
落ちまいとしていた頃のほうが、ずっと、こわかった。いつ足をすくわれるか、毎日、息を殺していた。父の死を隠し、穢野の匂いを拭い、緋でも墨でもない、ぎりぎりの常民の縁に、爪を立ててしがみついていた。
落ちると決めてしまえば、もう、足をすくわれる心配は、なかった。底は、これ以上、下がない場所だ。下がない場所には、落ちる恐怖も、ない。
母は、と、ふと思った。母は、いまも、あの縁にしがみついている。澪が穢れと宣されたいま、葦境の家は、どうなるのか。母を、置いてきた。
雛を、奪われた。守りたかったものから、澪は、どんどん、遠ざかっていく。下りるたびに。
けれど、と澪は、墨の裾を握った。下りた先にしか、もう、道はない。上で守れるものは、何ひとつ、残っていなかった。
*
坂の半ばで、澪は、一度だけ、振り返った。
天津宮が、丘の上で、白く光っていた。夜目にも、その輪郭は、神々しかった。回廊の水盤の翳りが、点々と、灯のように見える。
澪を映していた水鏡。国じゅうへ、澪を流していた水鏡。その一つが、いまも、坂を下りる澪の背を、映していた。
見られている。
逃げる姿まで、見られている。澪は、思わず、足を速めようとした。けれど、おかしなことに、宮からは、何の動きもなかった。
衛士の声も、追っ手の松明も、警鐘も、ない。
天津宮は、ただ、静かに、光っていた。澪が、白を脱ぎ、墨をまとい、斎を連れて、裏門を抜け、坂を下りていく。そのすべてを、水鏡は映している。映していて、何もしない。
冬は、追ってこなかった。
澪は、坂の途中で、立ち尽くした。風が、坂の下から吹き上げてくる。墨の裾が、鳴った。宮の白檀でも、底の饐えた匂いでもない、ただの、夜の風だった。
閂の外された門。開いていた裏道。斎が知っていた道。そして、追ってこない冬。
ひとつ、ひとつは、偶然かもしれない。だが、四つ並べば、偶然ではない。誰かが、糸を引いている。
澪は、その糸の先を、見たことがある。笏の柄を、親指で撫でる手。慈しむ目のまま、瞳の動きだけが止まる、あの目。
行かせている、と、澪は悟った。
冬は、澪を、逃がしている。逃げる姿を、国じゅうの水鏡に映しながら。穢れが、自ら底へ堕ちていく。
その絵を、冬は、見せたいのだ。あるいは、底にこそ、冬の本当の罠が、待っているのか。
それでも、と澪は思った。
引き返す道は、もう、ない。冬の掌の上だとしても、進むしかない。掌の上で、それでも、掌からはみ出すものを、探すしかない。
雛が、底のどこかにいるかもしれない。斎を返す術が、底に捨てられているかもしれない。
「みお」
斎が、呼んだ。澪、ではなく、みお、と。一音ずつ、置くように。
澪は、背に、冷たいものを感じて、振り向いた。斎の目に、また、遠いものが、差していた。坂の闇を、斎の顔をした何かが、なつかしそうに、見下ろしていた。
「やっと、帰れる」と、その声は言った。「ずっと、ここへ、帰りたかった」
帰る。澪が、初めて来る場所へ。斎の顔をした何かは、帰る、と言った。
帰りたかった。澪には、ない望みだった。澪にとって、下は、初めての場所だ。けれど、斎の中の何かにとっては、下は、帰る場所らしかった。
同じ坂を、二人は、別の意味で、下りていく。澪は、逃げて。斎は、帰って。あるいは、斎の顔をした何かが、澪を、迎えに、引いている。
どちらでも、いい。澪は、そう決めた。
斎が帰りたい場所が、底にあるなら。澪が探したいものも、きっと、そこにある。本当のこと。雛の在処。
斎を、斎のまま、引き留める術。全部、いちばん下に、捨てられている。鶚は、そう言った。
澪は、斎の袖を、握りしめた。布ごしの腕は、冷たかった。けれど、たしかに、ここにある。
澪は、その腕を引いて、もう一度、坂を下りはじめた。振り返らなかった。振り返れば、また、白く光る宮が、見える気がして。
下から吹く風が、墨の衣を、また鳴らした。坂は、まだ、長かった。底は、見えない。
それでも、足は、止まらなかった。止まらないことだけが、いまの澪に、できることだった。
風に、新しい匂いが、混じりはじめた。
穢野の饐えた匂いの底に、もうひとつ。煙の匂いだった。誰かが、火を焚いている。
澪は、足を止めかけた。底は、捨て場だと思っていた。死者と、穢れの。
けれど、火を焚く者がいる。火を焚くのは、生きている者だ。底に、人が、住んでいる。
斎の足が、その匂いのほうへ迷わず向いた。澪は、その後を追った。煙の匂いが、少しずつ、濃くなる。坂の、いちばん下が、近かった。




