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水鏡の花嫁  作者: 甕星 慶(ミカボシケイ)
第二部

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第四話 墨の底

坂が、終わった。


最後の一段を下りると、足の裏が、土を踏んだ。石ではない。湿った、やわらかい土だった。(みお)は、顔を上げた。


底は、闇ではなかった。


火が、あった。あちこちに、小さな焚き火。その火を囲んで、人がいた。墨の衣の人々。


手首に、墨の輪。穢人(えびと)だった。額に、逆さの坂の印を持つ者もいる。


黄泉子(よみご)だ。死に属すると烙印された、いちばん下の者たち。彼らが、火を焚き、鍋を囲み、子どもをあやしていた。


澪は、立ち尽くした。


ここは、捨て場だと思っていた。死者と、穢れの。誰も住まぬ、世界の掃き溜めだと。


けれど、目の前にあるのは、暮らしだった。煙の匂い。煮炊きの音。


低い話し声。赤子の泣き声。生きている者の、ありふれた夜だった。


掘っ立ての小屋が、肩を寄せ合って、並んでいた。屋根は、葦と、泥。壁には、繕った跡が、いくつも重なっている。捨てられた者たちが、捨てられた木と泥で、それでも、屋根を架けていた。


雨を、しのぐために。子を、寝かすために。澪は、その屋根の連なりを、見渡した。


掃き溜めではなかった。村だった。上が、ないことにした、村だった。


火のそばで、女が、汁を椀によそっていた。


その手つきを、澪は知っていた。葦境(あしざかい)の、母の手つきだった。冷めないうちに、子に食べさせる手。


底にも、母がいた。底にも、夜があり、飯があり、眠りがあった。澪が、十六年、落ちまいとしてきた、その底に。


澪は、上で教わったことを、思い出した。穢人は、人ではない。死に近い、穢れた塊だ。


触れれば、うつる。だから、隔てる。葦境の大人たちは、そう言った。


澪も、そう信じた。隣家が穢人に落とされたとき、目を、伏せた。見てはいけないものを見るように。


いま、目の前にいるのは、塊ではなかった。


火を分け合う、人だった。痩せた頬。すすけた手。それでも、笑う口があり、泣く子があり、椀を回す順番があった。


上で見せられた絵とは、何もかも違う。澪の中で、何かが、小さくずれた。十六年、信じてきた絵の、いちばん下の角が、めくれた。


   *


人々が、二人に気づいた。


火を囲む顔が、いっせいに、こちらを向いた。澪は、身を硬くした。墨の衣をまとっていても、隠せないものがある。痩せ細った白い礼装の(いつき)


その隣の、上から下りてきたばかりの、清い肌の娘。底の者には、すぐに分かる。上から来た者だ、と。


ざわめきが、起きた。


神迎えの宮(かみむかえのみや)の」と、誰かが言った。「水鏡(みかがみ)で見た。あの、花嫁の」


黄泉返り(よみがえり)の穢れだと、宣された娘か」


「なぜ、ここへ」


火明かりの中で、視線が、澪に集まった。恐れと、警戒。澪は、上で浴びたものと、同じ目を、ここでも浴びた。


違うのは、ここの目には、嫌悪がないことだった。あるのは、ただ、戸惑いだった。上から落ちてきた、奇妙なものを見る目。


一人の男が、進み出た。


「上の者が、何の用だ」声が、低い。「俺たちを、また狩りに来たのか。器まで連れて」


「違う」と澪は言った。「逃げてきた。狩られる側だから」


男は、澪を、じろりと見た。澪の手首には、墨の輪がない。額に、黄泉(よみ)の印もない。


澪は、穢人でも、黄泉子でもなかった。上から落ちてきただけの、まだ清い娘だった。男の目が、それを、見抜いていた。


「狩られる側、か」男は、鼻で笑った。「上の言葉だな。お前は、まだ、落ちきっていない。落ちるってのが、どういうことか、知りもしないで」


返す言葉が、なかった。男の言う通りだった。澪は、墨をまとっただけだ。墨に、生まれてはいない。


   *


「やめておけ、(しげ)


しわがれた声が、火の向こうから、した。


人々が、道を空けた。奥から、一人の老人が、杖をついて、出てきた。墨の衣は、色が抜けて、灰に近い。


背は曲がり、顔は皺に埋もれている。けれど、その目だけが、澄んでいた。底の闇の中で、その目だけが、何かを、はっきりと見ていた。


老人は、澪の前まで来て、足を止めた。


そして、澪の顔を、じっと見た。次に、澪の手を見た。それから、隣の斎を見て、最後に、また澪へ、目を戻した。長い、沈黙だった。


澪は、見つめられるまま、動けなかった。この老人の目は、上の者の目とは、違った。澪を、穢れとも、花嫁とも、見ていない。もっと、奥を、見ていた。


(つるばみ)さま」と、女の一人が、老人を呼んだ。


橡、と呼ばれた老人は、答えず、澪を見たまま、口を開いた。


「お前さん」かすれた声。「どこから、来た」


「天津宮から」


「そうじゃない」橡は、首を振った。「血が、だ。お前さんの血は、どこから、来た」


澪の心の臓が、ひとつ、跳ねた。


血。誰も、見えないはずのもの。母方から受けた、隠した血。澪自身、宮へ来るまで、知らなかったもの。


それを、この老人は、一目で、言い当てた。澪の手を見て。顔を見て。何を、見たのか。


「知りません」と澪は、正直に言った。「わたしも、まだ、知らないんです」


橡の皺が、わずかに動いた。笑った、のかもしれなかった。悲しんだ、のかもしれなかった。


「知らずに、ここまで来たか」橡は、つぶやいた。「上は、ほんとうに、何も教えん。いちばん大事なことを、いちばん知らねばならぬ者に、いちばん、教えん」


橡の目が、火のほうへ、流れた。


「昔はな」と、老人は言った。「この血のことを、知る者が、もっといた。語り継ぐ者が。だが、上は、それを、許さなかった。語り部を、狩った。書いたものを、焼いた。残ったのは、ここだけだ。底の、口伝だけ」橡は、自分の胸を、骨ばった手で、叩いた。「ここに、まだ、本当の話が、残っている。上が、焼き残した話が」


澪は、その胸を、見た。皺だらけの、痩せた胸。そこに、世界の本当の話が、しまわれているという。


上の、どの社にも、どの書庫にもなく。いちばん下の、いちばん蔑まれた老人の、胸の中に。


   *


橡は、二人を、火のそばへ、招いた。


繁という男は、まだ、警戒を解かなかった。けれど、橡が手で制すると、それ以上は、言わなかった。底にも、序列があった。橡の言葉は、ここでは、重かった。


「爺さま」と繁が、低く言った。「上の娘を、入れるのか。器まで。狩りの先触れかもしれん」


「先触れなら、こんな夜更けに、二人で来るものか」橡は、繁を見ずに、言った。「狩りは、昼に、大勢で来る。松明を持って。お前も、見たろう」


繁が、口を、つぐんだ。見たのだ。かつて、昼に、松明を持った狩りを。この男も、誰かを、ここで、失っている。


澪は、繁の硬い横顔に、それを、見た。警戒は、憎しみではなかった。もう、誰も、失いたくない者の、顔だった。


「……俺は、認めんぞ」繁は、それだけ言って、火の向こうへ、下がった。認めん、と言いながら、追い出しは、しなかった。


斎を、筵の上に、座らせた。


斎は、坂を下りるあいだに、また沈んでいた。目に遠いものが差し、口数が減っていた。底の濃い闇が、斎の中の何かを、引き寄せているようだった。黄泉に近い場所ほど、斎の器は、弱る。


澪は、その横顔を見て、唇を噛んだ。間に合うのか。沈み切る前に。


斎の手が、膝の上で、震えていた。


寒いのではない。澪には、分かった。沈むまいと、している。底へ引かれていく自分を、斎が、内側から、こらえている。


その震えは、抵抗だった。声にならない、必死の。澪は、その手のそばに、自分の手を置いた。


触れずに。布一枚の、隙間を空けて。それだけで、斎の震えが、少し、おさまった。


血だ、と、あとで橡は言った。けれど、このときの澪は、知らなかった。ただ、傍にいれば、斎の震えが止まる。それだけを、頼りに、隣に、座っていた。


椀が、二つ、運ばれてきた。


雑穀の、薄い汁。けれど、温かかった。澪は、斎の口元へ、椀を運んだ。


斎は、ひとくち、すすった。沈んでいても、体は、温かいものを、受け入れた。


そのとき。


小さな子どもが、一人、斎のそばへ、寄ってきた。黄泉子の子だ。額に、逆さの坂の印。


三つか、四つ。汁の匂いに釣られたのか、斎の膝に、ちょこんと手を置いた。


斎の肩が、動いた。


遠かった目が、その子を、見た。ふっと、何かが、ほどけた。斎の口元が、ほんの少し、やわらいだ。


沈んでいたはずの斎が、その子の頭へ、布ごしに、そっと手をのせた。撫でるでもなく、ただ、のせた。子どもは、きょとんと、斎を見上げた。


澪は、息を、のんだ。


宮で、誰にも触れられず育った少年。喰われるために、人らしさを削がれた器。その斎が、底の子どもにだけ、表情を、ほどいた。


誰も見ていない、底の隅で。澪と、この子の前でだけ。


「……あったかい」と、斎が言った。子どもの頭を、見ながら。


それが、斎の声なのか、遠い何かの声なのか、澪には、分からなかった。けれど、その言葉は、たしかに、斎のものだと、思いたかった。


子どもの母らしい女が、慌てて、子を抱き上げにきた。器に、触れさせてしまった。女の顔が、青ざめた。上の掟では、依代(よりしろ)に触れた穢人は、それだけで、死罪だ。


「いい」と澪は、とっさに言った。「この子は、何も、悪くない」


斎が、女を見上げた。遠くない目で。


「触れても」と、斎は、ゆっくり言った。「俺は、もう、誰も、灰にしない。……たぶん」


女は、子を抱いたまま、立ちすくんだ。依代が、穢人の子に、詫びるように話す。そんな光景を、見たことがないのだ。澪にも、なかった。


上では、ありえない。底でだけ、起きること。火のそばでだけ、ほどけること。


   *


夜が更けて、人々が、眠りについた。


澪は、火の残りのそばで、橡と、二人になった。斎は、子どもの隣で、浅く、眠っている。沈んでいるのか、眠っているのか。けれど、その息は、さっきより、穏やかだった。


「あの器」と橡が、火を見ながら、言った。「お前さんの、そばにいると、息が、楽になる。気づいたか」


澪は、うなずいた。坂で、宮で、何度も、感じていた。澪が傍にいると、斎の沈みが、緩む。


離れると、深くなる。理由は、分からない。けれど、たしかに、そうだった。


「血だよ」と橡は言った。「お前さんの血が、あの器を、つなぎ止めている。糸のように」


「糸」


「いまは、それだけ、言っておく」橡は、杖をつき、立ち上がった。「残りは、明日だ。一度に聞けば、つぶれる。お前さんは、まだ、知る支度が、できていない」


橡は、去りかけて、振り返った。


「ひとつ、だけ」澄んだ目が、火明かりの中で、澪を見た。「お前さん、禊で、水を弾いたろう。腕にかけた清めの水を。玉になって、こぼれ落ちた」


澪の背が、こわばった。


あれは、禊の日。誰も見ていないはずだった。斎だけが、見ていた。


なのに、この老人は、知っている。底の、誰も見ていない場所で。


「なぜ、それを」


「上は、あれを、穢れの証だと言う」橡は、首を振った。声が、低く、落ちた。「穢れた血は、清めの水を弾く、とな。だが、違う」


「違う、と」


「あれは、穢れじゃない」橡の声が、底の闇に、静かに置かれた。「あれは――糸だ。世界を、縫う、糸だ」


火が、爆ぜた。


澪は、その言葉を、うまく、つかめなかった。糸。縫う。


世界を。橡は、それ以上、言わなかった。背を向け、闇の奥へ、消えていった。


澪は、一人、火のそばに、残された。


弾いた水。穢れだと、恐れてきたもの。隠してきたもの。


それが、糸だと、老人は言った。世界を、縫う。澪は、自分の手を、火にかざした。


何の変哲もない、指。穢野(えの)で、爛れなかった指。この手が、糸を、持っているというのか。


斎の、寝息がした。


澪は、その音のほうを、見た。沈み切る前に、引き戻す。(ひな)を、取り戻す。そのために、ここへ来た。


そして、いま、もうひとつ、加わった。知ること。この血が、何なのかを。


もう、隠さない。澪は、火を見ながら、思った。十六年、隠してきた。隠して、守れたものは、何もなかった。


ならば、知る。底まで、降りてきたのだ。底にある本当のことを、全部、この目で、見る。


数えるように、澪は、胸の内で、並べた。


ひとつ。この血が、何なのかを、知る。ふたつ。雛を、取り戻す。


みっつ。斎を、沈み切る前に、引き戻す。三つとも、上にいては、できなかった。三つとも、底でなら、糸口がある。


(みさご)の言った通りだった。本当のことは、いちばん下に、捨てられていた。捨てられて、なお、火を焚いて、生きていた。


斎の寝息と、子どもの寝息が、重なって聞こえた。


近い音だった。器と、黄泉子の子。上では、決して、並ばぬ二つ。それが、同じ筵で、同じ夜を、眠っている。


澪は、その音を、しばらく聞いていた。聞きながら、思った。上が隠したかったのは、穢れではない。


たぶん、この音だ。下の者も、同じように、眠るということ。それを、見られたくなかったのだ。


火が、ゆっくりと、燃えていた。底の夜は、長かった。


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