第五話 繕い手
底にも、朝は来た。
光ではなかった。坂の上が、墨から、灰へ、薄まる。それが、底の夜明けだった。澪は、火の残りのそばで、目を覚ました。
隣に、斎がいる。浅い息をしている。沈んでいる。けれど、昨夜よりは、近い。
澪が、傍にいるからか。橡の言葉を、思い出した。お前さんの血が、あの器を、つなぎ止めている。糸のように。
澪は、自分の手を、見た。
灰の光の中で、何の変哲もない指だった。糸など、見えない。けれど、橡は、見抜いた。
この手の中に、世界を縫う何かが、あると。澪には、まだ、信じられなかった。信じられないまま、その手を、握ったり、開いたりした。
「飯だ」
繁が、椀を、二つ、置いていった。澪の前に、ひとつ。斎の前に、ひとつ。
認めん、と言った男が、二人分、運んできた。澪が、礼を言う前に、繁は、背を向けた。
「礼は、いらん」と、繁は言った。「橡さまが、食わせろと言った。それだけだ」
それだけ、ではなかった。澪には分かった。けれど、言わなかった。
底の優しさは、口にすると逃げていく。葦境でも、そうだった。
椀を抱えて、澪は、郷が目を覚ますのを見ていた。
女たちが、水を汲みに行く。男たちが、坂のほうへ、捨てに来た亡骸を片づけに行く。子どもが、泥の上で、石を並べて遊んでいる。
底にも、一日があった。朝に起き、働き、日が翳れば眠る。上の者が「死に属する」と烙印した者たちが、こんなにも、生きることに、まめだった。
澪は、自分が上にいた頃、この光景を、一度も想像しなかったことに気づいた。穢人に、朝があるなどと。考えたことも、なかった。
斎は、筵の上で、起きていた。
子どもが、また、そばに来ていた。昨夜の、あの子だ。斎の膝に、小石を、ひとつ、置いていく。
供物のつもりらしい。斎は、それを、じっと見ていた。受け取り方を、知らない顔だった。
誰かに、何かを、もらったことが、ないのだ。澪は、その横顔を、見ていられなかった。喰われるために育てられた少年が、小石ひとつに、戸惑っている。
*
底の一日は、坂の上の影が動くのを、目安にした。
刻を告げる鐘は、底までは届かない。日輪も、坂の縁に隠れて、じかには見えない。底の者は、坂の壁にさす光の色で、朝と昼と夕を分けた。澪は、その読み方を、半日で覚えた。
穢野で、潮と水の動きを読んで育った目だ。光のない場所で、わずかな兆しを拾う。それだけは、どこにいても、得意だった。
その子が運ばれてきたのは、昼だった。
黄泉子の、女の子。五つほど。三日前から、熱が下がらないという。
母親が、筵にのせて、抱えてきた。底には、薬がない。医者も、来ない。
穢人に、祓いが許されないように、黄泉子に、手当ては、許されない。死ぬのを、待つしかない。それが、底の、決まりだった。
子どもの唇は、紫がかっていた。
息が、浅い。胸が、せわしく、上下する。母親は、その手を握って、ただ、名を呼んでいた。
底の者たちが、遠巻きに、見ていた。誰も、近づかない。近づいても、できることが、ないからだ。
澪は、その子のそばへ寄った。
なぜそうしたのか、自分でも分からなかった。体のほうが先に動いていた。穢野で溺れた父を引き上げたときと同じだ。
考えるより早く、手が伸びていた。澪は、子どもの熱い額に、手のひらを置いた。
熱が、じわりと伝わってくる。
その熱の奥から、別のものが、澪の指先へ流れ込んできた。熱ではない。もっと重い、黒くよどんだ何か。子どもの体の底に溜まっていたものが、澪の手のひらを通って、こちらへ移ってくる。
澪は、息をのんだ。これを、知っている。あの夜の感触だ。喰われかけた斎の胸に手を当てたとき、御魂が向きを変えて澪へ流れ込んだ。
あれと、同じだった。澪の手は、相手の中の重いものを引き受けて、肩代わりする。そういう手なのだと、いま、はっきり分かった。
子どもの息が、変わった。
浅かった息が、深く落ち着いていく。せわしなかった胸が、ゆっくりと上下する。紫がかっていた唇に、血の色が戻った。
やがて子どもは、こてんと眠りに落ちた。熱に焼かれる眠りではない。ただの、子どもの眠りだった。
母親が、声をあげた。
言葉にならない声だった。子の額に頬を押しつけ、肩を震わせている。生きている。死を待つだけだった子が、いま、穏やかに息をしている。
底の者たちが、ざわめいた。遠巻きにしていた輪が、じり、と澪のほうへ寄った。さっきまで、近づくことさえしなかった者たちが。
*
代償は、すぐに来た。
子どもから手を離したとき、澪の指先は冷えていた。氷を握ったあとのように。それだけではなかった。
鼻の奥に、匂いがあった。穢野のいちばん深いところの、水底の匂い。死者を沈めた水の、底の匂いだ。
澪は、その匂いを、自分の体の内側から嗅いでいた。外から漂ってきたのではない。澪の中から、立ちのぼっていた。
足元が、ぐらりと揺れた。
立っていられず、澪は膝をついた。視界の隅が、墨を流したように暗くなる。何かに半歩、近づいた感覚があった。生者の世界から、ほんの少しだけ、向こう側へ。
子どもの重さを引き受けたぶん、澪のほうが、その重さに、傾いていた。手のひらの中で、命をひとつ、つなぎ止めた。その代わりに、自分の足が、底へ、半歩、沈んだ。
「無茶を、する」
橡の声だった。いつのまにか、澪のそばに、来ていた。澪の背に、皺だらけの手を、当てる。
「力は、ただでは、使えん」橡は、低く言った。「お前さんは、あの子の重さを、引き受けた。引き受けたぶん、お前さんが、黄泉に、近づく。それが、糸の、代償だ」
「……これが」澪は、かすれた声で、言った。「糸」
「縫えば、針も、傷つく」橡は、うなずいた。「お前さんの血は、縫う糸だ。だが、縫うたび、お前さん自身の命が、すり減る。黄泉へ、引かれていく。覚えておけ。むやみに、使うな」
澪は、自分の指を見た。
冷えた指先。さっきまで、ただの指だった。いまは、その先が、わずかに白い。血の気が抜けたように。
澪は、その指を握りこんだ。怖くはなかった。むしろ、と思った。この手は、奪うだけの手ではなかった。
引き受けて、楽にもできる。穢れだと蔑まれてきた手が、誰かを生かせる。十六年、隠してきた手が。爛れない指だと、自分でも気味悪く思っていた手が。
「橡さま」と澪は訊いた。「この血は、何なんですか。なぜ、わたしだけ」
橡は、すぐには答えなかった。澪の白んだ指先を、しばらく見ていた。
「いまは、言わん」と、ようやく言った。「言えば、お前さんは、もっと無茶をする。世を背負おうとする。背負える重さには、限りがあるんだ。糸が、何のためにあるか。それを知るのは、お前さんが、もう少し、立てるようになってからだ」
立てるように。澪は、まだ膝をついたままの自分を、見下ろした。立てていない。橡の言う通りだった。
*
その日から、底の者たちの、目が、変わった。
恐れていた目が、縋る目に、なった。あの娘は、手で、楽にしてくれる。病んだ者が、運ばれてきた。咳の止まらぬ老人。
膿んだ傷の男。生まれつき、息の弱い赤子。底には、手当てが、ない。だから、澪の手が、唯一の、望みになった。
澪は、断れなかった。
目の前で苦しむ者がいて、手を置けば楽になるのだと知ってしまった。置かなければ、その者は死ぬ。だから澪は置いた。
咳の止まらぬ老人の背に手を当てると、痰の絡んだ息が、ひとすじ通った。膿んだ傷の男の腕に触れると、熱を持っていた腫れが、半日で引いた。生まれつき息の弱い赤子を抱けば、青かった頬に、薄く色がさした。
そのたびに、底の者が手を合わせた。拝むように。あるいは、許しを乞うように。
けれど、楽にするたび、澪のほうが重くなった。
指先の冷えは、夜まで残るようになった。水底の匂いは、髪にも、衣にも、染みついて取れない。立ちくらみの回数が増え、一度などは、手当てのあと、半日、起き上がれなかった。
引き受けた重さは、どこへも消えない。澪の体の中に、少しずつ、積もっていく。
「やめておけ」と、橡が止めた。「このままでは、お前さんが先につぶれる。糸が、切れるぞ」
「でも、目の前にいるんです」と澪は言った。
それが澪の、いちばんの弱さだった。目の前のひとりを、どうしても見捨てられない。雛のときと、何も変わっていない。底まで降りてきても、澪はやはり、守りたいものを見ると手が伸びてしまう。
たとえ、その手の代わりに、自分の足が黄泉へ沈んでいくのだとしても。橡は、それ以上は止めなかった。止めても無駄だと、もう分かっている顔だった。
斎が、その様子を見ていた。
沈んでいないときの斎は、澪が力を使うたびに、わずかに身じろぎした。澪が黄泉へ半歩近づくと、斎の中の何かも、同じだけ揺れるようだった。澪が手当てを終えて膝をつくと、斎の指も、見えない糸に引かれたように、宙で開いた。
二つの血が、底の闇で、静かに響き合っている。澪が傾けば、斎も傾く。澪が沈めば、斎も沈む。
けれど澪は、それに気づいていなかった。
目の前の病んだ者しか、見ていなかったからだ。一度だけ、手当てのあとに振り返ると、斎が、いつもより深く目を閉じていた。沈んだのだと、澪は思った。
疲れて、また向こうへ引かれたのだと。本当は逆だった。澪が引き受けた重さの分だけ、澪と結ばれた斎も、その重さを、分かち持っていた。
澪を支えるために、自分を、削って。二人とも、相手のために、自分の足を黄泉へ差し出していた。互いに、気づかぬまま。
*
夜。
澪は、郷のはずれの、水たまりのそばに、座っていた。底にも、水は湧く。黒い、よどんだ水。
死者を、流す水。けれど、底の者は、その水で、煮炊きをし、傷を、洗う。ほかに、水が、ないからだ。
澪は、その水面を、のぞきこんだ。
灰の月が、映っていた。底の空にも、月は、ある。薄く、にじんで。澪は、自分の指を、水に、近づけた。
冷えた指先。今日、何人もの重さを、引き受けた指。その指を、水面に、映した。
指が、二本に、見えた。
ひとつは、澪の指。もうひとつは、水の中から、伸びてくる指。澪の指に、触れようと、するように。水面の、向こうから。
澪は、瞬きを、した。指は、一本に、戻った。澪だけの、指。
気のせいだ、と、思おうとした。
けれど、指先の冷たさは、消えなかった。水底の匂いも、まだ、鼻の奥に、あった。澪は、水面に、もう一度、指を、近づけた。
今度は、何も、伸びてこなかった。ただ、自分の指が、黒い水に、映っているだけ。
向こう側に、誰か、いる。
澪は、そう、感じた。水面の、向こう。生者の世界の、裏側。そこに、誰かが、いて、澪の指を、見ている。
引き受けるたび、澪は、その誰かに、少しずつ、近づいている。今日より、明日。明日より、明後日。縫うたびに。
澪は、指を水から引いた。
握りこんで、胸に当てる。冷えた指先が、ゆっくりと温まっていく。生者の体温で。まだ、こちら側だ。
そう思おうとした。まだ、戻ってこられる。けれど、いつまでだろう。何人、縫えばいいのだろう。
縫うたびに、向こう側の指は、少しずつ近くなる。いつか、伸ばした指が、向こうの誰かに、握り返される日が来る。そうなれば澪は、もう、こちらへは戻れない。
それでも、と澪は思った。
橡は言った。むやみに使うな、と。正しい。澪が先につぶれれば、雛も斎も、救えない。
頭では、分かっている。けれど、明日も、誰かが運ばれてくる。紫の唇で、浅い息で。そのとき澪は、また、手を置くのだろう。
見捨てられないから。それが、この血の、業なのかもしれなかった。縫う糸は、縫うことしか、できない。
足音がした。
振り返ると、斎が、立っていた。沈んでいない目で、澪を見ている。澪が郷から離れたのを、追ってきたらしい。
斎は、何も言わず、澪の隣に、腰を下ろした。布一枚ぶんの、距離を空けて。二人で、黒い水を、見た。
「使うな」と、斎が、ぽつりと言った。「お前が、減る」
知っているのだ、と澪は思った。澪が力を使うたび、斎も、削れていることを。澪が黄泉へ傾くたび、斎も、傾いていることを。
二人は、同じ糸の、両端にいる。片方が引かれれば、もう片方も、引かれる。
「あなたこそ」と澪は言った。「沈まないで」
斎は、答えなかった。代わりに、布の上から、澪の手の、すぐ隣に、自分の手を置いた。触れない。
触れないまま、同じ夜気を、吸う。水面の月が、ふたつの影を、にじませて、ゆれた。向こう側の指は、もう、伸びてこなかった。




