第六話 沈む声
斎が、沈んでいる時間が、長くなった。
底へ来て、幾日が過ぎたか。澪は、もう、数えていなかった。坂の壁の光の色で、朝と夕を分けるだけだ。その朝と夕のあいだ、斎は、ほとんど、目を閉じている。
起きていても、遠いものが、差している。澪を見ても、すぐには、気づかない。気づくまでの間が、日に日に、長くなっていた。
橡が言った通りだった。黄泉に近い底ほど、器は弱る。坂を下りた日より、いまのほうが、斎の白い顔は、薄い。
光に透けるように、輪郭が、頼りなくなっていく。澪が、椀の汁を口元へ運んでも、半分も、飲まなくなった。
澪は、斎のそばを離れないようにした。傍にいれば、沈みが緩む。それだけは確かだった。手当てに呼ばれて離れると、戻ったときには、斎はいつもより深く沈んでいた。
だから澪は、病んだ者のもとへ行くときも、できるだけ早く、斎のもとへ帰った。二つの場所に、引き裂かれていた。救うために離れ、沈ませないために戻る。どちらも、置いていけなかった。
けれど、緩めるだけでは、足りない。澪は、斎を引き戻したかった。沈んだ底から、こちら側へ。
緩めて、留めるだけでは、いつか、ほどける。糸は、少しずつ、伸びていた。そのための術が、要る。
引き上げる術が。それが、どこにあるのか、澪は、まだ知らなかった。橡に訊いても、まだ言わん、と返されるだけだった。
その夜、斎が、めずらしく、口をきいた。
「みお」
澪は、はっとして、振り向いた。声に、遠さが、なかった。斎だった。
沈んでいたはずの斎が、浮いてきている。澪は、筵のそばに、にじり寄った。
「斎。いま、どこにいるの」
「闇の、底だ」と斎は言った。掠れた声。「深い。冷たい。誰かが、呼んでいる。古い声で。こっちへ来い、と」
*
斎は、薄く目を開けた。
澪を見ている。けれど、その目は、遠くと近くを行き来していた。一瞬は斎になり、次の一瞬には別の何かになる。
波打ち際のようだった。寄せては引き、また寄せる。斎が浮かんでくる。
そしてまた沈む。澪は、その波の満ちる側を、息をつめて待った。引いていく刹那に呼べば、斎を遠くへ流してしまう気がした。
「斎が、いる」と澪は言った。「いま、ここに、いるよね」
「……いる」斎はうなずいた。それから、苦しげに息を吐いた。「だが、長くはもたない。沈むと、俺じゃなくなる。あれが、出てくる。古い、大きいものが」
「あれって」
「神だ」斎は、目を閉じかけた。「神降ろしで、入ってきたものだ。喰われるはずだった御魂が、お前に止められて、行き場をなくした。それが、俺の中で固まって、神の形になった。いまも、俺を押しのけて、出てこようとしている。底へ来てから、その力が、強くなった。黄泉が、近いからだ。あれは、家へ帰るみたいに、せり上がってくる」
澪は、息を、のんだ。
斎の自我は、消えていなかった。沈んでいるだけだ。底に、押しこめられて。けれど、まだ、ある。
引き上げられる。澪の中に、灯が、ともった。返せる。間に合えば、斎を、斎のまま、取り戻せる。
「引き戻せる」澪は、前へ、にじり寄った。「わたしが、引き戻す。あの、祭壇の夜みたいに。手を――」
「来るな」
斎の声が、鋭くなった。澪は、止まった。
*
斎が、視線を、足元へ、落とした。
その仕草を、澪は、知っている。本心と、逆を言うときの、癖だ。来るな、と言うとき、斎は、いつも、目を、合わせない。澪を、遠ざける言葉を、口にするときだけ。
「置いていけ」と斎は言った。床を、見たまま。「俺は、もう、器だ。中身が、入れ替わりかけてる。引き戻そうとすれば、お前まで、引きずり込まれる。お前の血は、俺とつながってる。俺が沈めば、お前も、沈む」
「知ってる」と澪は言った。「もう、知ってる。同じ糸の、両端だって」
「なら、なぜ」斎の声が、震えた。「なぜ、離れない」
「あなたが、まだ、いるから」
斎は、答えなかった。床に落とした視線が、わずかに、揺れた。伏せた手の指が、ひらいては、また握り込まれた。届かせてはならぬ手を、自分で、押し止める癖。
あの夜、千引岩の庭で、見たのと、同じ。底まで来ても、斎は、変わっていなかった。澪を、遠ざけることで、生かそうとする。
「俺は」と斎は絞り出した。「お前に、生きていてほしい。だから、来るな」
放つ愛だった。突き放すことが、いちばんの優しさだという。喰われる定めを受け入れていた頃から、斎は、何ひとつ変わっていない。自分の死に場所より、澪の明日を選ぶ。
澪の胸の奥が、ひとつ鳴った。突き放されるほど、近づきたくなる。離れろと言われるほど、離れたくなくなる。斎の優しさは、いつも澪を、逆のほうへ動かした。
「あなたは、いつもそう」と澪は言った。「自分が消えるほうを、先に選ぶ。あの夜の祭壇でも。いまも」
「それしか、知らないからだ」斎の声は、静かだった。「俺は、誰かに、何かを、してもらったことがない。だから、返し方も、知らない。遠ざけることしか。それが、俺にできる、たったひとつの」
澪は、唇を噛んだ。返し方を知らない、と斎は言う。底の子どもが置いた小石を、受け取れなかった少年。
もらうことを、許されずに育った器。その手は、与えることも、受け取ることも、習っていない。ただ、手放すことだけを、覚えさせられた。
*
澪は、手を、伸ばした。
触れたかった。布越しではなく。あの夜のように、じかに、斎の頬に。
触れて、引き戻したかった。指先が、斎の頬の、すぐ手前まで、届いた。
その瞬間、斎の目が、沈んだ。
すうっと、遠いものが、差した。斎が、引いていく。波が、返すように。澪が、近づこうとした、まさにその時に。
澪の指は、宙で、止まった。触れれば、引き戻せると、思った。逆だった。澪が、掴もうとすると、斎は、もっと深く、沈んだ。
澪は、手を、引いた。
斎の目が、また、浮いてきた。遠いものが、退く。澪が、手を引くと、斎が、戻ってくる。澪は、それに、気づいた。
掴もうとすれば、逃げる。放せば、戻る。逢瀬と、同じだった。触れようとするほど、遠ざかる。
だから、触れない。触れないまま、待つ。すると、向こうから、わずかに、近づいてくる。
「……いま」と澪は、小さく言った。「掴もうとしたら、あなた、沈んだ」
「掴むな」と斎は言った。今度は、目を、合わせて。「掴まれると、俺は、底へ、逃げる。なぜか、分からない。掴む手から、逃げたくなる。だが、お前が、ただ、そこにいると――浮いて、いられる」
掴むな。澪は、その言葉を、胸に刻んだ。
引き戻すとは、掴むことではないらしい。手を伸ばして、無理に引き寄せれば、斎はかえって底へ逃げる。では、どうすればいいのか。
傍にいて、待つこと。相手が、自分の足で、戻ってくるのを。澪には、まだ、その意味の半分しか分からなかった。
待つだけで、斎は戻ってくるのか。沈み切る前に、間に合うのか。確かなことは、何もない。
それでも、ひとつだけ、体で覚えたことがあった。
掴めば、逃げる。これは、澪の知っているやり方の、逆だった。澪はいつも、守りたいものを、強く握ってきた。雛を、心の底へ沈めて隠した。
大事なものほど、深く、しまった。握って、離さないことが、守ることだと信じてきた。けれど、斎には、それが効かない。
握れば握るほど、すり抜けていく。手のひらを、開いていなければ、留まってくれない。澪の知る「守る」が、ここでは、通じなかった。
ふと、雛のことを、思った。雛も、握りしめて、守ろうとした。結局、奪われた。握る手から、こぼれていった。
もしかしたら、と澪は思う。守るとは、握ることではないのかもしれない。けれど、その先は、まだ、言葉にならなかった。底の闇の中で、何かが、形になりかけて、また、ほどけた。
*
二人は、布一枚の隙間を空けて、並んで、座っていた。
触れない。触れないまま、同じ、底の夜気を、吸う。水鏡は、ここには、届かない。誰も、見ていない。
それでも、澪と斎は、触れなかった。見られているからではない。触れれば、斎が、沈むからだ。
逢瀬の窓は、もう、水鏡の死角ではなかった。斎の、意識の死角。神が、沈む、その一瞬の、隙間。
「あったかい」と、斎が、ぽつりと言った。
何が、と澪は訊かなかった。分かった。布越しの、隙間ごしの、澪の気配。それを斎は、あったかい、と言った。
底の子どもの頭を撫でたときと、同じ言葉。触れられたことのない少年が、触れずに、温もりを知ろうとしている。澪の目の奥が、熱くなった。
逢瀬とは、こういうものだったろうか、と澪は思った。
かつて、千引岩の庭で、二人は逢っていた。水鏡の死角の、息二つ分の隙間で。あのときも、触れなかった。触れれば、双方が死ぬから。
いまも、触れない。触れれば、斎が沈むから。理由は変わった。けれど、距離は、同じだった。
指一本分の、灼けるような隙間。それを越えられないまま、同じ夜気を吸う。底まで来ても、二人は、まだ、あの庭にいた。隙間ごしに、想いだけを、通わせて。
違うのは、いま、見ている者が、いないことだった。水鏡は、ここには届かない。誰も、咎めない。それでも、触れられない。
澪は、その皮肉を、噛みしめた。見られない場所まで、来たのに。触れれば、こんどは、斎自身が、遠くへ行ってしまう。自由になったはずの逢瀬が、前より、もどかしかった。
「斎」と澪は言った。「わたし、あなたを、返す。掴まないで。待つから。あなたが、自分で、戻ってこられるように」
斎は、しばらく、黙っていた。それから、ごく小さく、うなずいた。うなずいてから、また、目を、伏せた。沈む、前ぶれだった。
「みお」と斎は、最後に、言った。「ありがとう。俺を、皿じゃなく、見てくれて」
その声が、底へ、沈んでいった。
*
斎の目から、斎が、消えた。
遠いものが、満ちてくる。瞳の奥が、空になり、そして、別の何かで、満たされる。澪は、息を、つめた。斎の顔のまま、別の何かが、ゆっくりと、こちらを、向いた。
「縫い手よ」
声が、変わっていた。低く、ひろく、古い。何百年もの、底から響くような声。澪の背を、こわばらせる声だった。
「お前は、よく、縫う」と、その声は言った。斎の唇で。「毎日、毎日、誰かの重さを、引き受けて。感心なことだ。お前は、生まれついての、縫い手だな」
「斎を、返して」と澪は言った。声が、震えないように、奥歯を、噛んだ。
「返すと思うか。これは、もう私の器だ」古い声が笑った。斎の喉で。「だが、急がぬ。お前はいずれ、自分から私のところへ来る。縫い手は、縫いすぎると糸が尽きる。尽きれば、こちら側へ堕ちてくる。私はただ、待っていればいい。お前が自分の足で、底へ来るのを」
「斎は、自分の足で、戻ってくる」と澪は言った。「あなたのところへは、行かない」
「強がりを」古い声が、また笑った。斎の口の端を、不自然に吊り上げて。「縫い手よ。お前は、すでに半歩、こちらへ来ている。底の者を、ひとり救うたびに。あの娘の熱を。あの男の傷を。ぜんぶ、お前が引き受けて、こちらへ運んでくる。お前は、自分で気づかぬうちに、私への土産を、せっせと、ためている」
澪の指先が、冷えた。神の言葉は、嘘では、なかった。澪が縫うたび、澪は黄泉へ近づく。救えば救うほど、神の待つ底へ、自分から堕ちていく。
救うことと、沈まないことが、同じ手の中で、引っ張り合っている。神は、それを、知っていた。澪の優しさが、そのまま、神への道になることを。
「だが、案ずるな」古い声は、慈しむように言った。冬の口調に、どこか、似ていた。「堕ちてくれば、楽になる。縫う痛みも、失う恐れも、ぜんぶ消える。お前は、ただ、私の器の隣で、永く、眠ればいい。器と、縫い手。並べて、ひとつに。それが、いちばん、収まりがいい」
澪は、答えなかった。
古い声は、満足げに、目を閉じた。斎の体が脱力し、筵に沈んだ。あとには、底の闇と、澪の冷えた指先だけが、残った。
澪は、その指を、握りこんだ。
縫いすぎると、糸が尽きる。神は、そう言った。澪が、誰かを、救うたびに。澪が、底へ、近づく。
神は、待っている。澪が、自分から、堕ちてくるのを。けれど、と澪は、思った。それでも、明日も、誰かが、運ばれてくる。
それでも、斎を、返したい。掴まずに。待ちながら。
二つの願いが、同じ糸の上で、引っ張り合っていた。救うこと。沈まないこと。
澪は、その糸の、ちょうど、真ん中に、座っていた。底の夜は、まだ、明けなかった。




