第七話 手綱
その朝、底の犬が、坂のほうへ向かって吠えた。
底には、痩せた野良犬が数匹いた。亡骸の匂いを嗅ぎつけて坂を上り下りする犬たちだ。それがいっせいに坂の上を向いて、毛を逆立てている。誰か来る。
澪は、汁をよそう手を止めた。底によそ者は来ない。来るとすれば、狩りだけだ。
繁が鉈を握った。橡が杖をついて立ち上がる。郷の者は手早く火を消し、子を小屋へ隠した。
澪も、斎のそばへ寄った。布越しに、その腕に、手を添える。沈んでいる斎を、誰にも、渡したくなかった。
けれど、坂を下りてきたのは、狩りの一団ではなかった。
ひとりだった。
墨でも緋でもない、旅装の男。深く笠をかぶっている。けれど、その歩き方を、澪はよく知っていた。
穏やかで、無駄がなくて、いつも澪のほうを見ている歩き方。その姿を見たとたん、澪の足が、土に縫いつけられたように動かなくなった。会いたくない者ほど、こんなにも、まっすぐ、追ってくる。
男が、笠を上げた。
「やっと、見つけた」と、直は笑った。再会を喜ぶ、屈託のない笑みだった。「澪」
*
直の姿を見て、底の者たちが、じりと後ずさった。上の者だ、と肌で察したのだ。けれど直は、誰にも、目を向けなかった。
最初から、澪しか、見ていなかった。郷の者も、斎も、直にとっては、背景でしかない。その視野の狭さが、かえって、底冷えのする圧になった。
直は、ひとりでは、なかった。
その腕に、小さな体を抱えていた。薄い、白い衣の。澪の心の臓が、跳ねた。
「雛」
雛だった。痩せて、顔色は悪い。けれど、生きていた。
直の腕の中で、ぐったりとしている。眠っているのか、薬で眠らされているのか。澪が駆け寄ろうとすると、直は雛を抱えた腕を、わずかに引いた。
それだけで、澪の足が止まった。近づけば、雛が遠ざかる。一歩の駆け引きを、直は、片腕だけで、やってのけた。
「ねえちゃ……」
雛が、薄く目を開けた。澪を見つけて、唇だけで、そう動かした。声にはならなかった。
それでも澪には、聞こえた気がした。ねえちゃ、と。その二音が、澪の胸をえぐった。
あの夜、鶚の後ろへ逃がした手。届かなかった手。いま、すぐそこにあるのに、また、届かない。
「いい子で、待ってたよ」と直は、雛の髪を撫でた。優しい手つきで。「俺の家で、ちゃんと面倒を見てる。咳の薬も飲ませてる。葦境にいた頃より、いいものを食べさせてるくらいだ」
直の声は、穏やかだった。怒鳴りもせず、責めもしない。ただ優しく、恐ろしいことを言う。
雛は、人質だった。手厚く世話をされた、人質。
*
繁が、鉈を構えたまま、進み出た。「上の者が、何の用だ。ここは、お前たちの来る場所じゃない」
「ああ、すまない」直は、繁へ、柔らかく笑いかけた。敵意の、かけらもない笑みだった。「俺は、ただ、この娘の、幼馴染でね。連れ戻しに来ただけだ。手荒なことは、しない。それと――あんたら、上に、知られたくないんだろう。ここに、こんな郷があることを。俺は、誰にも、言わない。約束する。この娘を、返してくれさえすれば」
繁の手が、止まった。直の言葉には、刃がなかった。代わりに、底の弱みを、そっと、握っていた。郷の在処を知る者が、ひとり、増えた。
その者の口を、塞ぐ縄は、澪だった。直は、底の者まで、澪を返させる側に、回らせようとしていた。優しい声で、郷を、人質に取っていた。
「澪」と直は、また澪を見た。「迎えに来た。帰ろう。三人で」
「三人」
「お前と、雛と、俺だ」直は、にっこりと、笑った。「もう、誰も、知らないところへ行こう。山の奥でも、海の向こうでもいい。水鏡の届かない場所で、三人で、暮らすんだ。お前が、子どもの頃に、夢見てたみたいに。覚えてるだろう。いつか、雛と、静かに暮らしたいって」
覚えていた。葦境の、貧しい家で。隠れて、潜って、息を殺して暮らした日々。
いつか、誰の目も気にせず、雛と穏やかに暮らせたら、と。澪が、たった一度だけ、口にした夢だった。井戸端で、直にだけ、こぼした。
たぶん、九つか、十の頃だ。直は、それを、いまも、覚えていた。澪自身が、忘れかけていた夢を。
ずるい、と澪は思った。
それは、本物の餌だった。嘘ではないから、効く。直は、澪の欲しいものを、誰よりも、知っていた。だから、差し出すものを、間違えない。
脅すのではなく、与える。澪の渇いている場所へ、ちょうど、水を、注いでくる。取れば、楽になると、分かっている。
分かっていて、なお、取れない。取れば、その水と引き換えに、澪は、檻に入る。子どもの頃の夢の形をした、いちばん、優しい檻に。
直の目が、ふと、澪の後ろの斎へ、向いた。
筵の上の、白い影。痩せて、薄く、沈んでいる依代。直は、それを、しばらく見ていた。値踏みするような目だった。
脅威かどうかを、測る目。やがて直は、ふっと、肩の力を抜いた。あんなものは敵ではない、と判じた顔だった。
「あの依代を、置いていけ」直は、斎のほうを顎で示した。「あんなもの、お前をすり減らすだけだ。見ろよ。お前、もうぼろぼろじゃないか。指先まで、白くなって。あれに関わってから、お前は、いいことが、ひとつもない」
直の目が、澪の手を、見ていた。繕い手の、白んだ指先を。澪が、何をしているか、直は、もう、知っていた。底に来てから、ずっと、見ていたのだ。
どこかから。澪が、誰かを救うたび。澪が、すり減るたび。
「お前は、いつも、そうだ」直の声が、わずかに、低くなった。「自分を、後回しにする。雛のために。今度は、あの器のために。お前が、お前のために、何かをしたことが、一度でも、あるか」
返す言葉が、なかった。直の言うことは、半分、当たっていた。
*
「来れば、雛を、返す」と直は言った。「来なければ」
直は、言葉を、切った。
その先を、言わなかった。言わないことが、いちばん、恐ろしかった。雛を抱えた腕に、ほんの少し、力が、こもった。それだけで、澪には、伝わった。
来なければ、雛は、どうなるか。直は、口にしなかった。口にせずに、澪の首に、縄をかけた。
「卑怯」と澪は、絞り出した。「雛を、使うなんて」
「卑怯、か」直は、不思議そうに首を傾げた。「俺は、雛を助けたんだぞ。あの混乱の中でな。お前が依代に走った、あの夜に。お前が捨てていった雛を、俺が拾った。世話をして、薬を飲ませて、生かしている。それを卑怯と言うのか」
澪は、言葉に、つまった。
直の理屈は、ねじれていた。けれど、ねじれの中に、刺さるものが、あった。あの夜、澪は、斎へ走った。雛を、鶚に託して。
そして、雛は、奪われた。直は、それを、拾ったと言う。澪が、選ばなかったほうを。澪が、捨てたほうを。
「俺は、お前を、責めてるんじゃない」直は、また、優しく、笑った。「お前は、斎を選んだ。いいんだ。それでいい。お前は、優しすぎて、目の前のものを、放っておけない。だから、俺が、雛を、預かってる。お前の代わりに。お前が、雛を、思い出さなくて、いいように」
思い出さなくていいように。澪の背が、こわばった。直は、雛を、澪から、切り離そうとしていた。
澪の心配ごとを、ひとつ、肩代わりするふりをして。澪を、雛から、自由にするふりをして。本当は、雛を、鎖にして、澪を、つなごうとしていた。
*
「直」と澪は言った。「あなたは、変わってない」
「ああ。変わらない」直は、迷いなくうなずいた。「お前への気持ちは、子どもの頃から、ひとつも変わってない。お前を守りたい。お前を、誰にも渡したくない。それの、どこが悪い」
悪い、と、澪は、思った。けれど、その悪さを、直は、微塵も、疑っていなかった。己の愛が、いちばん、純粋だと、信じきっていた。澪を、所有することが、愛することだと。
澪は、その目を、見た。穏やかで、温かくて、底の見えない目。あの目の中に、澪は、自分の影を、見た気がした。
もし、と澪は思った。
もし、わたしが一線を越えていたら。雛を守るために、なりふり構わず誰かを犠牲にしていたら。斎を救うために、世界そのものを壊そうとしていたら。
わたしも、こうなっていたかもしれない。直は、澪のなりそこねた姿だった。愛を握りしめて、放さなかった、もうひとりの澪。
恐ろしかったのは、直の言葉が、澪の中の何かと、響き合うことだった。底へ来て、澪の中に、小さな声が、生まれていた。いっそ、全部、終わらせてしまえたら。
雛も、斎も、自分も、苦しまずに済むように。世界ごと、引き裂いてしまえたら。澪は、その声を、振り払ってきた。
けれど、声は、消えなかった。直は、その声を、外から、形にした男だった。だから、直を見ていると、澪は、自分の奥を、覗かされている気がした。
その鏡像が、いま、澪に手を差し伸べている。お前も、こちらへ来い、と。
「お前は、もう、十分、すり減った」直は、雛を抱えたまま、片手を、澪のほうへ、伸ばした。「繕い手なんかに、なる前に。糸が、尽きる前に。俺が、連れて帰る。雛と、三人で。なあ、澪。手を、取れよ。それで、全部、終わる」
澪は、その手を、見た。
差し伸べられた、直の手。取れば、雛が、戻る。取れば、すり減ることも、なくなる。取れば、楽になる。
神も、同じことを、言った。堕ちてくれば、楽になる、と。直の手と、神の声が、澪の中で、重なった。
どちらも、楽を、差し出していた。どちらも、澪を、終わらせようとしていた。違う形で。
澪は、後ろを振り返った。
筵の上で、斎が、こちらを見ていた。沈んでいない目で。何も言わなかった。
来るな、とも、行くな、とも。直のように、手を伸ばしもしなかった。ただ、見ていた。
澪が選ぶのを、待っていた。引き止めれば、澪の重荷になると知っているから、何も言わない。それが、斎のやり方だった。
斎は、いつも放つ。澪を、自由にする。直は、いつも囲う。澪を、つなぐ。
片方は、何も言わずに待ち、片方は、優しい言葉で縛る。澪は、その二つの手の、ちょうど真ん中に、立っていた。差し伸べられた手を取らず、待つ手のほうへも、まだ行けずに。
「雛」と澪は、妹に、呼びかけた。「すぐ、迎えに行く。約束する」
直の手は、取らなかった。
直の笑みが、ほんの少し、固まった。穏やかな表情の、奥で、瞳だけが、動かなくなった。澪が、斎を見たときの、あの目。嫉妬の、目だった。
「……すぐに、とは、いつだ」直の声は、まだ、穏やかだった。「澪。あんまり、俺を、待たせるなよ。雛は、預かってる。俺の機嫌が、いいあいだは、大事にね。だが、俺は、気が長いほうじゃ、ないんだ。知ってるだろう」
澪は、何も言えなかった。言い返せば、雛の腕に、また力がこもる。それが、分かっていた。
沈黙が、いちばんの、降伏に見えることも。直は、その沈黙を、好きなように、受け取った。
直は、雛を抱え直し、坂のほうへ背を向けた。
「考えておけ。次に来るときは、答えを、聞かせてくれ」直は、振り返らずに、言った。「それと――その依代、早く、置いていけ。次は、俺が、置いてやる。お前のために」
その言葉を、残して、直は、坂を、上っていった。雛の、薄い白衣が、闇に、紛れて、消えた。澪は、その場に、膝を、ついた。
泥が、衣に、染みた。手を、伸ばせば、届きそうだった雛が、また、遠ざかった。
握れば、逃げる。澪は、斎で、それを学んだ。掴もうとするほど、斎は底へ沈んだ。手を開いて、待つしかなかった。
けれど、雛は、逆だ。握らなければ、奪われる。げんに、握る手を緩めた夜に、奪われた。二つの教えが、澪の中で、真っ向から、ぶつかった。
放て、と、握れ、と。どちらが正しいのか。澪には、まだ分からなかった。
橡が、いつのまにか、澪の隣に、立っていた。
「鴉、と呼ばれる男だな」と、老人は、坂の上を見て、つぶやいた。「囲う者の目だ。あれは、お前さんを、愛していないわけじゃない。愛し方を、間違えているだけだ。いちばん、たちが悪い」
「分かっています」と澪は言った。「あの人が、いちばん、こわい。憎めないから」
「憎めないものほど、断ち切れん」橡は、うなずいた。「だが、断たねば、お前さんも、あの男のようになる。握って、握って、最後に、何もかも、潰す」
澪は、自分の手を、見た。白んだ、繕い手の指。雛を握りたい手。
斎を放さねばならぬ手。同じ、ひとつの手だった。
底の犬が、坂の上に向かって、もう一度、低く唸った。雛の薄い白衣の影は、もう、どこにも、なかった。




