第八話 織津姫
その夜、橡が、澪を、火の奥の小屋へ、呼んだ。
直が去ってから、三日が過ぎていた。澪の指は、もう、もとの色に戻らなかった。手当てを重ねた指先は、白いまま。
橡は、それを、見ていた。澪が、もう「立てる」と、判じたらしかった。
小屋は、狭かった。土の壁に、古い布が何枚も貼られている。布には、絵が描いてあった。色は、ほとんど褪せている。
糸を繰る女の絵。坂を下りていく女の絵。いちばん奥の布には、その女が、暗い水のなかで、両手を広げている絵があった。手のひらから、細い線が、何本も伸びている。
糸のようだった。澪には、それが何の絵か、まだ分からなかった。けれど、目を、離せなかった。
「織津姫さまだ」と、橡が、澪の視線を追って言った。「ここの者が、代々、描き継いできた。上が焼いた絵を、覚えている者が、また、描く。消されても、消されても。それが、底の、抗い方だ」
「そこへ座れ」と橡は言った。「長い話に、なる」
澪は、座った。斎を背にかばうように。斎は筵で、浅く息をしている。
沈んでいる。けれど澪がそばにいれば、深くは沈まない。眠る子のそばを、離れられない母のように、澪は、その背を、いつも、気にしていた。
橡は、しばらく火を見つめていた。それから、ゆっくりと、語りはじめた。
*
「昔、世界は、一枚の、布だった」
橡の声は、低く、節をつけるように、流れた。語りというより、唄に、近かった。口伝とは、こういうものか、と澪は思った。何百年も、口から口へ、渡ってきた言葉。
「織津姫という女神が、それを織った。日輪を機にしてな。糸の一本一本が季節になり、昼と夜になり、生と死の境になった。だが織りあがった布の端から、ほつれが出た。黄泉が滲んできたんだ。死の国が、生者の世界へ染み出してきた」
澪は、黙って聞いていた。建国の神話なら、上でも習った。けれど橡の語りは、上のそれとは、どこか違っていた。同じ女神の名を語っているのに、その姿が、まるきり別のものに見えてくる。
「織津姫は、そのほつれを縫いに行った」橡は続けた。「自分の足で黄泉比良坂を下りてな。死の国のいちばん底まで。そこで自分の血を糸にして、境を縫い止めた。世界が黄泉に呑まれないように、と」
「上でも、そう習いました」と澪は言った。「織津姫さまは黄泉に降りて還れなくなり、その血が地に滴って、最初の穢れになった、と。だから穢れは忌むものだと」
「そこが嘘だ」
橡の声が、低く鋭くなった。語りの唄が、ふいに止まった。
*
「織津姫の血は、穢れじゃない。縫い糸だ」橡は言った。「世界のほつれを縫う糸。穢れと呼ばれているものこそ、本当は世界を支えている。上は、それをそっくり裏返したのさ」
澪の息が、止まった。
「なぜ、裏返したんですか」と、やっと言った。
「縫い糸を、独り占めしたかったからだ」橡は、火に枯れ枝をくべた。「いいか。織津姫の血を引く者は、世界を繕える。境を保てる。たいへんな力だ。その力を持つ者が大勢いたら、どうなる。誰も、上の言うことなど聞かなくなる。世界を支えているのは自分たちだと、気づいてしまうからな」
火が、爆ぜた。
「だから上は、その血を穢れと呼んで狩った。隔てた。語り部を殺し、書を焼いた。そして残った血を、贄として喰ってきた」橡の声が、底へ沈むように低くなった。「比良坂の儀だ。あれは世界を繕う儀じゃない。縫い手を喰う儀だ。縫い手を喰えば、世界はどうなると思う」
「……ほつれが、広がる」澪は、声を絞り出した。
「そうだ」橡はうなずいた。「綻びは、儀のせいで早まっている。境が薄れ、季節が狂い、村が黄泉に呑まれていく。上は、それを止めるために儀をやっていると言う。逆だよ。儀が、綻びを進めている。縫い手を喰いながら、ほつれが広がると騒いでいる。喰うのをやめれば、それで済む話なのにな。世界を救うふりをして、世界を、いちばん壊しているのが、上なんだ」
*
澪は、自分の手を、見た。
白んだ指先。禊で、水を弾いた手。底で、何人もの重さを、引き受けた手。
穢れだと、蔑まれてきた手。それが、世界を、縫う糸だという。
「わたしの血は」と澪は言った。「織津姫さまの」
「お前さんは、その血の、最後の濃い一滴だ」橡は、澪をまっすぐ見た。澄んだ目で。「上が長いこと狩り続けて、薄めて薄めて、それでも消しきれなかった一滴。それが、お前さんだ。母から、そのまた母から、細い糸でたどってきた血だ。だからお前さんは、禊で水を弾いた。だから触れた者の重さを引き受けられる。生まれついての、繕い手なんだよ」
澪は、自分の体が、急に重くなった気がした。
世界を縫う糸。最後の一滴。そんなものを背負わされて、ここに座っている。澪はただ、雛を守りたかっただけだった。
目立たず、隠れて、生きたかっただけだ。それが、いつのまにか、世界を支える血になっていた。望んでもいないのに。
母の顔が、浮かんだ。声を殺して泣く人だった。父の穢れた死を隠し、賄賂で身分を守り、雛と澪を、ぎりぎりの常民の縁に、つなぎ止めてきた。母も、この血を、引いていた。
母は、知っていたのだろうか。自分が、世界を縫う糸の、途中の一目だと。たぶん、知らなかった。
知らずに、ただ、子を守るために、隠し通した。澪と、同じだ。隠して、隠して、何も知らされぬまま、底まで、流れてきた。
「縫う力には」橡は、声を、落とした。「代償がある。お前さんも、もう、知ってるだろう。縫うたびに、お前さんは、黄泉に、近づく。命を、削って、縫う。だから、織津姫は、還れなかった。縫い切って、自分が、黄泉に、行ってしまった。糸は、いつか、尽きる。お前さんも、縫いすぎれば、向こうへ、行く」
神の声が、澪の耳によみがえった。縫いすぎると、糸が尽きる。尽きれば、こちら側へ堕ちてくる。
神は、本当のことを言っていた。澪を、待っている。澪が自分から、すり減って堕ちてくるのを。
底の者を救うたび、斎を縫い止めるたび、澪は、その声のほうへ、一歩ずつ、近づいている。優しさが、そのまま、彼岸への道になる。これほど、たちの悪い罠は、なかった。
*
「斎は」と澪は、背の斎を、見た。「斎は、どうなんですか。なぜ、沈むんですか」
橡の目が、斎へ、移った。憐れむような、目だった。
「あの器は、中途半端になってる」と橡は言った。「神降ろしが、途中で止まったからだ。お前さんが止めた。あの祭壇の夜にな」
「はい」
「神降ろしってのは、喰った御魂を器に注ぎ込む儀だ。注ぎ切れば、器の中身は消えて、神が入る。だが、お前さんが止めた。御魂は半分だけ入って、行き場をなくした。それが器の中で固まって、神の形になった。半分は神で、半分は、まだ、あの少年のままだ。どっちつかずの、まま留まっている」
澪の、胸が、鳴った。
「斎は」と、澪は前のめりになった。膝で、にじり寄っていた。「斎は、消えてないんですね。まだ、いるんですね。あの中に」
「いる」橡は、うなずいた。「中に、沈んでるだけだ。神に、押しこめられて。だが、消えては、いない」橡は、澪を、見た。「そして、お前さんの血が、あの少年を、つなぎ止めてる。お前さんが、そばにいるから、神に、喰い尽くされずに、いられる。お前さんは、糸で、あの少年を、縫い止めてるんだ。気づかぬ、うちに」
返せる、と澪は思った。
斎は、消えていない。沈んでいるだけだ。澪の血が、縫い止めている。なら、引き上げられる。
掴まずに、待って。澪の中に、灯がともった。あの夜の小さな火が、いま、はっきりと燃えた。
けれど、灯ったのと同じ瞬間に、澪は、もうひとつのことを、悟ってしまった。
冬が、なぜ、自分を殺さずにいるのか。なぜ、宮で花嫁と呼び、芯に据えると言ったのか。世界を縫う糸が、澪の中にある。最後の、濃い一滴。
冬は、それを、欲しがっている。殺すためではない。使うためだ。澪を、いちばん尊い贄として、世界の縫い目に、捧げさせるために。
橡の話は、澪に希望をくれた。同じ話が、冬には、澪を使う口実を、与えていた。同じ真実が、灯にも、罠にも、なる。澪は、その両方を、いっぺんに、抱えてしまった。
*
けれど、と、橡は、続けた。
「ひとつ、覚えておけ」老人の声が低くなった。「お前さんが糸であの少年をつなぎ止めているということは、つなぐぶんだけ、お前さんが削れるということだ。あの器を引き上げようとすれば、お前さんはもっと削れる。へたをすれば、引き上げる前に、お前さんのほうが先に、向こうへ行く」
澪は、唇を噛んだ。
斎を返したい。雛も取り戻したい。底の者も救いたい。けれど、そのどれもが、澪を削る。
澪自身が、糸だからだ。糸は、縫えば縫うほど短くなる。欲しいものを全部抱えれば、糸はすぐに尽きる。澪は、世界でいちばん、すり減りやすい場所に立っていた。
四つの真実が、澪の中で、ゆっくりと、形になっていった。
穢れは、救い手だった。澪の血は、世界を縫う糸だった。その糸は、縫うたびに澪の命を削る。そして斎は、消えてはいない。
半分だけ、まだ斎のまま、内に沈んでいる。澪が、糸で、つなぎ止めている。ひとつずつは、ばらばらの石のようだった。
けれど並べると、ひとすじの、細い道に見えた。斎を返す道。ただし、その道の先で、澪自身が、尽きるかもしれない道。
「なぜ、いままで、教えてくれなかったんですか」と澪は言った。
「教えれば、お前さんは世を背負おうとする」橡は、ゆっくり言った。「全部を縫おうとする。誰も彼もを救おうとして、そしてつぶれる。だから、立てるようになるまで待った。いまのお前さんなら、選べる。何を縫って、何を縫わないか。その、糸の使い道を」
選ぶ。澪は、その言葉を胸の中で繰り返した。全部は救えない。
糸には、限りがある。だから、選ぶしかない。
けれど、選ぶというのは、捨てるということでもあった。斎を選べば、底の者を、見捨てる。底の者を縫えば、斎に届く前に、糸が尽きる。
雛を取りに行けば、その間に、どちらも、沈むかもしれない。澪は、これまで、選んでこなかった。目の前のものに、片端から、手を伸ばしてきた。
それが、優しさだと思っていた。けれど橡は、選べと言う。選ばなければ、何も、救えないと。
「わたしは」と澪は言った。声が、少し、震えた。「選ぶのが、いちばん、苦手です」
「知っている」橡は、薄く笑った。皺の奥の、澄んだ目で。「だから、いちばん、向いているのかもしれん。何も捨てたくない者ほど、捨て方を、真剣に、考えるからな」
*
そのとき。
小屋の戸口の、布が、めくれた。底の、湿った風が、入ってきた。火が、ゆれた。
「いい話を、聞かせてもらった」
穏やかな、声だった。澪の、背が、こわばった。聞き覚えのある声。
けれど、ここに、あるはずのない声。澪は、振り返った。
戸口に、白い衣の男が、立っていた。
笏を、手に。供も、連れず。慈しむような、目をして。天津宮の、いちばん高いところにいるはずの男が、世界の、いちばん底の、小屋の戸口に、立っていた。
「冬」と澪は、つぶやいた。
繁が、鉈に手をかけた。橡が、杖を握り直す。けれど冬は、誰のほうも見なかった。
武器も、供も、要らないという顔だった。ここでは、誰も自分に手を出せないと、知り抜いている静けさだった。
「ようやく追いついた。いや、それは正しくないな」冬は微笑んだ。「私はずっと、お前をここへ来させたかったんだ。お前が、自分の血を知る場所へ。知らなければ、選べないからね。宮の門を開けておいたのも、追わずにいたのも、みな、そのためだ。お前が底まで降りて、橡の話を聞き終えるのを、私は、待っていた」
澪の背が、冷えた。脱出も、降下も、真実を知ることも、全部、この男が、見越していた。澪が必死で掴んだと思った一歩は、最初から、冬の引いた線の上にあった。
「さあ、澪。お前は、いますべてを知った」冬の目が、火明かりの中で澪を見た。慈しみの奥で、瞳の動きだけが、止まっていた。台帳の数字を確かめる、あの目だった。「知った上で、選べる。世界を救う糸に、自らなるかどうかを。さあ、選ぼうか。世界のために」
底の夜が、いっそう、深くなった。澪は、知ってしまった真実の重さと、戸口に立つ男の静けさの、ちょうど、あいだに、座っていた。逃げてきた先に、追ってきたのではない。
最初から、ここで、待っていた。脱出も、降下も、真実を知ることも、全部、この男の、掌の上だった。




