第九話 贄の誉れ
冬は、小屋には、入ってこなかった。
戸口の布をくぐらず、外に立ったまま、澪を呼んだ。穢れの郷の小屋へは、足を踏み入れない。そういう線を、この男は、けっして、踏み越えない。
澪は、立ち上がった。斎を、橡に、目で託す。それから、戸口を、出た。
外は、底の夜だった。坂の壁の高みに、灰色の月が、にじんでいる。冬は、その下で、待っていた。笏を、片手に。
供も、衛士も、連れずに。世界の頂にいる男が、世界の底に、ひとりで立っている。その姿は、どこか、現実離れして、見えた。
「歩こうか」と冬は言った。「少し、二人で」
澪は、断れなかった。背くという選び方が、この男の前では、なぜか思い浮かばない。声を荒らげもせず、刃も見せず、ただ穏やかに誘う。その静けさが、いちばん、抗いにくかった。
澪は、冬の半歩後ろを歩いた。郷の火が、遠ざかる。亡骸を捨てる黒い水たまりのほうへ、二人は歩いていった。背後で、橡が、こちらを見ているのが、わかった。
助けには、来ない。来られないのだ。底の古老に、大織主を止める力は、ない。
*
「あの絵を、見たろう」と冬は言った。歩きながら。「小屋の、織津姫の絵だ。底の者が、代々、描き継いでいる。健気なものだね。私は、あれを、焼かせなかった。知っているか」
「焼かなかった、のですか」
「焼けば消えると思うのは、浅い者のやり方だ」冬は、月を見上げた。「焼けば、底の者はまた描く。消すほど、強く信じるものだ。だから私は、残させた。ただの昔話にしておく。誰も本気にしない古い絵にね。そのほうが、いちばん、よく消える」
澪の背を、寒けが、通った。
冬は、嘘を、ついていなかった。底の口伝も、織津姫の絵も、すべて、知っていた。知った上で、泳がせていた。
狩るより、放っておくほうが、無害だと、見抜いて。橡の語った真実は、冬にとって、隠すべき秘密ですら、なかった。ただの、御しやすい、昔話だった。
「なら」と澪は言った。「わたしが、聞いたことも」
「ぜんぶ、本当だ」冬は、あっさりと、うなずいた。「お前の血が、世界を縫う糸だということ。儀が、縫い手を喰っていること。綻びが、そのせいで、早まっていること。ぜんぶ、本当だよ。私は、嘘で、世界を回しているわけじゃない。本当のことを、別の言い方に、するだけだ」
*
「綻びは、進んでいる」冬は、黒い水たまりの縁で足を止めた。「お前も見てきただろう。葦境の村は流行り病で半分になった。北の田は季節を間違えて実らなかった。穢野は年々広がっている。境が薄れているんだ。このままでは、いつか黄泉がすべてを呑む。万人が死ぬ」
水たまりに、月がにじんでいた。澪は、その黒い水を見た。底の者が煮炊きに使い、死者を流す水だ。
「それを止められる者が、ひとりだけいる」冬は、澪を見た。「お前だよ、澪。お前の血が、ほつれを縫える。お前が自分からその血を世界の縫い目に捧げれば、たった一人の犠牲で、万人が助かる。これほど尊い行いが、ほかにあるか」
澪は、答えられなかった。
冬の言葉は、ねじれていなかった。直のように、無理に曲げてはいない。まっすぐで、筋が通っていた。
だからこそ、刃のように刺さった。澪が底で何人もの重さを引き受けたのは、目の前の苦しむ者を放っておけなかったからだ。その澪に、万人が黄泉に呑まれると言われて、知らんふりができるか。
できない。冬は、それを見抜いていた。澪の優しさを、そっくりそのまま、澪を縛る縄に使っていた。
「お前は、優しい」と冬は、澪の心を読んだように言った。「底へ来て、病んだ者を片端から救ったそうだな。自分がすり減るのも構わずに。なら、分かるはずだ。目の前のひとりを救う手が、お前にはある。その同じ手で、万人を救えるんだ。お前はただ、もう少し大きく手を伸ばせばいい。世界のぜんぶに、届くまで」
冬の声には、熱がなかった。ただ、事実を並べるように、澪の善意を、ひとつずつ、数え上げていく。優しいね。
立派だね。お前にしかできない。褒められるたびに、澪は、逃げ場を、ひとつずつ、ふさがれていく気がした。
*
それは、誘いの形を、していなかった。
讃える、形をしていた。お前は、優しい。お前は、特別だ。お前にしか、できない。
冬は、澪を、追いつめるのではなく、持ち上げた。高く、高く。世界を救う、聖なる犠牲の、座へ。そこへ、自分から、上っていきたくなるように。
澪は、足元が、ぐらつく気がした。
底の者を救うたびに、感じた、あの感覚に、似ていた。誰かを楽にすると、澪自身が、少し、軽くなった。役に立っている。意味がある。
その心地よさを、澪は、知っていた。冬は、その心地よさの、いちばん大きいものを、差し出していた。万人を救った者、という。自分を、ぜんぶ、明け渡せば、手に入る、いちばん尊い、誉れ。
これは、罠だ。澪は、頭の隅で、そう思った。
自分を消すことを、誉れと呼ばせる罠だ。死ぬことを、愛と義務だと思わせる罠。けれど、頭で分かっていても、心の一部が、その声に引かれていた。楽になりたかった。
もう、選ばなくて済むなら。すり減りながら迷い続けなくて済むなら。世界のために、と一度だけ目をつぶれば、この苦しさから、降りられる。
おそろしいのは、その誘いが、外から来るのではないことだった。澪自身の中の、いちばん疲れた場所が、その声に、うなずきたがっていた。冬は、ただ、その場所に、そっと、火を、近づけただけだ。
脅されたなら、はねのけられた。けれど、褒められ、認められ、頼られると、はねのける手が、にぶる。これが、いちばん優しい顔をした、いちばん深い穴だった。
「わたしが、捧げたら」と澪は、声を、絞った。「斎は」
「器は、空になる」冬は、静かに言った。「お前という糸がなくなれば、あの器をつなぐものは、ない。神が満ちて、あの少年は消える。だが考えてもみろ。お前が世界を救えば、あの少年の死も無駄にはならない。尊い儀の、一部になるのだ」
澪の中で、何かが、固まった。
*
斎は、消える。
冬は、そう言った。澪が、自分を捧げれば、斎は、消える。半分だけ残った、あの少年が。
底の子どもの頭を撫でた、あの手が。あったかい、と言った、あの声が。澪が、世界を救う、その代わりに。
引かれていた心が、急に、冷めた。
楽になりたい、という声が、遠ざかった。代わりに、橡の言葉が、よみがえった。縫うとは、選ぶことだ。
何を縫って、何を、縫わないか。冬は、澪に、全部を、捧げさせようとしている。澪が、いちばん、縫いたいものごと。
斎ごと、雛ごと、自分を、世界の縫い目に、溶かそうとしている。それは、選ぶことの、逆だった。全部を、いっぺんに、手放すことだった。
「いやです」と澪は言った。
声は、小さかった。けれど、震えては、いなかった。冬の眉が、わずかに、動いた。
慈しむような目のまま、瞳の動きが、止まった。澪を、量る目。この娘は、どう動くか、と。
「いや、とは」冬は、首を、傾げた。「万人を、見殺しにするのか。お前の、その優しさで」
「万人を救うために斎を消すなら」澪は、冬を見返した。「それは、わたしの優しさじゃない。あなたの欲しい犠牲を、優しさと呼んでいるだけです」
「ほう」冬は、わずかに、目を細めた。
「底で、わかったことがあります」澪は、続けた。声が、だんだん、定まってきた。「あなたは、万人と、ひと握り、どちらを選ぶと、言いました。前にも。でも、底から見ると、人は、数じゃないんです。ひとつずつの、顔です。あなたは、塔のいちばん上にいて、顔が、見えない。だから、万人とか、ひと握りとか、数で、言える。底には、数えられる人なんて、いない。みんな、名前があって、咳をして、子に飯を食わせてる。その、ひとりの斎を消して救う万人って、誰のことなんですか」
冬は、答えなかった。
その沈黙は、澪の勝ちではなかった。論理で冬を負かせたわけではない。冬の言うことは、やはり筋が通っている。
万人が危ういのは、嘘ではない。けれど、澪は、負けてもいなかった。冬の数の論理に、底の顔を、突き返した。
それだけで、いまは、足りた。完全には、丸めこまれない。その一点を、澪は、守った。
*
冬は、しばらく、澪を、見ていた。
怒りは、なかった。感心したような、静けさだけが、あった。笏の柄を、親指で、ゆっくりと、撫でる。それから、ふっと、息を、吐いた。
「お前の母も、同じことを、言った」
澪の、息が、止まった。
「母を、知っているんですか」
「知っているとも」冬は、月を見上げた。「あれも、強い娘だった。黄泉の血を、引いていた。だが、あれは、隠すことを、選んだ。穢れた死を、病死と偽り、お前と、妹を、守るために、自分の血を、闇に、沈めた。隠れて、隠れて、生きた。お前と、よく、似ている」
母の顔が、澪の中に、浮かんだ。声を殺して、泣く人。賄賂で、戸の帳を、書き換えた人。
あの人も、黄泉の血を、知っていたのか。知って、隠したのか。澪のために。
「お前の母が隠したぶん、お前が表に出ることになった」冬は、穏やかに言った。「皮肉なものだ。母が守ろうとして隠した血が、いま、世界でいちばん目立つ場所にある。母の苦労を無駄にするか、澪。それとも、母も知らなかった本当の意味を、お前が果たすか」
母を、餌にしていた。
澪は、それに気づいた。冬は、澪のいちばん柔らかいところを、よく知っていた。母。雛。
斎。澪が守りたいものを、ひとつずつ並べて、揺さぶってくる。脅すのではなく、その大切なものを使って、澪が自分から進み出るように、仕向ける。直の囲い方とは、違った。
直は、雛を握って澪を引き寄せた。冬は、澪の優しさそのものを握って、澪を押し出す。引くか、押すか。やり方は逆でも、澪を、檻へ入れようとするのは、同じだった。
*
冬は、坂のほうへ、背を向けた。
「今日は、ここまでにしよう」と冬は言った。「急ぐ話では、ない。お前が、自分で、選ぶことに、意味があるのだから。脅して、捧げさせても、糸は、よく、縫えない。本人が、心から、捧げてこそだ」
去り際、冬は、ひとこと、添えた。
「ああ、そうだ。雛のことだが」冬は、振り返らずに、言った。「あの子は、いま、直の手の中だね。気の毒に。あの男の、機嫌ひとつで、どうなるか、分からない。だが、案ずるな。お前が、誉れを、選んでくれれば。私が、直から、雛を、取り戻してやろう。私の力なら、できる。雛を、安全な場所で、育ててやる。お前が、世界のために、いなくなった、あとも」
救いと、服従が、同じ手で、差し出されていた。
雛を、返してほしければ、自分を、捧げろ。冬は、そう言っていた。優しい言葉で。脅すのでは、なく。
澪の、いちばんの願いを、人質に取って。澪は、その場に、立ち尽くした。冬の白い衣が、坂を上り、底の闇に、溶けて、消えた。
澪は、自分の手を、見た。
縫う糸の、手。母から、受け継いだ手。この手を、世界に、捧げれば、雛が、戻る。万人が、救われる。
斎は、消える。澪は、いなくなる。すべてが、丸く、収まる。冬の言う通りに、すれば。
握れば、逃げる。放せば、戻る。捧げれば、救われる。
いくつもの声が、澪の中で絡まり合っていた。どれが本当の縫い方なのか、澪には、まだほどけなかった。
ただ、ひとつだけ、決めたことがあった。冬の言う「誉れ」は、選ばない。自分を、まるごと世界に溶かして消えるのは、縫うことではない。それは、ほどけることだ。
糸が、ぷつりと切れて、何も残らない。橡は言った。縫うとは、選ぶことだと。捧げて消えるのは、選ぶことを、やめることだ。
澪は、まだ、選ぶことを、やめたくなかった。斎を。雛を。
底の、火を囲む者たちを。自分の手で、選びたかった。たとえ、すり減っても。
橡が、いつのまにか、小屋の戸口に、立っていた。澪が戻るのを、待っていたらしい。
「断ったか」と、老人は言った。
「断りました」と澪は言った。「でも、ぜんぶは、断りきれませんでした。少しだけ、あの誉れに、上りたくなった。楽になりたくて」
「それでいい」橡は、うなずいた。「上りたくならん者は、たいてい、もう、心が死んでる。上りたくなって、それでも、踏みとどまる。それが、いちばん、強い。お前さんは、まだ、立っているよ」
澪は、自分の足を、見た。底の泥に、しっかりと、立っていた。冷えた指先のさきに、それでも、まだ、立っていた。底の水たまりに、灰色の月が、ひとつ、沈んでいた。




