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水鏡の花嫁  作者: 甕星 慶(ミカボシケイ)
第二部

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第十話 狭間

(ふゆ)が来てから、底の空気が、変わった。


大織主(おおおりぬし)が世界の底まで降りて、穢れの娘に膝をついた。その話は、すぐに郷じゅうに広まった。底の者たちは、(みお)を見る目を、また変えた。繕い手(つくろいて)として縋っていた目が、こんどは怯えになった。


あの娘がいると、上の者が降りてくる。狩りでなくても、上が底に目を向ける。それだけで、底の者には、災いだった。


(しげ)が澪のところへ来て、低い声で言った。


「悪く思うな。だがあんたがいると、ここが危ない。冬が、また来る。次はひとりとは、限らん」


澪は、うなずいた。責められて、当然だった。澪がいるだけで、底に上の目が、注がれる。


澪を救った郷が、澪のせいで、危うくなる。(つるばみ)だけが、澪をかばった。けれど、その橡も繁の言うことが、間違いではないと、知っていた。


居場所が、また、なくなりかけていた。上にも、底にも。澪はどこにいても、誰かの、危険になる。


葦境(あしざかい)にいた頃は、まだ、よかった。隠れていれば、誰の目にも、留まらなかった。澪一人が息を殺せば、家は守れた。


いまは、違う。澪が息をひそめても、もう隠れきれない。世界を縫う糸だと、知られてしまった。


神罰に弾かれぬ娘だと、国じゅうが、見た。澪の存在そのものが、もう、隠せない火だった。傍にいる者を、残らず、照らしてしまう火。


その火を消す方法が、ひとつだけ、あった。澪が、いなくなることだ。冬の言う通りに、世界へ溶けてしまえば。あるいは、底へ沈んでしまえば。


澪が消えれば、底の者は安全になる。葦境の母も、もう澪のせいで、脅かされない。その考えは、冬の誘いと、よく似た顔で、澪の中に居座っていた。


   *


(いつき)の沈みが、止まらなくなった。


冬が来た夜から、斎が浮いてくる時間が、目に見えて、減った。一日に、一度。半日に、一度。


それが二日に一度になり、やがて、ほとんど、浮かばなくなった。筵に横たわる白い体は、息こそしているが、中身がどんどん、遠くへ退いていく。


底の子どもが、また、小石を持ってきた。斎の膝に、置いていく。前は、斎がそれを見て、口元をほどいた。いまは、何の反応もない。


空いた目が、天井を見ているだけ。子どもはしばらく待って、首をかしげて、帰っていった。澪はその小石を、拾った。斎が、受け取れなかった小石。


手のひらで、握った。冷たかった。斎の指の冷たさと、同じだった。


澪はそばを、離れなかった。手を握りたいのを、こらえて、布一枚の隙間で、夜どおし、傍にいた。掴めば、逃げる。


それだけは、守った。けれど、待っても、斎は戻ってこなくなっていた。待つことが、間に合わなくなりつつあった。


ある夜、斎がふいに、目を開けた。


澪は息を呑んで、にじり寄った。けれど、その目には、遠いものが、満ちていた。斎では、なかった。神が斎の顔で、澪を見ていた。


前は沈むときに、神が出た。いまは浮くときに、神が出る。順番が、逆になっていた。斎が神の底に、押しこめられて、神のほうが、表になりかけている。


「もう、長くない」と、神は斎の声で、言った。「この器の、もとの中身は、底のいちばん深いところまで、沈んだ。あと少しで、私のものになる。お前の糸も、もう、届くまい」


澪は、答えなかった。ただ、布の上の自分の手を、握りしめた。爪が手のひらに、食いこんだ。


「斎」と、澪は呼んだ。神にではなく、その奥に沈んだ少年に。「聞こえる。まだ、そこにいる」


返事はなかった。神の目が、ただ澪を見ている。澪は、橡の教えを破りそうになった。


掴んで、無理にでも引き上げたかった。布の上の手が、震えた。けれど、わかっていた。


掴めば、斎はもっと深く沈む。いまの斎には、それを跳ね返す力すら、残っていない。掴めば、最後のひとかけらまで、底へ落としてしまう。


待つしかない。けれど、待っていては、間に合わない。


その二つが、澪の喉を絞めた。何もできない。何かをすれば、もっと悪くなる。手を伸ばすことも、伸ばさないことも、どちらも斎を遠くへやる。


澪は生まれて初めて、自分の手を、呪いのように思った。縫う手。けれど、いちばん縫いたいものには、届かない手。


   *


直からの言伝が、底に届いたのは、その翌日だった。


旅の物売りに化けた男が、郷の入り口に来て、繁に小さな包みを、渡していった。中身は、組み紐だった。澪が(ひな)のために、編んだもの。


葦境の家で。あの夜、直に奪われた、妹の髪を結ぶ紐。それが、半分、ほどけていた。


包みには、何も書かれていなかった。書く必要が、なかった。ほどけかけた紐が、すべてを言っていた。雛は、まだ、(なお)の手の中にいる。


直の機嫌は、少しずつ、悪くなっている。澪が答えを、引き延ばすほど。早く来い。来なければ、この紐のように、雛も。


澪はその紐を、握りしめた。


雛の指は、細い。組み紐を結ぶとき、いつももたついた。澪が結んでやると、嬉しそうに、髪を揺らした。その紐が、いま半分ほどけて、底の泥のそばに、ある。


妹はどんな部屋に、いるのだろう。咳は、まだ出るのだろうか。直は、薬を飲ませていると言った。


けれど、直の優しさは、機嫌しだいだ。澪が答えを引き延ばすほど、その機嫌は、薄れていく。紐のように、少しずつ、ほどけていく。


両側から、締められていた。冬は世界のために、自分を捧げろと言う。直は雛のために、自分を寄こせと言う。冬の手を取れば、雛が戻り、斎が消える。


直の手を取れば、雛が戻り、斎を置き去りにする。どちらの手も、雛を餌にしていた。どちらの手も、斎を、切り捨てさせようとしていた。澪がいちばん、手放せないものを。


そして、二つの手は、どこかで、つながっている気がした。冬が、直を泳がせている。直が雛を握っているかぎり、澪は底に縛られる。底に縛られた澪は、冬の手の届くところに、い続ける。


直の執着が、冬の罠を補強していた。二人は、申し合わせてなどいないだろう。それでも、澪を追いつめるという一点で、ぴたりと噛み合っていた。


逃げ場はどこにも、なかった。前にも後ろにも、罠。上にも底にも、追っ手。澪の立つ場所は、日に日に、狭く、なっていった。


   *


その狭さの中で、澪の中にひとつの声が、生まれた。


いっそ、全部、終わらせてしまえたら。


ふと、そう、思った。冬の儀も直の執着も、斎を喰う神も。世界を保つ糸が、自分の中にあるなら。その糸を、引きちぎってしまえば。


神織(かみおり)は、ほどける。境は、崩れる。黄泉(よみ)がすべてを、呑む。けれど、そうなれば、もう誰も奪い合わない。


雛を人質にする者も、斎を喰う神も、いなくなる。全部、いっぺんに、消える。澪も。


その考えに、ぞっとして、澪は頭を振った。


なんてことを、考えたのか。世界を、ほどく。万人を黄泉に、落とす。


それはいちばん、やってはいけないことだった。けれど、考えてしまった。一度、考えるとその声は、消えなかった。


狭いところに、追いつめられるほど、その声は大きく、なった。全部、壊せば、楽になる。誰も、奪えなくなる。


直の顔が、浮かんだ。


直も同じ声を、聞いているのだろう、と思った。澪を、誰にも渡したくない。だから、囲う。囲えないなら、いっそ、すべてを。


直の囲う愛の、いちばん奥には、たぶん、この声が、ある。全部、壊してでも、という声。澪は直を鏡像だと、思った。いまその鏡像と、同じ声を自分の中に、聞いている。


ずっと、直をこわいと思ってきた。憎みきれないから、こわかった。いまは別のこわさを、知った。直が、遠い誰かではないことだ。


澪の中にも、直がいる。追いつめられれば、誰でもあの声を聞く。守りたいものを、守れないとき。奪われるくらいなら、壊してしまえ、と。


直はその声に、従った男だった。澪と同じ場所から出発して、ひとつだけ、違う角を曲がった。澪が、いつ、その角を曲がっても、おかしくなかった。底は、人をその角の、すぐそばまで、追いつめる場所だった。


   *


橡が澪の様子に、気づいた。


「危ない目を、しているぞ」と、老人は言った。「全部、終わらせたい、という目だ。俺はその目を、知っている。昔、何人も、見た。底へ堕ちて、何もかも失った者の目だ。最後に世界を、呪う」


「……わかるんですか」と澪は言った。


「わかる」橡はうなずいた。「縫い手は、特に危ない。お前さんには、世界をほどく力が、げんにあるからな。ふつうの者なら呪っても何も起きん。だが、お前さんが本気で糸を引きちぎれば、世界はほどける。お前さんの絶望は、お前さん一人の絶望じゃ、済まないんだ」


澪は自分の手を、見た。縫う手。同じ手で、ほどける手。橡の言う通りだった。


澪の絶望は、世界の、危機だった。澪が追いつめられて、心を折れば。それは万人を、巻き添えにする。


冬はそれも、知っているのだろうか。澪を追いつめれば、澪が自分から、世界をほどくか、自分を捧げるか。どちらに転んでも、冬の、思うつぼ。


「踏みとどまれ」と橡は言った。「お前さんが、立っているかぎり、まだ道はある。折れるな。折れたら、終わりだ。世界ごと」


「どうやって」と澪は言った。声が、かすれた。「斎は、もう、ほとんど沈んだ。雛は、直の手の中。冬はわたしに、消えろと言う。どこにも道なんて、見えない」


「見えないときは、まだ、来ていないだけだ」橡は、火を見た。「道は、歩く前には、見えん。歩いた跡が、道になる。お前さんが、まだ折れずに立っていることが、もう、半分、道だよ」


   *


その夜、また、斎が目を開けた。


神の目だ、と、すぐにわかった。遠いものが、満ちている。けれど、その夜の神は、これまでと、少し、違った。


澪を、見て、斎の口元を、ゆっくりと、吊り上げた。笑った。神が斎の顔で、初めて、澪に微笑んだ。


「縫い手よ」と、神は言った。優しい、声だった。冬の声に、どこか、似ていた。「お前、いまいいことを、考えていたな。全部、終わらせたい、と」


澪の背が、こわばった。見抜かれていた。心の、いちばん暗いところを。


「いい考えだ」と、神は微笑んだまま、言った。「お前には、それができる。糸を、引きちぎれ。境を、ほどけ。そうすれば、すべてが終わる。儀も執着も、奪い合いも。誰もお前から、何も奪えなくなる。痛みも迷いも、ぜんぶ、消える。私と一緒に、終わらせよう。なあ、縫い手。お前の手を、こちらへ」


斎の手が布の上を、澪のほうへ、伸びてきた。神に、動かされて。これまで斎が自分で、押し止めてきた手。


届かせまいと、握り込んできた手。それが、いま神に操られて、まっすぐ、澪のほうへ、伸びている。


澪はその手を、見つめた。


取れば、楽になる。神も、冬も直も同じことを、言った。取れば、終わる。


取れば、救われる。三つの手が、別々の場所から、同じ言葉で、澪を誘っていた。澪は自分の手を、握りしめた。


爪の痛みで、その誘いに、抗った。けれど、手のひらの中で、その声は、まだささやいていた。全部、終わらせれば、楽になる、と。


取らない、と澪は思った。


理由を、探した。なぜ、取ってはいけないのか。全部終わらせれば、たしかに楽になる。けれど、と澪は底のほうを、見た。


火のそばで、眠る者たちがいた。澪が熱を引き受けた、あの子。椀を回す女。鉈を握る繁。


織津姫(おりつひめ)の絵を描き継ぐ、橡。世界をほどくということは、この者たちごと、黄泉へ落とすことだった。澪を救ってくれた、この火ごと。


雛の、ほどけかけた紐が、手の中にあった。斎の、伸びてくる手が、目の前にあった。澪が守りたいものは、まだぜんぶ、こちら側に、ある。


守りたいものがある者は、世界をほどけない。ほどけば、それも消えるからだ。澪はそれに、気づいた。


破壊の声に抗う力は、覚悟でも正しさでも、なかった。ただ、まだ失いたくないものが、あるということ。それだけが、澪をこちら側に、つなぎ止めていた。


「取らない」と、澪は声に出して、言った。神に向かって。「わたしは、まだ、ほどかない。縫う糸を、引きちぎったりしない」


神の微笑みが、わずかに固まった。斎の顔のまま。伸びていた手が、宙で止まる。


斎の顔をした神が、その手をゆっくりと、引いた。底の闇がその手を、ふちどっていた。澪はその手を、取らなかった。けれど、取らずにいられる時間が、あとどれだけ残っているのか。


澪には、わからなかった。狭間は日に日に、狭くなる。いつか、立つ場所が、なくなる日が、来る。


その日が、来る前に。澪は自分の道を、見つけなければ、ならなかった。三つの手の、どれでもない、四つめの道を。


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