第十一話 千引岩
雛の在処は、思いがけない者の口から、知れた。
底に、流れてきた黄泉子の老婆がいた。穢野のさらに奥から来たという。澪が傷を和らげてやると、礼に見たものを話してくれた。穢野の最奥、千引岩のそばに、上の者が新しく小屋を建てた。
そこに薄い白衣の女の子が、囲われている。咳をしている。男がひとり、見張っている。鴉のような、黒い目の男が。
澪の心の臓が、跳ねた。
雛だ。間違いない。直が雛を千引岩のそばに、隠していた。穢野の、いちばん奥。
生者の世界の、縁。黄泉比良坂の岩のほとり。底の底のそのまた奥。澪がいる郷からも、まだ、ずっと下る場所だった。
老婆はそれだけ話すと、また咳をして、横になった。澪が和らげた痛みは、ほんのひとときしか、もたない。それでも老婆は、礼にと最後の力で、見たものを伝えてくれた。
底の者はこうして、わずかなものを、分け合って生きていた。上が捨てた場所で、上にはない優しさを、持って。
雛が、生きている。澪はそれだけで、胸が詰まった。同時に、ぞっとした。
千引岩のそば。よりにもよって、そこに。
「行く」と澪は言った。すぐに、立ち上がった。
「待て」と、橡が腕をつかんだ。「考えなしに行けば、それこそ、罠だ」
*
橡は澪を火のそばに、座り直させた。
「考えてみろ」と老人は言った。「なぜ、鴉はわざわざ、千引岩のそばに、妹を隠した。あんな、辺鄙な場所に。お前さんを、底へ来させ、底のいちばん奥へ、引きずり出すためだ。誰の、差し金だと思う」
澪は、息をのんだ。
冬だ。冬が、直を泳がせている。直は自分の意思で、雛を隠したつもりだろう。
けれど、その場所を、千引岩のそばに、選ばせたのは。あるいは選ぶように、仕向けたのは。冬の、手だった。
「千引岩は」と橡は言った。声が、低くなった。「世界の、縫い目の、中心だ。織津姫が、降りた場所。境をいちばん最初に、縫った場所。世界でいちばん、ほつれやすく、いちばん、繕いやすい場所。そこへ縫い手を、連れていく。冬はお前さんを、その縫い目の、ど真ん中で、使うつもりだ」
雛を、餌に。澪を、千引岩へ。そこで、澪に自分を捧げさせる。
世界の縫い目に。雛を取り戻しに行くことが、そのまま、冬の罠に踏み込むことだった。
「行かなければ、雛が」と澪は言った。「行けば、わたしが、捧げさせられる」
「そうだ」橡は、うなずいた。「それが、冬の、組んだ枡だ。どちらに転んでも、冬が、勝つ。よくできてる」
澪は冬の顔を、思い浮かべた。慈しむような目。瞳の動きだけが止まる、量る目。
あの男は、澪が雛を見捨てられないことを、知っている。澪が目の前の苦しむ者を、放っておけないことを。だから、雛をいちばん危ない場所に、置いた。
澪が、必ず、そこへ来るように。澪の優しさが、そっくり、澪を縛る縄になっている。冬は、人をその人の、いちばんいいところで、釣る。
「あの男は」と澪は言った。「わたしの、いいところを、ぜんぶ、知ってて、それで、罠を作る」
「だから、たちが悪い」鶚が、横から言った。「悪人なら、まだ、いい。冬はお前を、世界を救う英雄だと、本気で思ってる。お前を縫い目に座らせることが、お前のためでも、あると信じてる。憐れみさえ、している。憐れみながら、喰う。それがいちばん、こわい」
*
その夜、鶚が底に降りてきた。
底の郷に姿を見せたのは、初めてだった。鶚は麻の衣を、泥で汚し、ずいぶん、痩せていた。上から、ここまで降りてくるのに、相当な、無理をしたらしい。澪を見つけると、皮肉な口の端を、薄く、曲げた。
「ひどい顔だな」と鶚は言った。「お互いに」
「鶚」澪は、駆け寄った。「上に、いたんじゃ」
「いられなくなった」鶚は、火のそばに、腰を下ろした。「お前を、逃がした件で、上ににらまれてな。指南役を、解かれた。だがおかげで、身軽になった。お前を追って、ここまで、来られた」
鶚は懐から、古い、布の切れ端を、取り出した。橡の小屋にあった、織津姫の絵に、似ていた。けれど、もっと、古い。色がほとんど、残っていない。
「これを、渡しに来た」と鶚は言った。「俺が、還り人になってから、ずっと集めてきたものだ。神降ろしの、本当の作法。喰う側の、記録じゃない。喰われた側が、こっそり、書き残したものだ」
澪はその布を、受け取った。指先に古い紙の、もろい感触があった。何百年も底から底へ、手渡されてきたものだ。喰われると知った坂人が、最後に書き残した。
次に来る者が、同じ道を歩まずに済むように。鶚はそれを、何十年もかけて、集めた。還り人として、生き残った、後ろめたさを、抱えながら。
布の隅にいくつもの筆跡が、重なっていた。古い字の上に、また別の字。書いた者は、みな、もういない。
喰われたか、年老いて死んだか。それでも言葉だけが、残って、澪の手に届いた。死んだ者たちの、最後の声が、束になって。
「あんた、これを、ずっと」と澪は言った。
「死んだ連れに、できることが、それしか、なかった」鶚は、火を見た。「連れは、寵一番の娘でな。器に侍って、いっしょに、喰われた。俺は、止められなかった。隣で、生き残った。それから、ずっと集めてる。次に侍る娘が、出たときのために。お前が、その、次の娘だ」
*
「斎を、返す方法が、ここに」と澪は言った。
「方法、とまでは、いかん」鶚は、首を振った。「断片だ。手がかりだけだ。だがひとつだけ、はっきり、書いてあることが、ある」
鶚は布の切れ端の、端を指さした。澪には読めない、古い字だった。鶚がそれを、読んだ。
「掴むな、放て」
澪の、息が止まった。
斎が、言った言葉だった。鏡断ちの夜に。掴むと、沈む。
放すと、浮く。あれと、同じ。古い記録に、同じことが、書いてあった。
「黄泉から、何かを連れ戻すときの、作法だ」鶚は言った。「神話の、織津姫の、夫。日之大神も、后を連れ戻しに、黄泉へ降りた。だが、失敗した。なぜ、失敗したと思う」
「掴んだ、から」と澪は言った。
「そうだ」鶚は、うなずいた。「掴んで、引き戻そうとした。見るな、と言われたのに、見て、掴んだ。だから、后は還れなかった。連れ戻すには、掴んじゃ、いけない。相手に自分の足で、還ってくることを、選ばせる。引っぱるんじゃ、ない。放って、待つ。それが黄泉返りの、作法だ」
黄泉返り。澪はその言葉を、胸の中で繰り返した。死から、連れ戻すこと。斎を神に半分喰われた、あの少年を。
掴まずに。放って。自分の足で、還ってくるように。
比良坂の儀の、正式の名も、黄泉返りの大祓だった。冬はその名で、澪を穢れと呼んだ。死から這い出た穢れ、と。同じ言葉が、いま別の意味を、持ちはじめた。
死から、連れ戻す愛。冬の蔑みの言葉が、澪の、最後の望みの名に、変わろうとしていた。同じ四文字が、裏返る。底へ来て、澪は何度も、この裏返りを、見てきた。
穢れが、救いに。讃えが、狩りに。そして、黄泉返りが、蔑みから、愛に。
言葉は誰が使うかで、裏にも表にもなる。なら、と澪は思った。この言葉の、本当の表を、自分の手で、決めてやる。
*
「だが」と鶚は、澪をまっすぐ、見た。「ひとつ、言っておく。お前が斎を放って待つあいだ、誰が神を押さえる。誰が世界の、ほつれを押さえる。お前が千引岩で、斎を待つには、お前が糸でいなきゃ、ならん。糸でいるってことは、削れ続ける、ってことだ」
澪は自分の手を、見た。白んだ指先。
「助かる道は、ない」鶚は、静かに言った。「俺は、嘘は言わん。お前が千引岩へ行って、斎を放って待ち、神を押さえれば。たぶん、斎は、還る。だがそのとき、お前の糸は、尽きている。斎が還ってきた場所に、お前はいない。それがいちばん、ありそうな、結末だ」
火が、爆ぜた。鶚の言葉は、慰めを、ひとつも、含んでいなかった。だからこそ、信じられた。この男は、澪に、都合のいい嘘を、つかない。
斎を、返せる。けれど、返した自分は、いない。鶚は、そう、言っていた。
澪はその重さを、受け止めようとした。受け止めきれずに、膝の上の手が、震えた。
斎が、還ってくる。けれど、還ってきた斎は、澪の、いない世界に、立つ。澪を皿じゃなく見てくれた、ただ一人を。
澪が、いない場所へ。斎は、また、ひとりになる。誰にも触れられず、何かをしてもらった返し方も、知らないまま。
澪がそれを、教えるはずだった。これから、ゆっくり。その時間が、ないのだと、鶚は、言う。
それは、嫌だった。斎が、また、ひとりになるのが。雛が姉のいない場所で、生きていくのが。
澪が消えれば、丸く収まる。けれど、丸く収まった世界に、澪の好きな顔が、ふたつ、残されて、寂しくしている。その絵が澪には、いちばん、耐えがたかった。
だから、と澪は思った。だから、四つめの道だ。自分も、消えない道。
あるかどうか、わからない。けれど、探す。鶚の言う「いちばんありそうな結末」を、ひっくり返す道を。
「なぜ、それを、いま」と澪は言った。「行く前に、言うんですか。行かせたくないなら」
「行くな、とは、言わん」鶚は、目を伏せた。置いてきたものを、探す目だった。「俺は、昔、知らずに連れを、見殺しにした。止め方を、知らなかった。お前には知って、選んでほしい。知らずに行かせて、死なせたくない。それだけだ。行くなら、ぜんぶ、知った上で、行け」
*
澪は、火を見つめた。
千引岩へ、行けば。雛は、取り戻せるかもしれない。斎も、還せるかもしれない。けれど、澪自身は糸を使い果たして、向こうへ、行く。
冬の、思惑通り。世界の縫い目で、澪が消える。冬はそれを、待っている。澪が雛と斎のために、自分から、縫い目に座るのを。
行かない、という道も、あった。ここに、とどまる。斎を抱えて、底で隠れて。
けれど、それでは斎は沈みきる。雛は千引岩で、咳をし続ける。何も救えないまま、ただ、時が過ぎる。
どちらもと澪は、思った。どちらも、冬の、枡の中だ。行っても、行かなくても。捧げても、捧げなくても。
四つめの道を、探さなければ、ならなかった。掴むでも、放つでもなく。捧げるでも、ほどくでもなく。雛を取り戻し、斎を返し、それでも自分が、尽きない道。
そんな道が、あるのか。澪には、まだ、見えなかった。けれど、橡は言った。道は歩いた跡が、道になる、と。
澪は、立ち上がった。
「行きます」と澪は言った。「千引岩へ。ぜんぶ、知った上で。雛を、取り返す。斎を、返す。そして、わたしも、帰ってくる」
鶚はしばらく、澪を見ていた。それから、ゆっくりと、うなずいた。
「なら、俺も、行く」と鶚は言った。「最後まで、見届ける。今度こそ、最後まで」
橡は、止めなかった。火のそばで、古い絵を見ていた。暗い水の中で、両手を広げる、織津姫の絵を。
「ひとつだけ、言っておく」と、老人は絵を見たまま言った。「織津姫は、ひとりで降りた。ひとりで縫って、ひとりで還れなくなった。だから、神話になった。悲しい、神話に。お前さんは、ひとりじゃ、ない。鶚がいる。妹がいる。あの器がいる。底の、おれたちもいる。ひとりで縫おうとするな。それが織津姫と、違う道の、入り口かもしれん」
ひとりじゃない。澪はその言葉を、握りしめた。織津姫はひとりで、縫い切って、消えた。澪はひとりでは、ない。
その違いが、四つめの道に、つながるのか。まだ、わからない。けれど、橡の言葉は、火のように、澪の胸の奥に、残った。
出発の朝、繁が握り飯を、ふたつ、押しつけてきた。
「認めん、と言ったろう」繁は、目を合わせずに言った。「だが、行くなら、腹は、減る。これは餞別じゃ、ない。ただの、飯だ」
澪はそれを、受け取った。底の優しさは、いつもこうだった。口では突き放して、手は差し出す。郷の子どもたちが、遠くから、澪を見ていた。
澪が熱を引き受けた、あの子も、いた。小石を、握りしめて。澪はその子に、小さく、手を振った。
子は、振り返さなかった。ただ、じっと見ていた。行くな、と言うように。
斎を、背負った。痩せた体は、軽かった。布越しの背中に、斎の、浅い息を感じた。まだ、いる。
沈みきっては、いない。澪はその息を、頼りに歩きだした。鶚が先に立って、道を選んだ。
底の夜が、深く、沈んでいった。穢野の、いちばん奥へ。世界の、縫い目へ。
直の囲う愛が、冬の慈悲が、神の渇きが、そして澪の四つめの道が、ひとつの場所へ、向かっていた。千引岩。すべてがそこで、交わる。




