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水鏡の花嫁  作者: 甕星 慶(ミカボシケイ)
第二部

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第十二話 神隠し

千引岩(ちびきいわ)は岩には、見えなかった。


穢野(えの)の最奥。坂を下りきった、その先。そこに、黒い、巨大な裂け目が、口を開けていた。地がふたつに、割れている。


その割れ目を、ひとつの、岩が塞いでいた。岩というより、世界の、継ぎ目だった。割れ目の奥から、冷たい風が、吹き上げてくる。


黄泉(よみ)の、息だった。(みお)は背負った斎ごと、その風に当たった。(いつき)の体が風のほうへ、引かれるように、傾いた。


岩の手前に、小屋が建っていた。


その戸口に、(なお)が立っていた。腕に、(ひな)を抱えて。澪の姿を見ると、直はいつものように、穏やかに笑った。


「来てくれたか」と直は言った。「待ってた」


そして、岩の上に白い影が、あった。


(ふゆ)だった。(しゃく)を手に千引岩の縫い目の、ちょうど真上に、立っている。澪を、見下ろしていた。慈しむような目で。


最後に澪の背の斎が、ふいに顔を上げた。遠いものに、満ちた目で。神が斎の喉で、笑った。


「待っていた」と。三つの声が、別々の場所から、澪に降ってきた。直の「来てくれた」。


冬の沈黙。神の「待っていた」。逃げ場は、もうどこにも、なかった。


   *


「澪」と直が、雛を抱えたまま、言った。「もう、わかっただろう。お前に道はふたつしか、ない」


直は岩の上の冬を、見上げた。それから、また、澪を、見た。


「ひとつ。お前があの依代(よりしろ)を、置いて、俺と来る。雛を返す。三人で、逃げる。器は神に喰われて、終わる。お前は、生きる。雛も、生きる」


「ふたつめは」と澪は言った。


「あの大織主(おおおりぬし)の言う通り、お前を縫い目に、捧げる」直の声が、低くなった。「世界が、助かる。器もお前の糸が消えれば、神に満ちて、終わる。お前も、消える。雛だけが、残る。どちらにしても、あの依代は、助からない。お前が選べるのは、自分が生きるか、消えるか、だけだ」


澪は二つの道を、見た。


直の道。冬の道。どちらも、斎を見捨てる道だった。直と来れば、斎は喰われる。


冬に捧げれば、斎は消える。澪が生きても、消えても斎は還らない。二つの道は、形は違うのに、出口は同じだった。斎の、いない世界。


これが、危機だった。澪は、悟った。冬の枡は最初から、こう、組まれていた。澪に二つの道を、見せる。


どちらを選んでも、斎を、失う。澪が何を選んでも、神は、斎を、喰う。澪はその二つの道の、どちらかを、選ばされる。選んだ瞬間に、澪は負ける。


岩の上の冬は、何も言わなかった。言う必要が、なかった。直が二つの道を、並べてくれている。冬は、ただ、澪がそのどちらかを選ぶのを、待っていればいい。


澪が自分の意思で、選ぶこと。それが冬には、大事だった。脅して捧げさせた糸は、よく縫えない。本人が、心から選んでこそ。


冬は、ずっとそう言ってきた。だから、いまも待っている。澪が追いつめられて、自分から、いちばん尊い犠牲の座へ、上ってくるのを。


底の風が岩の裂け目から、吹き上げてくる。黄泉の、冷たい息。その息に斎の体が、引かれていく。背負った布越しに、澪はそれを、感じていた。


斎は、もうほとんど、向こう側だった。糸が、切れかけている。あと、わずか。澪に残された時間は、もうわずかだった。


   *


「どちらも、選びません」と澪は言った。


「選ばない、は、ない」直が、首を振った。穏やかな声に、初めて、苛立ちがにじんだ。「選ばなければ、雛が、死ぬ。この子は、もう、弱ってる。咳が、止まらない。早く、決めろ。お前の、いつもの、優しさで」


雛が直の腕の中で、薄く、目を開けた。澪を見つけて、唇が動いた。ねえちゃ。声には、ならなかった。


澪の胸が、引き裂かれた。直はそれを、知っていて、雛を見せている。澪が、雛を見捨てられないことを。


選べ、と三方が迫っていた。直が。冬が。


神が。澪の、いちばん優しいところを、使って。澪を二つの道の、どちらかへ、押しこもうとしていた。


(つるばみ)の言葉が、よみがえった。織津姫(おりつひめ)はひとりで、縫い、消えた。お前はひとりじゃ、ない。(みさご)の言葉も。


掴むな、放て。そして、澪自身が底で学んだこと。守りたいものを、握れば、こぼれる。放せば、戻る。


二つの道は、と澪は思った。どちらも、握る道だ。


直の道は自分の生を、握る道。冬の道は世界を、握る道。どちらも何かを、握りしめて、ほかを捨てる。けれど、四つめの道が、あるとしたら。


それは、握らない道だ。掴まずに。放って。それでも、つながっている道。


   *


「鶚」と澪は、後ろに呼びかけた。「雛を、お願い」


鶚はすでに、動いていた。


直が二つの道を、語っているあいだ。冬が岩の上から、見下ろしているあいだ。鶚は闇に紛れて、小屋の、裏へ回りこんでいた。


鏡断ち(かがみだち)の作法だ。見られない場所を、選んで、動く。鶚は、直の、死角から、雛へ手を伸ばした。


直が、気づいた。


「澪は、必ず、雛を、選ぶ」直は、そう、確信していた。だから、澪の、正面の動きだけを、見ていた。澪が走り出すのを、待っていた。鶚の動きは、読んでいなかった。直の腕が緩んだ、その一瞬。鶚が、雛を抱え取った。


「鶚のところへ、行った」と澪は言った。「もう、雛はあなたの手綱じゃ、ない」


直の顔から、笑みが剥がれた。


   *


「お前――」直の声が、初めて、震えた。


直が、鶚を追おうとした。けれど、鶚はすでに、雛を抱えて、坂のほうへ、走っていた。痩せた体で、必死に。直が追えば、追える。


けれど、追えば、澪から、目を、離す。直はどちらを、取るか、一瞬、迷った。澪か。雛か。


その迷いが、直の、囲う愛の、急所だった。澪を、見張りたい。雛も、取り戻したい。両方は、できない。


「行かせない」直は、澪のほうへ、踏み出した。澪を押さえれば、雛はあとで、取り戻せると、踏んだ。


その瞬間、澪は背の斎を、下ろした。


岩の、すぐそばに。神の渇きが、いちばん、強い場所に。直が、止まった。


澪が何をするのか、わからずに。冬が岩の上から、初めて、身を乗り出した。


四つめの道を、澪は選んだ。


直の道でも、冬の道でもない。自分が生きるためでも、世界を救うためでもない。斎を、返す。


掴まずに放って、待つ。鶚の言葉と、橡の言葉と、底で学んだことの、ぜんぶを、ひとつに縒り合わせた道。あるかどうか、わからなかった。


それでもほかの二つは、どちらも斎を捨てる道だった。捨てない道は、これしか、なかった。たとえ、自分が尽きても。


澪は斎の前に、膝をついた。布越しではなく。直に、触れさせる距離で。穢れた手を、神の器に伸ばす距離で。


「澪、何を」と直が、言った。


澪は、答えなかった。斎の、胸に手を当てた。


   *


御魂(みたま)が、群れていた。


斎の胸の、一点に。何百もの、刈られた魂が。神の形に、固まって。澪の手のひらが、それに触れた瞬間、あの夜の感覚が、戻ってきた。


祭壇の夜。底の、病んだ者たち。引き受ける、感覚。重いものが、澪のほうへ、流れこんでくる。


けれど、澪は掴まなかった。


掴むな、放て。鶚の言葉。澪は御魂を、引っぱらなかった。


斎を引き戻そうと、力を込めなかった。代わりに手のひらを、開いた。そして、斎の、いちばん奥に、沈んだ少年に、呼びかけた。


「斎。帰っておいで」


引っぱらない。掴まない。ただ、道を開けて、待つ。


澪の血が糸になって、斎の沈んだ底から、こちら側まで、一本の、細い道をつくった。引き上げる道では、ない。斎が自分の足で、上ってくるための、道。


斎の指が、動いた。


神の操りでは、なかった。沈んだ底から、斎自身がその道を、たどろうとしていた。澪の、開いた手のひらに、向かって。


ゆっくりと。何百年も待っていたものを、振り払うように。


   *


そのとき、代償が爆発した。


道を開くために、澪は自分の糸を、惜しみなく、繰り出していた。御魂の重さが、その道を逆に流れこんできた。斎が上ってくるぶん、澪がその重さを、引き受ける。


澪の体が岩のほうへ、傾いた。黄泉の風が、澪を引いた。指先が白を通り越して、透けはじめた。


「澪っ」


声が、した。鶚だった。雛を坂の上の、安全なところへ、逃がして、駆け戻ってきた。


澪が傾くのを、見て。鶚が澪の体を、後ろから、支えようと、手を伸ばした。


そのとき。


岩の継ぎ目が、軋んだ。澪が糸を繰り出しすぎて、縫い目が緩んだのだ。黄泉の裂け目が、わずかに広がった。


冷たい風が、突風になって、吹き上げた。その風が岩の縁にいた、鶚を煽った。


鶚の足が、縁を踏み外した。


   *


「鶚っ」


澪は、叫んだ。けれど、手が離せなかった。斎の道を開いている、その手を。


離せば、斎が、また、沈む。澪は片手を、斎の胸に当てたまま、もう片方の手を、鶚へ伸ばした。届かなかった。


鶚は裂け目の縁に、片手でぶら下がっていた。


「離せ」と、鶚は言った。落ち着いた声で。「俺を、掴むな。お前が引っぱれば、お前も落ちる。器の道も、切れる。掴むな、澪。それが、作法だ」


澪はその言葉に、凍りついた。掴むな。鶚が、澪に教えた言葉。それを、いま鶚自身が、自分を見捨てさせるために、使っていた。


「最後に、ひとつ」鶚は、ぶら下がったまま、言った。声に焦りは、なかった。何十年もこの瞬間の、覚悟をしていたような声だった。「織津姫は、ひとりで降りた。だがほんとうは、降りる前に、夫を放したんだ。掴むな、と。お前は来るな、と。自分を贈って、相手を生かす。それが織津姫の、最初の犠牲だ。所有でも自己消滅でも、ない。贈与だ。覚えて、おけ。次の、お前のために」


「待って」と澪は言った。「待って、鶚。あなたまで、いなくならないで」


「俺は、いなくなるんじゃ、ない」鶚は、薄く、笑った。「やっと、連れのところへ、行くんだ。あいつを喰わせて、ひとりで生き残った。ずっとそれが、重かった。お前のおかげで、やっと降りられる。ありがとうな、澪。最後に見届けるものを、くれて」


鶚の手が縁から、離れた。


澪は見ていることしか、できなかった。掴めば、自分も斎の道も、いっしょに、落ちる。鶚はそれを、わかっていて、手を離した。


澪に、掴ませないために。澪が伸ばしかけた手を、引っこめる、その猶予を、つくるために。鶚の最後の優しさは、自分を見捨てさせることだった。


   *


鶚は、落ちなかった。


落ちる、というより、黄泉の風に、すうっと吸われた。痩せた体が、裂け目の、黒い奥へ消えていった。最後に皮肉な口の端が、ほんの少し、笑ったように、見えた。


今度こそ、見届けた、というふうに。それから、鶚の姿は闇に紛れて、見えなくなった。


澪は、声を失った。


涙が、出なかった。出す、間もなかった。澪の手のひらの下で、斎の指が、まだ道を上ってきている。


鶚の死を悼む手を、止めれば、斎が、沈む。澪は悼むことすら、許されなかった。ただ、手を当てつづけた。


鶚が最後に、託した言葉を、握りしめて。贈与。放って、贈る。


斎の指が、澪の、手のひらに、触れた。


   *


その瞬間、何かが変わった。


斎が、上ってきた。澪の道を、たどって。こちら側へ。


澪は、息をのんだ。間に合った。斎が、還ってくる。


澪の手のひらに、斎の指が触れている。温かかった。生きた、人の、指だった。


けれど。


斎の指が触れたのと、同じ瞬間。岩の上の冬が、笏を振り下ろした。


「今だ」と、冬が低く言った。


千引岩の、縫い目が大きく、軋んだ。冬が何かを、した。緩んだ縫い目を、つかって。


澪が斎を引き上げる、その細い道を、横から、断ち切った。せっかく、つながりかけた道が、ぷつりと切れた。斎の指が澪の手のひらから、滑り落ちた。


「斎っ」


澪は思わず、掴んだ。


掴んでは、いけない手を。落ちかけた斎を。澪の指が斎の手首を、握りしめた。引き上げようと、力を込めた。


掴むな、と鶚は言った。けれど、澪は掴んだ。間に合わない、と思って。


斎が、底へ沈んだ。


掴まれた手を、振り払うように。澪の握る手から、するりと抜けて。斎の自我が、神の底へいちばん深いところへ、落ちていった。澪が掴んだ、せいで。


   *


斎の体がゆっくりと、起き上がった。


澪の手を、離れて。岩のほうへ。その目に遠いものが、満ちていた。完全に。


半分残っていた斎は、もうどこにも、いなかった。神が斎の体を、丸ごと立たせていた。澪の、目の前で。


「惜しかったな、縫い手」と、神が斎の声で、言った。「あと、少しだった。だがお前は、掴んだ。掴めば、逃げると教わったろうに。最後の最後で、お前は人だった。人は愛するものを、掴まずには、いられない」


澪は地面に、膝を、ついたまま、動けなかった。


雛は、取り戻した。坂の上に、いる。けれど、鶚は黄泉に、消えた。斎は神に丸ごと、呑まれた。


澪が間に合わなかった、せいで。澪が最後に、掴んだ、せいで。世界を縫う手が、いちばん縫いたいものを、自分の手で、断ち切った。


神が斎の顔で、澪に歩み寄った。


斎の手が、澪の、頬に伸びてきた。かつて、澪が祭壇で、触れた、あの頬の、あの手で。今度は、逆に。神に操られた斎の手が、澪の、頬に触れた。


温かかった。斎の、温もりのまま。けれど、その奥には、斎はいない。


「これで、お前も、私のものだ」と、神は囁いた。「縫い手も、器も、私の、手の中だ。お前がいくら抗っても、結局はこうなる。お前は底の者を救い、妹を救い、この器を救おうとして、自分をすり減らした。残ったのは、空っぽの手だけだ。掴もうとした、すべてがこぼれていった。それが、人の、愛の、果てだよ」


神の言葉が、澪の、いちばん痛いところを、抉った。掴んだものは、ぜんぶ、こぼれた。雛を握れば、奪われた。斎を掴めば、沈んだ。


鶚を掴もうとして、掴めなかった。澪の手は何ひとつ、握りきれなかった。神の言う通りだった。澪の愛はこぼすことしか、できなかった。


それでも。


澪は、握り返さなかった。


その手を。斎の顔をした、神の手を。触れられたまま、握り返さずに、澪は、ただ黄泉の裂け目を、見ていた。鶚が消えた、黒い奥を。


そこに、斎も沈んでいる。底の、底に。澪の、開いた手のひらが、空をつかんで、震えていた。


何も、握っていない手。握りそこねた手。底の風がその手を、冷たく、撫でていった。


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