第十二話 神隠し
千引岩は岩には、見えなかった。
穢野の最奥。坂を下りきった、その先。そこに、黒い、巨大な裂け目が、口を開けていた。地がふたつに、割れている。
その割れ目を、ひとつの、岩が塞いでいた。岩というより、世界の、継ぎ目だった。割れ目の奥から、冷たい風が、吹き上げてくる。
黄泉の、息だった。澪は背負った斎ごと、その風に当たった。斎の体が風のほうへ、引かれるように、傾いた。
岩の手前に、小屋が建っていた。
その戸口に、直が立っていた。腕に、雛を抱えて。澪の姿を見ると、直はいつものように、穏やかに笑った。
「来てくれたか」と直は言った。「待ってた」
そして、岩の上に白い影が、あった。
冬だった。笏を手に千引岩の縫い目の、ちょうど真上に、立っている。澪を、見下ろしていた。慈しむような目で。
最後に澪の背の斎が、ふいに顔を上げた。遠いものに、満ちた目で。神が斎の喉で、笑った。
「待っていた」と。三つの声が、別々の場所から、澪に降ってきた。直の「来てくれた」。
冬の沈黙。神の「待っていた」。逃げ場は、もうどこにも、なかった。
*
「澪」と直が、雛を抱えたまま、言った。「もう、わかっただろう。お前に道はふたつしか、ない」
直は岩の上の冬を、見上げた。それから、また、澪を、見た。
「ひとつ。お前があの依代を、置いて、俺と来る。雛を返す。三人で、逃げる。器は神に喰われて、終わる。お前は、生きる。雛も、生きる」
「ふたつめは」と澪は言った。
「あの大織主の言う通り、お前を縫い目に、捧げる」直の声が、低くなった。「世界が、助かる。器もお前の糸が消えれば、神に満ちて、終わる。お前も、消える。雛だけが、残る。どちらにしても、あの依代は、助からない。お前が選べるのは、自分が生きるか、消えるか、だけだ」
澪は二つの道を、見た。
直の道。冬の道。どちらも、斎を見捨てる道だった。直と来れば、斎は喰われる。
冬に捧げれば、斎は消える。澪が生きても、消えても斎は還らない。二つの道は、形は違うのに、出口は同じだった。斎の、いない世界。
これが、危機だった。澪は、悟った。冬の枡は最初から、こう、組まれていた。澪に二つの道を、見せる。
どちらを選んでも、斎を、失う。澪が何を選んでも、神は、斎を、喰う。澪はその二つの道の、どちらかを、選ばされる。選んだ瞬間に、澪は負ける。
岩の上の冬は、何も言わなかった。言う必要が、なかった。直が二つの道を、並べてくれている。冬は、ただ、澪がそのどちらかを選ぶのを、待っていればいい。
澪が自分の意思で、選ぶこと。それが冬には、大事だった。脅して捧げさせた糸は、よく縫えない。本人が、心から選んでこそ。
冬は、ずっとそう言ってきた。だから、いまも待っている。澪が追いつめられて、自分から、いちばん尊い犠牲の座へ、上ってくるのを。
底の風が岩の裂け目から、吹き上げてくる。黄泉の、冷たい息。その息に斎の体が、引かれていく。背負った布越しに、澪はそれを、感じていた。
斎は、もうほとんど、向こう側だった。糸が、切れかけている。あと、わずか。澪に残された時間は、もうわずかだった。
*
「どちらも、選びません」と澪は言った。
「選ばない、は、ない」直が、首を振った。穏やかな声に、初めて、苛立ちがにじんだ。「選ばなければ、雛が、死ぬ。この子は、もう、弱ってる。咳が、止まらない。早く、決めろ。お前の、いつもの、優しさで」
雛が直の腕の中で、薄く、目を開けた。澪を見つけて、唇が動いた。ねえちゃ。声には、ならなかった。
澪の胸が、引き裂かれた。直はそれを、知っていて、雛を見せている。澪が、雛を見捨てられないことを。
選べ、と三方が迫っていた。直が。冬が。
神が。澪の、いちばん優しいところを、使って。澪を二つの道の、どちらかへ、押しこもうとしていた。
橡の言葉が、よみがえった。織津姫はひとりで、縫い、消えた。お前はひとりじゃ、ない。鶚の言葉も。
掴むな、放て。そして、澪自身が底で学んだこと。守りたいものを、握れば、こぼれる。放せば、戻る。
二つの道は、と澪は思った。どちらも、握る道だ。
直の道は自分の生を、握る道。冬の道は世界を、握る道。どちらも何かを、握りしめて、ほかを捨てる。けれど、四つめの道が、あるとしたら。
それは、握らない道だ。掴まずに。放って。それでも、つながっている道。
*
「鶚」と澪は、後ろに呼びかけた。「雛を、お願い」
鶚はすでに、動いていた。
直が二つの道を、語っているあいだ。冬が岩の上から、見下ろしているあいだ。鶚は闇に紛れて、小屋の、裏へ回りこんでいた。
鏡断ちの作法だ。見られない場所を、選んで、動く。鶚は、直の、死角から、雛へ手を伸ばした。
直が、気づいた。
「澪は、必ず、雛を、選ぶ」直は、そう、確信していた。だから、澪の、正面の動きだけを、見ていた。澪が走り出すのを、待っていた。鶚の動きは、読んでいなかった。直の腕が緩んだ、その一瞬。鶚が、雛を抱え取った。
「鶚のところへ、行った」と澪は言った。「もう、雛はあなたの手綱じゃ、ない」
直の顔から、笑みが剥がれた。
*
「お前――」直の声が、初めて、震えた。
直が、鶚を追おうとした。けれど、鶚はすでに、雛を抱えて、坂のほうへ、走っていた。痩せた体で、必死に。直が追えば、追える。
けれど、追えば、澪から、目を、離す。直はどちらを、取るか、一瞬、迷った。澪か。雛か。
その迷いが、直の、囲う愛の、急所だった。澪を、見張りたい。雛も、取り戻したい。両方は、できない。
「行かせない」直は、澪のほうへ、踏み出した。澪を押さえれば、雛はあとで、取り戻せると、踏んだ。
その瞬間、澪は背の斎を、下ろした。
岩の、すぐそばに。神の渇きが、いちばん、強い場所に。直が、止まった。
澪が何をするのか、わからずに。冬が岩の上から、初めて、身を乗り出した。
四つめの道を、澪は選んだ。
直の道でも、冬の道でもない。自分が生きるためでも、世界を救うためでもない。斎を、返す。
掴まずに放って、待つ。鶚の言葉と、橡の言葉と、底で学んだことの、ぜんぶを、ひとつに縒り合わせた道。あるかどうか、わからなかった。
それでもほかの二つは、どちらも斎を捨てる道だった。捨てない道は、これしか、なかった。たとえ、自分が尽きても。
澪は斎の前に、膝をついた。布越しではなく。直に、触れさせる距離で。穢れた手を、神の器に伸ばす距離で。
「澪、何を」と直が、言った。
澪は、答えなかった。斎の、胸に手を当てた。
*
御魂が、群れていた。
斎の胸の、一点に。何百もの、刈られた魂が。神の形に、固まって。澪の手のひらが、それに触れた瞬間、あの夜の感覚が、戻ってきた。
祭壇の夜。底の、病んだ者たち。引き受ける、感覚。重いものが、澪のほうへ、流れこんでくる。
けれど、澪は掴まなかった。
掴むな、放て。鶚の言葉。澪は御魂を、引っぱらなかった。
斎を引き戻そうと、力を込めなかった。代わりに手のひらを、開いた。そして、斎の、いちばん奥に、沈んだ少年に、呼びかけた。
「斎。帰っておいで」
引っぱらない。掴まない。ただ、道を開けて、待つ。
澪の血が糸になって、斎の沈んだ底から、こちら側まで、一本の、細い道をつくった。引き上げる道では、ない。斎が自分の足で、上ってくるための、道。
斎の指が、動いた。
神の操りでは、なかった。沈んだ底から、斎自身がその道を、たどろうとしていた。澪の、開いた手のひらに、向かって。
ゆっくりと。何百年も待っていたものを、振り払うように。
*
そのとき、代償が爆発した。
道を開くために、澪は自分の糸を、惜しみなく、繰り出していた。御魂の重さが、その道を逆に流れこんできた。斎が上ってくるぶん、澪がその重さを、引き受ける。
澪の体が岩のほうへ、傾いた。黄泉の風が、澪を引いた。指先が白を通り越して、透けはじめた。
「澪っ」
声が、した。鶚だった。雛を坂の上の、安全なところへ、逃がして、駆け戻ってきた。
澪が傾くのを、見て。鶚が澪の体を、後ろから、支えようと、手を伸ばした。
そのとき。
岩の継ぎ目が、軋んだ。澪が糸を繰り出しすぎて、縫い目が緩んだのだ。黄泉の裂け目が、わずかに広がった。
冷たい風が、突風になって、吹き上げた。その風が岩の縁にいた、鶚を煽った。
鶚の足が、縁を踏み外した。
*
「鶚っ」
澪は、叫んだ。けれど、手が離せなかった。斎の道を開いている、その手を。
離せば、斎が、また、沈む。澪は片手を、斎の胸に当てたまま、もう片方の手を、鶚へ伸ばした。届かなかった。
鶚は裂け目の縁に、片手でぶら下がっていた。
「離せ」と、鶚は言った。落ち着いた声で。「俺を、掴むな。お前が引っぱれば、お前も落ちる。器の道も、切れる。掴むな、澪。それが、作法だ」
澪はその言葉に、凍りついた。掴むな。鶚が、澪に教えた言葉。それを、いま鶚自身が、自分を見捨てさせるために、使っていた。
「最後に、ひとつ」鶚は、ぶら下がったまま、言った。声に焦りは、なかった。何十年もこの瞬間の、覚悟をしていたような声だった。「織津姫は、ひとりで降りた。だがほんとうは、降りる前に、夫を放したんだ。掴むな、と。お前は来るな、と。自分を贈って、相手を生かす。それが織津姫の、最初の犠牲だ。所有でも自己消滅でも、ない。贈与だ。覚えて、おけ。次の、お前のために」
「待って」と澪は言った。「待って、鶚。あなたまで、いなくならないで」
「俺は、いなくなるんじゃ、ない」鶚は、薄く、笑った。「やっと、連れのところへ、行くんだ。あいつを喰わせて、ひとりで生き残った。ずっとそれが、重かった。お前のおかげで、やっと降りられる。ありがとうな、澪。最後に見届けるものを、くれて」
鶚の手が縁から、離れた。
澪は見ていることしか、できなかった。掴めば、自分も斎の道も、いっしょに、落ちる。鶚はそれを、わかっていて、手を離した。
澪に、掴ませないために。澪が伸ばしかけた手を、引っこめる、その猶予を、つくるために。鶚の最後の優しさは、自分を見捨てさせることだった。
*
鶚は、落ちなかった。
落ちる、というより、黄泉の風に、すうっと吸われた。痩せた体が、裂け目の、黒い奥へ消えていった。最後に皮肉な口の端が、ほんの少し、笑ったように、見えた。
今度こそ、見届けた、というふうに。それから、鶚の姿は闇に紛れて、見えなくなった。
澪は、声を失った。
涙が、出なかった。出す、間もなかった。澪の手のひらの下で、斎の指が、まだ道を上ってきている。
鶚の死を悼む手を、止めれば、斎が、沈む。澪は悼むことすら、許されなかった。ただ、手を当てつづけた。
鶚が最後に、託した言葉を、握りしめて。贈与。放って、贈る。
斎の指が、澪の、手のひらに、触れた。
*
その瞬間、何かが変わった。
斎が、上ってきた。澪の道を、たどって。こちら側へ。
澪は、息をのんだ。間に合った。斎が、還ってくる。
澪の手のひらに、斎の指が触れている。温かかった。生きた、人の、指だった。
けれど。
斎の指が触れたのと、同じ瞬間。岩の上の冬が、笏を振り下ろした。
「今だ」と、冬が低く言った。
千引岩の、縫い目が大きく、軋んだ。冬が何かを、した。緩んだ縫い目を、つかって。
澪が斎を引き上げる、その細い道を、横から、断ち切った。せっかく、つながりかけた道が、ぷつりと切れた。斎の指が澪の手のひらから、滑り落ちた。
「斎っ」
澪は思わず、掴んだ。
掴んでは、いけない手を。落ちかけた斎を。澪の指が斎の手首を、握りしめた。引き上げようと、力を込めた。
掴むな、と鶚は言った。けれど、澪は掴んだ。間に合わない、と思って。
斎が、底へ沈んだ。
掴まれた手を、振り払うように。澪の握る手から、するりと抜けて。斎の自我が、神の底へいちばん深いところへ、落ちていった。澪が掴んだ、せいで。
*
斎の体がゆっくりと、起き上がった。
澪の手を、離れて。岩のほうへ。その目に遠いものが、満ちていた。完全に。
半分残っていた斎は、もうどこにも、いなかった。神が斎の体を、丸ごと立たせていた。澪の、目の前で。
「惜しかったな、縫い手」と、神が斎の声で、言った。「あと、少しだった。だがお前は、掴んだ。掴めば、逃げると教わったろうに。最後の最後で、お前は人だった。人は愛するものを、掴まずには、いられない」
澪は地面に、膝を、ついたまま、動けなかった。
雛は、取り戻した。坂の上に、いる。けれど、鶚は黄泉に、消えた。斎は神に丸ごと、呑まれた。
澪が間に合わなかった、せいで。澪が最後に、掴んだ、せいで。世界を縫う手が、いちばん縫いたいものを、自分の手で、断ち切った。
神が斎の顔で、澪に歩み寄った。
斎の手が、澪の、頬に伸びてきた。かつて、澪が祭壇で、触れた、あの頬の、あの手で。今度は、逆に。神に操られた斎の手が、澪の、頬に触れた。
温かかった。斎の、温もりのまま。けれど、その奥には、斎はいない。
「これで、お前も、私のものだ」と、神は囁いた。「縫い手も、器も、私の、手の中だ。お前がいくら抗っても、結局はこうなる。お前は底の者を救い、妹を救い、この器を救おうとして、自分をすり減らした。残ったのは、空っぽの手だけだ。掴もうとした、すべてがこぼれていった。それが、人の、愛の、果てだよ」
神の言葉が、澪の、いちばん痛いところを、抉った。掴んだものは、ぜんぶ、こぼれた。雛を握れば、奪われた。斎を掴めば、沈んだ。
鶚を掴もうとして、掴めなかった。澪の手は何ひとつ、握りきれなかった。神の言う通りだった。澪の愛はこぼすことしか、できなかった。
それでも。
澪は、握り返さなかった。
その手を。斎の顔をした、神の手を。触れられたまま、握り返さずに、澪は、ただ黄泉の裂け目を、見ていた。鶚が消えた、黒い奥を。
そこに、斎も沈んでいる。底の、底に。澪の、開いた手のひらが、空をつかんで、震えていた。
何も、握っていない手。握りそこねた手。底の風がその手を、冷たく、撫でていった。




