第十三話 綻びの底
頬に斎の手が、触れていた。
温かかった。斎の体温のまま。けれど、その手を動かしているのは、斎ではなかった。神だった。
澪はその手を、握り返さずに、ただ黄泉の裂け目を、見ていた。鶚が消えた、黒い奥。斎が沈んだ、底の底。
何も握っていない手が、澪の膝の上で、震えていた。
雛は坂の上に、いる。取り戻した。それだけは、できた。
けれど、鶚はいない。斎も、いない。半分残っていた、あの少年は、もうどこにも、いない。
澪が最後に、掴んだ、せいで。掴むな、と教わったのに。教えてくれた鶚が、黄泉に消えるのを、見ながら、それでも、澪は、斎を掴んだ。
愛するものを、掴まずには、いられなかった。それが、人だ、と神は言った。澪の、いちばん深いところを、抉る言葉だった。
*
岩の上から、冬が降りてきた。
笏を手に、ゆっくりと。澪の前に、膝をついた。底の小屋の戸口で、初めて会ったときと、同じ高さに、目を合わせる。慈しむような、目だった。
「悲しいか」と冬は言った。「悲しいだろうな。お前は、よくやった。誰もお前ほど、抗わなかった。底まで降りて、真実を知って、それでも選ぼうとした。立派だった。だが、見たろう。お前の手は、何も握れなかった。それが、答えだ」
澪は、答えなかった。
「お前に、最後の真実を、教えよう」冬は、静かに続けた。「お前の母のことだ。あれは、ただ隠れて生きた娘では、ない。あれも、一度、抗った。お前と、同じように。黄泉の血の意味を、知って、儀を止めようとした。だが、できなかった。だから、隠すことを、選んだ。お前を産んで、その血を闇に沈めた。お前が、いま立っている場所まで、あれも来たのだよ。そして、折れた」
母も、ここまで来た。澪はその言葉を、受け止めた。母の、声を殺して泣く顔が、浮かんだ。
あの涙は、ただの、貧しさの涙では、なかったのか。抗って、折れた者の、涙だったのか。
*
「織津姫も、そうだ」冬は、岩を見上げた。「あれは、世界を縫った。だが縫い切って、ひとりで黄泉へ、消えた。残ったのは、穢れという、嘘の名と喰われ続ける、子孫だけだ。織津姫の犠牲は、世界を救わなかった。ただ、喰う仕組みを、つくっただけだ。お前の母も、折れた。お前も、いま、何も握れずにいる。これがお前たちの血の、歴史だ。抗っても抗っても、最後は、こうなる」
冬の声は、優しかった。責めても、嘲ってもいない。ただ、事実を並べていた。澪をいちばん、深いところまで、突き落とすために。
母も織津姫も、みんな、折れた。お前も、折れる。だから、楽になれ、と。
「だから、私に、身を委ねろ」冬は、笏を置いた。両手を、広げた。「お前の血を、世界の縫い目に、捧げよ。そうすれば、母の苦労も、織津姫の犠牲も、無駄にはならない。お前は歴史の、最後の縫い手として、完成する。これ以上、何も失わずに済む。器も、もう、いない。妹は、私が守ってやる。お前は、ただ、座ればいい。世界の、ど真ん中に」
それは、底だった。澪の、いちばん、低いところ。
斎を、失った。鶚を、失った。母も折れたと、知った。織津姫の血の歴史は、敗北の、歴史だった。
澪の手は、空っぽだった。何も、握っていない。冬の言う通り、ここで座れば。
世界を救う英雄として、消えれば。すべての、痛みが終わる。迷いも喪失も、ぜんぶ。
澪は自分の、空っぽの手を、見た。
*
何も、握っていない手だった。
掴もうとして、ぜんぶ、こぼした手。雛を握れば、奪われた。斎を掴めば、沈んだ。
鶚を掴もうとして、掴めなかった。神の言う通り、澪の愛はこぼすことしか、できなかった。握る愛は、いつも失敗した。
けれど、と澪は思った。
鶚は最後に、掴むな、と言った。織津姫は降りる前に、夫を放した。掴むな。来るな。
自分を贈って、相手を生かす。それが、贈与だと。澪は、ずっと握ろうとしてきた。だから、こぼした。
握る愛が失敗するのは、当たり前だった。握る愛は相手を、所有しようとする。直の愛と、同じだ。
冬の愛とも、同じだ。世界を、握ろうとする。人を、握ろうとする。
握らない愛が、あるとしたら。
澪は空っぽの手のひらを、開いた。何も、握っていない。けれど、開いた手は、何かを渡すことが、できる手だった。
握る手では、できないこと。開いた手だから、できること。贈ること。
鶚が最後に、言ったこと。澪の手が空っぽなのは、負けたからでは、なかった。贈るために、空けてあったのだ。
*
「いやです」と澪は言った。
冬の眉がわずかに、動いた。広げた両手が、宙で止まる。
「わたしは、座りません」澪は、顔を上げた。「母は、折れたんじゃ、ない。隠して、わたしを産んで、生かした。それは折れたんじゃ、なくて、わたしに続きを、託したんです。織津姫も消えたんじゃ、ない。縫って、夫を放して、世界を遺した。誰も負けてなんか、いない。みんな、次に渡したんです。わたしに」
「渡された者は、また、折れる」冬が、言った。声に初めて、硬さが混じった。「お前も、折れる。歴史は、繰り返す」
「繰り返しません」と澪は言った。「織津姫は、ひとりで降りました。だから、消えました。でもわたしは、ひとりじゃ、ない」
澪は坂の上を、見た。雛が、いる。底の郷には、橡が、いる。火を囲む者たちが、いる。
鶚は消える前に、見届けると、言った。そして、黄泉の底には、斎が沈んでいる。澪の、開いた手を、待っている。
「織津姫は、ひとりで縫い切って、消えるしか、なかった。でもわたしには、放つ相手が、いる。受け取ってくれる人が、いる。だから、わたしはひとりで、消えない。消えるんじゃ、なくて――返しに行く」
*
「返す、とは」冬が、首を傾げた。「何を、だ」
「斎を」と澪は言った。「黄泉から、連れ戻します」
冬の、慈しむような目から、初めて、慈しみが消えた。
「それは、できない」と冬は言った。低い声だった。「死者は、連れ戻せない。神話を、知らぬのか。日之大神は、后を連れ戻しに、黄泉へ降りて、失敗した。掴んで、見て、しくじった。それが世界の、理だ。死から、還る道は、ない」
「日之大神は、掴んだから、失敗した」澪は、言った。「掴まなければ、よかったんです。放って、相手に還ることを、選ばせれば。鶚が、教えてくれました。それが黄泉返りの、作法だと」
黄泉返り。澪はその言葉を、口にした。
比良坂の儀の、正式の名。冬が、澪を穢れと呼んだ言葉。死から這い出た穢れ、と。同じ言葉が、いま別の意味で、澪の口から、出た。
死から、連れ戻す愛。蔑みの言葉が、望みの名に、裏返った。底へ来て、澪が何度も、見てきた裏返り。最後の裏返りを、澪は自分の手で、起こそうとしていた。
*
冬が、立ち上がった。
慈しみの消えた顔で、澪を見下ろした。柔らかな物腰の、表の皮が剥がれかけていた。その下の、鉄が覗いた。
「お前は、わかっていない」と冬は言った。「黄泉へ降りれば、お前も還れない。織津姫のように。縫い手の血は、黄泉に近すぎる。降りれば、二度と上がれない。斎を連れ戻すどころか、お前まで向こうに、囚われる。それをわかって、言っているのか」
「わかっています」と澪は言った。
「ならば、なぜ」
「斎が、待っているからです」澪は、立ち上がった。膝が、震えていた。それでも、立った。「あの人は、生まれてから、ずっとひとりでした。誰にも、触れられず。喰われるために、育てられて。わたしだけが、皿じゃなく、斎を見ました。わたしが行かなければ、誰も迎えに行かない。あの人は永遠に、ひとりで底にいる。それは――いやなんです。世界の理より、それが、いやなんです」
冬はしばらく、澪を見ていた。
それから、ふっと、息を吐いた。笏を、握り直す。慈しみは、戻らなかった。
代わりに量る目が、戻った。台帳の数字を、確かめる、あの目。
「面白い」と冬は言った。「お前は、世界を救う英雄には、ならなかった。代わりにひとりの男のために、世界の理に、抗うと言う。愚かだ。だが――その愚かさは、私にはないものだ。久しく、見ていない」
*
神が斎の体で、笑った。
「縫い手よ」と、古い声が言った。「来るなら、来い。黄泉の底まで。だが、覚えておけ。降りてきたお前を、待っているのは、もう斎では、ない。私だ。お前は私のところへ、来ることになる」
「いいえ」と澪は言った。神の、斎の顔をまっすぐ、見た。「あなたじゃ、ない。わたしは、斎を迎えに行く。あなたがどれだけ、斎の顔を被っても。わたしには、わかります。あの人の、ほんとうの顔が」
神の笑みが、わずかに固まった。斎の顔のまま。
澪はその顔から、目を逸らさなかった。神に半分喰われ、最後に丸ごと沈んだ、あの少年。けれど、消えてはいない。底に、沈んでいるだけだ。
橡が、言った。鶚が命を懸けて、託した。斎は、返せる。掴まずに。
放って。澪が黄泉へ降りて、開いた手を、差し出せば。斎が自分の足で、その手を選んでくれれば。
それは、まだ、できない。いまは、まだ。澪の糸は、斎を、一度、沈ませて、ほとんど、尽きかけている。鶚も、いない。
底へ降りる、作法も半分しか、わからない。けれど、道は見えた。四つめの道。
掴むでも捧げるでも、ほどくでもない。黄泉返り。それだけが、澪の、選ぶ道だった。
*
「いまは、行かせない」冬が、言った。「お前を、黄泉へは行かせない。お前の血は、惜しい。世界の縫い目で、使うべきものだ。器のために、無駄に、消させはしない」
冬が、笏を上げた。澪を捕らえようと、するように。
そのとき、坂の上から、声が、した。
「澪っ」
橡の、しわがれた声だった。続いて、底の者たちの、足音。繁の、低い声。
鶚が、消えたあと。澪と冬が、対峙しているあいだに。橡が底の者を、率いて、坂を下りてきていた。
墨の衣の、群れ。松明を、手に。世界の底の、捨てられた者たちが、大織主の前に、立ちはだかった。
「その娘を、連れていくなら」と橡が言った。「おれたち、全員を相手に、することになる。おれたちは、もう失うものが、ない。捨てられた者を、甘く、見るな」
冬は底の群れを、見た。墨の衣。墨の輪。
額の、黄泉印。世界が、ないことにした者たち。その全員が、いま澪のために、立っていた。
*
冬は、笏を下ろした。
「……今日は、ここまでに、しよう」と冬は言った。穏やかな声に、戻っていた。「底の者まで、敵に回すのは、得策では、ない。それに急ぐ必要も、ない。お前が黄泉へ降りる作法を、見つけられぬうちは、何も始まらん。ゆっくり、考えるがいい。お前が自分から、私のところへ、来る日を、また、待つとしよう」
冬は神の宿った斎の体を、伴って、岩のほうへ、退いた。斎の体が最後に、一度だけ、澪を振り返った。神の目で。けれど、その奥にほんの一瞬。
澪には、見えた。遠いものの、いちばん底で。小さな、小さな光が。沈んだ少年が、まだそこに、いる。
澪を、見ている。待っている。澪はその光に、声には出さず、誓った。迎えに行く、と。
斎の体は冬とともに、岩の向こうへ、消えた。神が、器を連れ去った。けれど、澪は、もう絶望しなかった。斎がどこにいるか、わかったから。
底の、底。黄泉の、奥。澪がこれから、降りていく場所。
*
底の者たちが、澪を囲んだ。
橡が杖をついて、近づいてきた。澪の肩に皺だらけの手を、置いた。
「鶚は」と老人は言った。
「黄泉に」澪は、言った。声が、掠れた。「わたしを、庇って。連れを迎えに行く、と言って」
橡はしばらく、黙っていた。それから、坂の上の、灰色の空を、見上げた。
「あいつは、ずっと、待ってたからな」と橡は言った。「降りる、口実を。お前がそれを、くれた。悼むな、とは言わん。だがあいつは、たぶん、いま笑ってる。やっと肩の荷を、下ろせた、と」
澪は黄泉の裂け目を、見た。鶚が消えた、黒い奥。そこに、斎も、いる。
鶚の、連れもいるのだろう。底の、底。澪がこれから、降りる場所。
怖く、なかった。斎が、いるなら。鶚が、先に行ったのなら。
*
坂を、上った。
雛が、待っていた。底の者の女が、抱いていてくれた。澪を見ると、雛は細い腕を、伸ばした。澪はその手を、握った。
久しぶりに、握れた、温かい手だった。咳は、まだ、出る。けれど、生きている。澪の、握れた、ただひとつの手。
「ねえちゃ」と雛が、言った。今度は、声になった。「斎、さまは」
雛は、知っていた。澪が誰のために、走ったのかを。澪は雛の頭を、撫でた。
掴まずに。そっと。
「いま、迎えに行けない場所に、いるの」と澪は言った。「でも、必ず、連れて帰る。あなたを、取り戻したみたいに。あの人も、取り戻す」
雛は、うなずいた。それから、澪の、空いたほうの手を、見た。白く、透けかけた、指先を。
雛は、何も言わずに、その手も握った。両手で。姉の、冷えた手を、温めるように。
*
その夜、底の郷で、澪は千引岩のほうを、見ていた。
裂け目から、黄泉の風が、吹き上げてくる。冷たい。けれど、もうこわく、なかった。
あの奥に、斎が、いる。鶚が、いる。澪がこれから、降りていく場所。
死者を連れ戻すなど、神話はできないと、言う。日之大神も、しくじった。世界の理は、死から還る道を、認めない。
けれど、と澪は思った。
理が、認めなくても。神話が、失敗していても。澪は、行く。掴まずに。
放って。開いた手を、差し出して。斎に自分の足で、還ることを、選ばせる。
それが織津姫の、最初の犠牲。贈与。鶚が命を懸けて、託した、作法。
澪はそれを、やり遂げる。織津姫がひとりで、できなかったことを。澪はひとりじゃ、ないから。
心を殺して、妹ひとりを、守りたかっただけの、少女だった。隠れて、潜って、目立たず、生きるはずだった。それが、いまは世界の底で、神話の禁に、抗おうとしている。
死者を、連れ戻すために。望みに、反して。けれど、後悔はなかった。
隠していたら、何も見えなかった。隠すのをやめたから、斎の孤独も、冬の嘘も底の火も、見えた。見えたものは、もうなかったことには、できない。
澪は雛の手を、握った。隣で眠る妹の、温かい手を。そして、もう片方の、空いた手を、千引岩の、奥の闇へ向けた。
「待っていて」と澪は、闇につぶやいた。「今度は、掴まない。引っぱったり、しない。だから――あなたは、あなたの足で、わたしの手まで、還ってきて」
黄泉の風が、澪の、開いた手のひらを、冷たく、撫でた。その指のさきは、もう、半分、向こう側の色を、していた。けれど、澪は、手を引かなかった。開いたまま、闇へ差し出していた。
世界の、いちばん底で。綻びの、底で。心を殺して生きた少女は、いま死から、愛する者を、返すと決めた。
それは終わりでは、なかった。底にひとつだけ、灯った、小さな火。次へ、続く、火だった。
底の夜がゆっくりと、更けていった。
――次巻へ。




