第一話 滲む黄泉
夜が明ける前の底は、いちばん冷える。
澪は筵の上で膝を抱えて、雛の寝息を聞いていた。小屋の壁は、組んだ木の隙間から、絶えず冷たいものを通す。穢野の底は、もとからそういう場所だった。
けれど、この冷えは違う。土の下から、足の裏を伝って這い上がってくる。
妹の額に貼りついた前髪を、指で払ってやる。
その指の先が、薄かった。
行灯の小さな灯にかざすと、爪の向こうに、壁の闇がうっすら透けて見えた。骨の影だけが、黒く残っている。手首まではまだ、澪の色をしている。指の先だけが、もう、ここのものではなかった。
握ってみる。
何も、握れなかった。
握ったつもりの手のひらに、いつかの感触を探す。斎の指。最後に掴んだ、あの手。
掴むな、と教わったのに、掴んでしまった手。そして、すり抜けていった。
鶚の声を探す。掴むな、放て。そう言い置いて、黄泉の風に吸われて消えた声。
どちらも、もう、ここにはない。
筵の向こうで、炭がひとつ、爆ぜた。
三日前、と数えてみて、数える意味もないと気づく。坂の上で雛を抱き取ってから、何日が経ったのか。底に日輪は届かない。
壁にさす光の色で、朝と昼と夕を分ける。それだけが、ここの刻だった。
雛は取り戻した。
それだけは、できた。
あとはぜんぶ、こぼれた。
鶚がいれば、皮肉のひとつでも言っただろう。泣くな、とは言わずに、泣く暇があるなら歩け、とでも。その声を思い出そうとすると、いつも最後の声で止まる。
掴むな、放て。黄泉の風に、さらわれていく声で。
斎の声はもっと、思い出せない。最後に聞いたのは、斎の声ではなかった。斎の喉から出た、神の声だった。
これでお前も、私のものだ。あの声ばかりが、耳の奥に貼りついている。
透けた指を、澪はもう一度、灯にかざした。痛みはない。冷たさも、感じない。指の先が、もう自分のものでないように、遠かった。
ここが、向こうへ近づいている証なのだと、橡は言った。縫うたびに、贈るたびに、半歩ずつ。
まだ、半歩。
けれど半歩は、戻らない。
雛が寝返りを打った。「ねえちゃ」と、眠ったまま、小さく呼ぶ。澪は息を二つ分止めて、肩を動かさずに、細く吐いた。
「ここにいる」
そう答えた声が、自分でも驚くほど、平らだった。
*
朝の色が、壁の上のほうで灰から薄い乳色に変わるころ、繁が坂を下りてきた。
肩に塩の袋を担いでいる。底では採れない、上の塩だ。それを土間に下ろして、繁は澪のほうを見ないまま言った。
「上は、祭りみてえだ」
「祭り」
「穢れは滅びた、ってな。触れが、隅々まで回ってる」
繁は塩の袋の口を縛り直した。指が、いつもより手間取っていた。
「水鏡が、また娘の話を映してるそうだ。けなげな娘が、世のために災いの根を断って、消えた、と。供物が社に戻った。呪符を書く奴は、もういねえ」
娘、というのが誰のことか、澪にはすぐ分かった。
自分のことだった。
讃えられ、狩られ、そして今度は、滅びたことにされた娘。同じ水面が、また語り口を変えただけだった。
「……そう」
それだけ言って、澪は土間の隅の、水を張った欠け椀を見た。底にも、水を溜める器はある。けれど、その面は何も映さない。
黄泉に近い底ほど、水鏡の目は届かない。だから上は、ここを「ないこと」にできる。
ないことにされた底から、澪は上の祭りを思い浮かべた。
社に戻る供物。明るい水面。にぎわう声。
誰も、知らない。斎が、まだ黄泉の底にいることを。あの裂け目が、いまも少しずつ、ひらいていることを。
祭りは、墓の上で踊っていた。
澪もかつては、その輪の中にいた。葦境の隅で、水鏡に手を合わせ、誰かの名を讃え、いつかは誰かの名を呪った。水鏡が見せたいものだけを見て、それを世界だと思っていた。輪の中にいると、墓は見えない。
繁が塩の袋から、ひとつかみを欠け椀の水に落とした。穢れを祓うためではない。底では、塩は薬の代わりだ。
傷を洗い、熱を引かせる。上が祓いのために撒くものを、底は生きるために使う。
「お前さんの妹、熱は」
「引きました。繁さんの塩で」
「おれの塩じゃねえ。橡さまが、寄越せと言っただけだ」
言い捨てて、繁は背を向けた。けれど土間を出ていく前に、一度だけ足を止めた。
「……上が滅びたことにしてくれてんなら、いまのうちだぞ。狩りは、来ねえ。動くなら、今だ」
それだけ言って、繁は坂を上っていった。
動くなら、今。
澪は透けた指を、握った。
*
昼、壁の光がいちばん白くなる刻に、澪は穢野の奥へ歩いた。
郷の小屋を抜けて、誰も住まない岩場を越える。そこに、地面の裂けた場所がある。
千引岩。
世界の縁だ、と橡は言った。生きているものと、死んだものの、縫い目だと。
裂け目からは、絶えず、冷たい息が吹き上げていた。
近づくと頬の産毛が、ぴりぴりと逆立つ。岩の表面に、白い霜が降りている。底に霜など、降るはずがなかった。それなのに、裂け目のまわりだけ、草が黒く縮れて、石が白く凍てついていた。
裂け目の縁、岩と岩のあわいに、細い光の筋が、何本も渡っている。蜘蛛の糸より、なお細い。神織の糸だ、と橡は言った。世界を、かろうじて縫いとめているもの。
その糸の、何本かが切れて、垂れていた。
切れた先が、黄泉の風に、力なく揺れている。
裂け目のまわりには、もう、虫の声もしない。底には底の虫がいて、岩のあわいで、絶えず小さく鳴いている。それがここだけ、絶えていた。
生きたものが、近づかない。近づけば、半歩、向こうへ引かれるからだ。澪のように。
澪は、縁に膝をついた。
覚えている。雛を抱いて坂を上ったとき、振り返って見た、この裂け目を。あのときは、人ひとりが落ちるくらいの幅だった。
今は両腕を広げても、向こうの縁に手が届かない。
ひらいている。少しずつ、けれど、確かに。
縫い手がいなくなれば、糸は切れる。喰われ続けて、薄められて、最後の濃い一滴になった自分のことを、上は祭りで、滅びたことにした。だから、誰も縫わない。糸は、切れていく。
いつか橡が言った。綻びは、もう、危機ではない。起きていることだ、と。葦境は半分、病に沈んだ。
北の田は、実らなかった。穢野は、年ごとに広がっている。それでも上は、それを澪のせいにして、収穫でまた繕おうとする。繕い手を喰えば喰うほど、糸は早く切れる、とも知らずに。
冷たい息に乗って、匂いがのぼってくる。穢野の饐えた匂いとは違う。もっと深い、水の底の匂い。澪の鼻の奥に、内側から立ちのぼるのと、同じ匂いだった。
透けた指を、裂け目のほうへ伸ばす。
痛みはない。ただ、引かれた。糸を引くように、指の先が向こうへ、向こうへと傾いていく。
澪は、手を引いた。息を二つ、止めた。
この底に、斎がいる。神に抱え込まれて、いちばん深いところに。冬が連れていった、あの体の、奥のほうに。
裂け目の底から、ときおり、声のようなものがのぼってくる。言葉ではない。風が岩を撫でる音かもしれない。けれど澪には、誰かが、ずっと遠くで呼んでいる声に、聞こえた。
そして世界は、それを「滅びた」と呼んで、祭りをしている。
裂け目の冷気が、また一段、濃くなった。澪の迷いの分だけ、濃くなった。
*
夕の色が壁を上っていくころ、橡が澪を火の奥の小屋へ呼んだ。
橡は灰に近い墨の衣をまとって、火の傍に座っていた。色の抜けた衣の中で、目だけが澄んでいる。澪が筵に膝をつくと、橡はまず、その手を見た。透けた指を、咎めるでも、憐れむでもなく、ただ見た。
「進んだな」
「……はい」
「立てるか」
「立てます」
橡は、火に枝をくべた。火の粉が、二人のあいだを上っていく。
「斎は、まだ、あそこにいます」と澪は言った。裂け目の底を、見てきたばかりの目で。「あの底に。神に、呑まれて」
「呑まれて、消えたか」
「消えて、いません」
言い切ってから、澪は自分の声の確かさに、少し驚いた。
冬が斎を連れて退くとき、神の宿った体が、一度だけ振り返った。神の目だった。古い、底の知れない目。
けれど、その奥に小さな光があった。沈んだ斎が、澪を見ていた。声に出せないまま、待っている、と言っていた。
あれを、見間違いだとは思わない。
「目の奥に、光がありました」と澪は言った。「斎は、内に沈んでいるだけです。消えては、いない」
橡は、しばらく火を見ていた。それから、うなずいた。
「なら、返せる」
返せる、という言葉が、火の音の中に、ことりと落ちた。
「鶚が遺した作法を、覚えているな」
「掴むな、放て」
「そうだ」橡は、枝の先で、土に細い線を一本引いた。「日之大神は、后を掴んで連れ戻そうとして、しくじった。掴めば、逃げる。引けば、切れる。返すというのは、掴むことじゃない。相手が、自分の足で還ってくるのを、放って、待つことだ」
澪は、自分の透けた指を見た。掴むな、と言われた手。けれど、これまでの十六年、澪はずっと、握って生きてきた。
雛を握って守ろうとして、奪われた。斎を握って引き戻そうとして、こぼした。
頭では、分かる。
手は、まだ、覚えていない。
「わたしには、まだ、できません」と澪は言った。「放つ、というのが、どういうことか。頭では分かるのに、手が、握ろうとします」
「分かっているなら、上等だ」橡は、めずらしく、口の端をわずかに上げた。「できると思い込んでいる者より、よほど近い」
火が、ぱちりと鳴った。
「橡さま」と澪は言った。「わたしは、二つ、決めました」
「言ってみろ」
「斎を、黄泉から、連れ戻します」声が、震えなかった。「黄泉返りを、します。掴まずに。それから――上の嘘を、覆します。穢れは、滅んでいない。穢れは、世界を縫う糸だった。それを誰の目にも、見えるようにします。糸が、ぜんぶ切れてしまう前に」
橡は長いこと、澪を見ていた。
「お前の母も、抗うた者だった」と、ぽつりと言った。「血の意味を知って、儀を止めようとした。だが、折れた。隠して、お前を産んで、血を闇に沈めて、それから、折れた」
澪は、母の、声を殺して泣く横顔を思い出した。あれは抗って、折れた者の涙だったのだ。
「折れたことを、恥じるな」橡は言った。「折れた者は、続きを次の手に渡す。お前の母は、お前に渡した。鶚は、お前に渡した。織津姫も、たぶん、誰かに渡したかった。渡す相手が、いなかっただけだ」
火の粉が、また一つ、上っていった。
「お前には、渡す相手がいる。お前自身が、渡された相手だ」
火が、低く燃えていた。
「織津姫は、ひとりで降りて、ひとりで縫って、ひとりで消えた」橡は、火を見たまま言った。「だから、神話になった。返してくれる手が、上で待っていなかったからだ。お前は、違う。降りても、戻る場所がある。待つ者がいる。わしがいる。底の者がいる。妹がいる。先に行った鶚も、たぶん、向こうで待っている」
澪は、火の向こうの橡を見た。皮肉で武装した鶚とは違う、静かな確信の目だった。
「ひとりで縫おうとするな」橡は言った。「それが、織津姫と、違う道の入り口だ」
澪は透けた指を、ゆっくりと開いた。
握るための手では、なかった。
*
夜、雛が目を覚ました。
澪が筵に戻ると、妹は暗がりの中で、じっと天井の闇を見ていた。澪に気づくと、雛は身を起こして、姉の手を取った。
冷たい、と言われるかと思った。けれど雛は、何も言わなかった。ただ、澪の指を両手で包んだ。小さな手のひらの中で、澪の指の先が、行灯の灯に、薄く透けている。
雛の目が、その指を見ていた。
「ねえちゃ」と雛は言った。声は、明るかった。明るくしようと、している声だった。「この手、あったかくない」
「……うん」
「あのね」雛は、姉の袖を、見えないところで小さく握った。言葉は平気そうなのに、指先だけが、離さなかった。「この手、向こうに、行っちゃうの」
澪は、答えられなかった。
向こう。雛は、黄泉とは言わなかった。けれど、分かっていた。
この子は、いつも分かってしまう。姉が言わないことほど、分かってしまう。
雛の息が、浅く、速くなっていた。笑顔のまま、肩だけが小さく上下している。怖いのを、姉に見せまいとするときの、息だった。
澪はその息を、覚えがあった。
自分の息だった。
握りしめて、隠して、平気な顔をする。澪が十六年してきたことを、この小さな妹が、いま姉のために、している。
澪は雛の手を、握り返さなかった。
握れば、この子も、握ることを覚えてしまう。だから、握らなかった。代わりに雛の手のひらに、自分の手のひらを、そっと重ねた。
掴まずに。ただ、温もりだけを、渡すように。
「すぐには、行かない」と澪は言った。「行くときは、ちゃんと、言う」
それは、嘘ではなかった。けれど、安心させる言葉でも、なかった。
雛の手のひらが、澪の透けた指の冷たさを、少しずつ温めようとする。温まりはしない。それでも雛は、やめなかった。
「ねえちゃ」と、雛がまた言った。「斎さまも、向こうにいるの」
澪は、息を止めた。
「うん」
「じゃあ、迎えに行くんだね」雛の声は、もう、明るくしようとしていなかった。「ねえちゃは、迎えに行く人だもん」
澪は、答えなかった。けれど、その言葉が、胸の、いちばん冷えたところに、小さく灯った。
雛はそれ以上、聞かなかった。聞けば、姉が困ると、知っていた。代わりに姉の手のひらに、額をのせて、目を閉じた。
小屋の壁の隙間から、冷たいものが、また入ってきた。
夜明け前の冷えではない。まだ、夜の半ばだった。それなのに、息が、白い。
底に白い息など、立つはずがなかった。
澪は闇の向こう、穢野の奥のほうを見た。
千引岩の裂け目が、また、少し、ひらいた音がした気がした。




