表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
水鏡の花嫁  作者: 甕星 慶(ミカボシケイ)
第三部

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
27/39

第一話 滲む黄泉

夜が明ける前の底は、いちばん冷える。


(みお)(むしろ)の上で膝を抱えて、(ひな)の寝息を聞いていた。小屋の壁は、組んだ木の隙間から、絶えず冷たいものを通す。穢野(えの)の底は、もとからそういう場所だった。


けれど、この冷えは違う。土の下から、足の裏を伝って這い上がってくる。


妹の額に貼りついた前髪を、指で払ってやる。


その指の先が、薄かった。


行灯(あんどん)の小さな灯にかざすと、爪の向こうに、壁の闇がうっすら透けて見えた。骨の影だけが、黒く残っている。手首まではまだ、澪の色をしている。指の先だけが、もう、ここのものではなかった。


握ってみる。


何も、握れなかった。


握ったつもりの手のひらに、いつかの感触を探す。(いつき)の指。最後に掴んだ、あの手。


掴むな、と教わったのに、掴んでしまった手。そして、すり抜けていった。


(みさご)の声を探す。掴むな、放て。そう言い置いて、黄泉(よみ)の風に吸われて消えた声。


どちらも、もう、ここにはない。


筵の向こうで、炭がひとつ、爆ぜた。


三日前、と数えてみて、数える意味もないと気づく。坂の上で雛を抱き取ってから、何日が経ったのか。底に日輪は届かない。


壁にさす光の色で、朝と昼と夕を分ける。それだけが、ここの刻だった。


雛は取り戻した。


それだけは、できた。


あとはぜんぶ、こぼれた。


鶚がいれば、皮肉のひとつでも言っただろう。泣くな、とは言わずに、泣く暇があるなら歩け、とでも。その声を思い出そうとすると、いつも最後の声で止まる。


掴むな、放て。黄泉の風に、さらわれていく声で。


斎の声はもっと、思い出せない。最後に聞いたのは、斎の声ではなかった。斎の喉から出た、神の声だった。


これでお前も、私のものだ。あの声ばかりが、耳の奥に貼りついている。


透けた指を、澪はもう一度、灯にかざした。痛みはない。冷たさも、感じない。指の先が、もう自分のものでないように、遠かった。


ここが、向こうへ近づいている証なのだと、(つるばみ)は言った。縫うたびに、贈るたびに、半歩ずつ。


まだ、半歩。


けれど半歩は、戻らない。


雛が寝返りを打った。「ねえちゃ」と、眠ったまま、小さく呼ぶ。澪は息を二つ分止めて、肩を動かさずに、細く吐いた。


「ここにいる」


そう答えた声が、自分でも驚くほど、平らだった。


   *


朝の色が、壁の上のほうで灰から薄い乳色に変わるころ、(しげ)が坂を下りてきた。


肩に塩の袋を担いでいる。底では採れない、上の塩だ。それを土間に下ろして、繁は澪のほうを見ないまま言った。


「上は、祭りみてえだ」


「祭り」


「穢れは滅びた、ってな。触れが、隅々まで回ってる」


繁は塩の袋の口を縛り直した。指が、いつもより手間取っていた。


「水鏡が、また娘の話を映してるそうだ。けなげな娘が、世のために災いの根を断って、消えた、と。供物が社に戻った。呪符を書く奴は、もういねえ」


娘、というのが誰のことか、澪にはすぐ分かった。


自分のことだった。


讃えられ、狩られ、そして今度は、滅びたことにされた娘。同じ水面が、また語り口を変えただけだった。


「……そう」


それだけ言って、澪は土間の隅の、水を張った欠け椀を見た。底にも、水を溜める器はある。けれど、その面は何も映さない。


黄泉に近い底ほど、水鏡の目は届かない。だから上は、ここを「ないこと」にできる。


ないことにされた底から、澪は上の祭りを思い浮かべた。


社に戻る供物。明るい水面。にぎわう声。


誰も、知らない。斎が、まだ黄泉の底にいることを。あの裂け目が、いまも少しずつ、ひらいていることを。


祭りは、墓の上で踊っていた。


澪もかつては、その輪の中にいた。葦境(あしざかい)の隅で、水鏡に手を合わせ、誰かの名を讃え、いつかは誰かの名を呪った。水鏡が見せたいものだけを見て、それを世界だと思っていた。輪の中にいると、墓は見えない。


繁が塩の袋から、ひとつかみを欠け椀の水に落とした。穢れを祓うためではない。底では、塩は薬の代わりだ。


傷を洗い、熱を引かせる。上が祓いのために撒くものを、底は生きるために使う。


「お前さんの妹、熱は」


「引きました。繁さんの塩で」


「おれの塩じゃねえ。橡さまが、寄越せと言っただけだ」


言い捨てて、繁は背を向けた。けれど土間を出ていく前に、一度だけ足を止めた。


「……上が滅びたことにしてくれてんなら、いまのうちだぞ。狩りは、来ねえ。動くなら、今だ」


それだけ言って、繁は坂を上っていった。


動くなら、今。


澪は透けた指を、握った。


   *


昼、壁の光がいちばん白くなる刻に、澪は穢野の奥へ歩いた。


郷の小屋を抜けて、誰も住まない岩場を越える。そこに、地面の裂けた場所がある。


千引岩(ちびきいわ)


世界の縁だ、と橡は言った。生きているものと、死んだものの、縫い目だと。


裂け目からは、絶えず、冷たい息が吹き上げていた。


近づくと頬の産毛が、ぴりぴりと逆立つ。岩の表面に、白い霜が降りている。底に霜など、降るはずがなかった。それなのに、裂け目のまわりだけ、草が黒く縮れて、石が白く凍てついていた。


裂け目の縁、岩と岩のあわいに、細い光の筋が、何本も渡っている。蜘蛛の糸より、なお細い。神織(かみおり)の糸だ、と橡は言った。世界を、かろうじて縫いとめているもの。


その糸の、何本かが切れて、垂れていた。


切れた先が、黄泉の風に、力なく揺れている。


裂け目のまわりには、もう、虫の声もしない。底には底の虫がいて、岩のあわいで、絶えず小さく鳴いている。それがここだけ、絶えていた。


生きたものが、近づかない。近づけば、半歩、向こうへ引かれるからだ。澪のように。


澪は、縁に膝をついた。


覚えている。雛を抱いて坂を上ったとき、振り返って見た、この裂け目を。あのときは、人ひとりが落ちるくらいの幅だった。


今は両腕を広げても、向こうの縁に手が届かない。


ひらいている。少しずつ、けれど、確かに。


縫い手がいなくなれば、糸は切れる。喰われ続けて、薄められて、最後の濃い一滴になった自分のことを、上は祭りで、滅びたことにした。だから、誰も縫わない。糸は、切れていく。


いつか橡が言った。綻びは、もう、危機ではない。起きていることだ、と。葦境は半分、病に沈んだ。


北の田は、実らなかった。穢野は、年ごとに広がっている。それでも上は、それを澪のせいにして、収穫でまた繕おうとする。繕い手を喰えば喰うほど、糸は早く切れる、とも知らずに。


冷たい息に乗って、匂いがのぼってくる。穢野の饐えた匂いとは違う。もっと深い、水の底の匂い。澪の鼻の奥に、内側から立ちのぼるのと、同じ匂いだった。


透けた指を、裂け目のほうへ伸ばす。


痛みはない。ただ、引かれた。糸を引くように、指の先が向こうへ、向こうへと傾いていく。


澪は、手を引いた。息を二つ、止めた。


この底に、斎がいる。神に抱え込まれて、いちばん深いところに。(ふゆ)が連れていった、あの体の、奥のほうに。


裂け目の底から、ときおり、声のようなものがのぼってくる。言葉ではない。風が岩を撫でる音かもしれない。けれど澪には、誰かが、ずっと遠くで呼んでいる声に、聞こえた。


そして世界は、それを「滅びた」と呼んで、祭りをしている。


裂け目の冷気が、また一段、濃くなった。澪の迷いの分だけ、濃くなった。


   *


夕の色が壁を上っていくころ、橡が澪を火の奥の小屋へ呼んだ。


橡は灰に近い墨の衣をまとって、火の傍に座っていた。色の抜けた衣の中で、目だけが澄んでいる。澪が筵に膝をつくと、橡はまず、その手を見た。透けた指を、咎めるでも、憐れむでもなく、ただ見た。


「進んだな」


「……はい」


「立てるか」


「立てます」


橡は、火に枝をくべた。火の粉が、二人のあいだを上っていく。


「斎は、まだ、あそこにいます」と澪は言った。裂け目の底を、見てきたばかりの目で。「あの底に。神に、呑まれて」


「呑まれて、消えたか」


「消えて、いません」


言い切ってから、澪は自分の声の確かさに、少し驚いた。


冬が斎を連れて退くとき、神の宿った体が、一度だけ振り返った。神の目だった。古い、底の知れない目。


けれど、その奥に小さな光があった。沈んだ斎が、澪を見ていた。声に出せないまま、待っている、と言っていた。


あれを、見間違いだとは思わない。


「目の奥に、光がありました」と澪は言った。「斎は、内に沈んでいるだけです。消えては、いない」


橡は、しばらく火を見ていた。それから、うなずいた。


「なら、返せる」


返せる、という言葉が、火の音の中に、ことりと落ちた。


「鶚が遺した作法を、覚えているな」


「掴むな、放て」


「そうだ」橡は、枝の先で、土に細い線を一本引いた。「日之大神(ひのおおかみ)は、后を掴んで連れ戻そうとして、しくじった。掴めば、逃げる。引けば、切れる。返すというのは、掴むことじゃない。相手が、自分の足で還ってくるのを、放って、待つことだ」


澪は、自分の透けた指を見た。掴むな、と言われた手。けれど、これまでの十六年、澪はずっと、握って生きてきた。


雛を握って守ろうとして、奪われた。斎を握って引き戻そうとして、こぼした。


頭では、分かる。


手は、まだ、覚えていない。


「わたしには、まだ、できません」と澪は言った。「放つ、というのが、どういうことか。頭では分かるのに、手が、握ろうとします」


「分かっているなら、上等だ」橡は、めずらしく、口の端をわずかに上げた。「できると思い込んでいる者より、よほど近い」


火が、ぱちりと鳴った。


「橡さま」と澪は言った。「わたしは、二つ、決めました」


「言ってみろ」


「斎を、黄泉から、連れ戻します」声が、震えなかった。「黄泉返り(よみがえり)を、します。掴まずに。それから――上の嘘を、覆します。穢れは、滅んでいない。穢れは、世界を縫う糸だった。それを誰の目にも、見えるようにします。糸が、ぜんぶ切れてしまう前に」


橡は長いこと、澪を見ていた。


「お前の母も、抗うた者だった」と、ぽつりと言った。「血の意味を知って、儀を止めようとした。だが、折れた。隠して、お前を産んで、血を闇に沈めて、それから、折れた」


澪は、母の、声を殺して泣く横顔を思い出した。あれは抗って、折れた者の涙だったのだ。


「折れたことを、恥じるな」橡は言った。「折れた者は、続きを次の手に渡す。お前の母は、お前に渡した。鶚は、お前に渡した。織津姫(おりつひめ)も、たぶん、誰かに渡したかった。渡す相手が、いなかっただけだ」


火の粉が、また一つ、上っていった。


「お前には、渡す相手がいる。お前自身が、渡された相手だ」


火が、低く燃えていた。


「織津姫は、ひとりで降りて、ひとりで縫って、ひとりで消えた」橡は、火を見たまま言った。「だから、神話になった。返してくれる手が、上で待っていなかったからだ。お前は、違う。降りても、戻る場所がある。待つ者がいる。わしがいる。底の者がいる。妹がいる。先に行った鶚も、たぶん、向こうで待っている」


澪は、火の向こうの橡を見た。皮肉で武装した鶚とは違う、静かな確信の目だった。


「ひとりで縫おうとするな」橡は言った。「それが、織津姫と、違う道の入り口だ」


澪は透けた指を、ゆっくりと開いた。


握るための手では、なかった。


   *


夜、雛が目を覚ました。


澪が筵に戻ると、妹は暗がりの中で、じっと天井の闇を見ていた。澪に気づくと、雛は身を起こして、姉の手を取った。


冷たい、と言われるかと思った。けれど雛は、何も言わなかった。ただ、澪の指を両手で包んだ。小さな手のひらの中で、澪の指の先が、行灯の灯に、薄く透けている。


雛の目が、その指を見ていた。


「ねえちゃ」と雛は言った。声は、明るかった。明るくしようと、している声だった。「この手、あったかくない」


「……うん」


「あのね」雛は、姉の袖を、見えないところで小さく握った。言葉は平気そうなのに、指先だけが、離さなかった。「この手、向こうに、行っちゃうの」


澪は、答えられなかった。


向こう。雛は、黄泉とは言わなかった。けれど、分かっていた。


この子は、いつも分かってしまう。姉が言わないことほど、分かってしまう。


雛の息が、浅く、速くなっていた。笑顔のまま、肩だけが小さく上下している。怖いのを、姉に見せまいとするときの、息だった。


澪はその息を、覚えがあった。


自分の息だった。


握りしめて、隠して、平気な顔をする。澪が十六年してきたことを、この小さな妹が、いま姉のために、している。


澪は雛の手を、握り返さなかった。


握れば、この子も、握ることを覚えてしまう。だから、握らなかった。代わりに雛の手のひらに、自分の手のひらを、そっと重ねた。


掴まずに。ただ、温もりだけを、渡すように。


「すぐには、行かない」と澪は言った。「行くときは、ちゃんと、言う」


それは、嘘ではなかった。けれど、安心させる言葉でも、なかった。


雛の手のひらが、澪の透けた指の冷たさを、少しずつ温めようとする。温まりはしない。それでも雛は、やめなかった。


「ねえちゃ」と、雛がまた言った。「斎さまも、向こうにいるの」


澪は、息を止めた。


「うん」


「じゃあ、迎えに行くんだね」雛の声は、もう、明るくしようとしていなかった。「ねえちゃは、迎えに行く人だもん」


澪は、答えなかった。けれど、その言葉が、胸の、いちばん冷えたところに、小さく灯った。


雛はそれ以上、聞かなかった。聞けば、姉が困ると、知っていた。代わりに姉の手のひらに、額をのせて、目を閉じた。


小屋の壁の隙間から、冷たいものが、また入ってきた。


夜明け前の冷えではない。まだ、夜の半ばだった。それなのに、息が、白い。


底に白い息など、立つはずがなかった。


澪は闇の向こう、穢野の奥のほうを見た。


千引岩の裂け目が、また、少し、ひらいた音がした気がした。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ