第二話 世界が乞う
朝が来ても、白い息が消えなかった。
夜のあいだに郷へ降りてきた冷気は、日の刻になっても、引かなかった。澪は小屋を出て、郷を見渡した。掘っ立て小屋の屋根に、薄く霜が乗っている。
底に霜が降りたことなど、一度もなかった。井戸端の水が、縁から白く凍りはじめていた。
子どもが凍った水に触れて、指を引っ込めて泣いた。母親が、火のそばへ抱いて連れていく。火を絶やすな、と誰かが言った。火だけが、いまの底の頼りだった。
けれど、その火さえ、いつもより小さく見えた。薪は乾いているのに、炎が上へ伸びきらない。冷気が、火の勢いまで吸い取っていた。
黄泉が、のぼってきている。
千引岩の裂け目から、夜ごと少しずつ。底はもともと、黄泉に近い。けれど、これは近いというより、滲み出している、と言ったほうが正しかった。境が、ほどけはじめている。
小屋の中で、雛が、まだ眠っていた。薄い肩に、澪は自分の衣をかけてやった。妹の寝息だけが、白くならずに、温かい。この子のいる場所まで冷気が届くのは、もう、刻の問題だった。
郷の者たちが、火のまわりに寄りはじめている。誰も、声を立てない。底で生きる者は、恐れを声に出さない。
声に出したところで、誰も助けに来ないことを、知っている。だから、ただ火に薪をくべる。手だけが、忙しく動く。
繁の言葉を、思い出した。動くなら、今だ、と。上が滅びたことにしてくれているあいだは、狩りは来ない。
澪は、上を見たかった。世界が、いま、どうなっているのか。嘘がどんな顔をして、回っているのか。それを見ないまま底に隠れているのは、十六年してきたことの、繰り返しだった。
もう、隠れない。
麻の衣の上に、墨の布をかぶる。坂を、上りはじめた。
小屋の前で、橡が澪を見た。止めはしなかった。
「呼ばれてから動く者は、いつも遅い」と、火に枝をくべながら言った。「呼ばれる前に、見ておけ。世界が、何を欲しがって泣くか」
坂を上る途中、鳥が一羽、岩の上に落ちていた。死んでいた。羽に、霜が降りている。
空を飛んでいたものが、冷気に打たれて、落ちたのだ。澪は、またいで通り過ぎた。立ち止まる刻は、なかった。
*
坂を上りきると、清浄の縁に出た。
ここから上は、檜と白の世界だ。底の墨とは、空気からして違う。けれど、その空気に、底とおなじ冷たさが、混じっていた。
檜の柱に、白い霜の筋が走っている。清いはずの場所が、底とおなじ息を、吐きはじめていた。
道の脇に、水盤がひとつ据えてある。浅い水を張った、水鏡。国じゅうの目を映し、国じゅうへ映す、見届けの水面。澪は墨の布を目深にして、その縁に近づいた。
水面に、顔が映っていた。
澪の顔ではない。どこか遠くの、知らない者たちの顔。水鏡は、いつもそうだ。覗いた者の顔ではなく、国じゅうが見ているものを、映す。
映っていたのは、祈りだった。
老人が、水鏡に手を合わせている。救い手はどこに、と言っている。女が子を抱いて、水面に額をつけている。お助けください、どなたか、と。
痩せた畑の村が映る。凍った川が映る。半分が病に沈んだ、葦境の、見覚えのある葦原が映る。
葦境。澪の、生まれた里。
そのどの水面にも、おなじ言葉が、揺れていた。
救い手は、どこに。
水面の声は、ひとつではなかった。何十、何百という祈りが重なって、低い唸りになっている。社へ詣でる列が映る。供物を捧げる手が映る。
けれど、捧げても捧げても、寒さは引かない。引かないから、もっと捧げる。捧げるものが尽きた者は、ただ水面に手を合わせて、救い手を乞う。
澪の知った顔も、あった。葦境で澪の家の前を通るたび、袖で口を覆っていった女。穢れに近づくまいとした、あの女が、いま痩せた子を抱いて、水面に額をすりつけている。あの女が乞う救い手の血を、あの女はかつて避けて通った。
澪はその皮肉を、笑えなかった。怒ることも、できなかった。みんな、寒くて、こわいのだ。こわい者はいつだって、すがる先と、突き落とす先を、おなじ手で探している。
かつて、この水面は、澪を讃えた。けなげな娘、と。次に、澪を狩った。
穢れ、と。そしていま、救い手を乞うている。讃える指も、突き落とす指も、すがる指も、ぜんぶ、おなじ水面の、おなじ指だった。
乞われている救い手が、自分たちの滅ぼした娘かもしれないとは、誰も思っていない。思えるはずが、なかった。水鏡は見せたいものしか、見せない。いまはすがる自分たちの顔しか、映していない。
澪はその水面を、長いこと見ていた。
里の葦原が、また映った。子どものころ、雛と二人で隠れた、あの葦の茂み。いまは半分が、黒く枯れている。あの葦の根もとにも、冷気がのぼってきているのだ。
守りたかったものが、遠くで凍えていく。隠れていても、底にいても、それは止まらない。
澪は水面に、手を伸ばしかけた。遠い葦原に、触れられでもするかと。透けた指が、水面へ近づく。
映った指は、水の底のもっと遠くから伸びる、誰かの指に見えた。澪の指では、ないように。澪は、手を引いた。
*
水面がふいに、翳った。
墨を一滴、落としたような翳り。けれど、逢魔が時ではなかった。昼の刻に水鏡が、濁る。国じゅうの水面が、いま、おなじものを映そうとしている。
白い衣が、映った。
冬だった。
笏を手に、水面の向こうから、国じゅうを見ている。慈しむような、静かな目で。
「恐れるな」と冬は言った。声は、穏やかだった。「黄泉返りの穢れは、滅びた。世を脅かした根は、断たれた。いま世に残るのは、その祟りの、名残にすぎない」
祟り、と冬は言った。
「滅びた穢れの、最後の毒が、地に滲んでいる。この寒さも、不作もその毒だ。だが、案ずるな。毒は清い血で、清められる。供物を絶やすな。儀を、絶やすな。さすれば世はふたたび、暖かくなる」
水面の向こうで、人々が、ひれ伏していくのが見えた。さきほどまで救い手を乞うていた手が、いまは冬を拝んでいる。救い手は、すでにここにいた。
そう信じられれば、寒さも少しは耐えられる。誰もその救い手が、世界を喰っている手だとは、知らない。
世のために、と冬の声は続く。尊い犠牲が、世を救う、と。その言葉を、澪は底で、自分に向けて聞かされたことがあった。
おなじ声。おなじ慈しみ。違うのは、いま、それが国じゅうへ降り注いでいることだった。
国じゅうが、尊い犠牲を、待ちはじめている。誰か一人が、進んで喰われてくれるのを。その一人に、冬は澪を据えるつもりだった。
澪は、水面の冬を見ていた。
嘘の、つき方が変わっていた。滅びた、と言った口で、まだ祟りがある、と言う。穢れは断った、と言った手で、まだ供物を出せ、と言う。
矛盾している。
けれど、すがる者には、矛盾は見えない。火が欲しい者は、火をくれると言う者の言葉を、疑わない。冬はそれを、知り尽くしていた。
水面の冬が、ふとこちらを見た気がした。慈しむ目のまま、瞳の動きだけが、止まっている。国じゅうの恐れを、ひとつひとつ量る目だった。
誰が、まだ信じているか。誰が、まだ供物を出すか。それを数える目で、世界を見ていた。
恐れている者は、数えやすい。
澪は布の下で、目を伏せた。
*
坂を下りながら、澪は考えていた。
供物を絶やすな、と冬は言った。儀を絶やすな、と。けれど、その儀こそが、世界を早くほどいている。
橡が、底で教えてくれた。比良坂の儀は、綻びを繕う儀ではない。世界を縫う糸を、喰う儀だ。
縫い手を喰えば喰うほど、糸は減る。糸が減れば、綻びは早まる。
冬は、それを知っている。知っていて、なお、供物を出せと言う。
なぜ。
答えはひとつしか、なかった。冬は世界を救う気が、ないのだ。正しくは救うふりをしたまま、いちばん濃い血を――最後の縫い手を、待っている。その血が自分の足で、縫い目の中心へ来るのを。
恐れた世界が、すがればすがるほど、その血は追いつめられる。逃げ場を、なくしていく。
その血が、とうとう逃げ場を失って、自分から縫い目へ降りてくれば、冬は指一本汚さずに、世界でいちばん尊い犠牲を手に入れる。世界は救われたと信じ、澪は進んで世を救った娘として、水鏡にいつまでも讃えられる。讃えられながら、喰われる。それが冬の描いた、いちばん美しい絵だった。
縁の道で、澪は、見た。
神官が二人、ひとりの娘を、社のほうへ連れていく。娘は、まだ幼い。手首に、墨の印がある。穢れの血を、わずかにでも引く者の、印だ。
娘は、抗わなかった。世のために、と言い聞かされた顔をしていた。誇らしげで、こわばった顔。
娘の足が社の段の前で、一度だけ止まった。ほんの一瞬、誇らしさの仮面が、剥がれかけた。怖い、と顔に出かかった。
けれど娘は、すぐにまた笑った。世のために選ばれた者が、怖がってはいけないと、教わったのだ。
あれはわたしだ、と澪は思った。妹の代わりに、水鏡の前へ出た、あのときの。
止めたかった。
止めれば、澪がここにいると、知れる。滅びたはずの娘が、生きていると。そうなれば、狩りが、また始まる。
底まで、降りてくる。雛のところまで。
神官のひとりが、ふと足を止めた。道の端の、墨の布をかぶった者へ、目を向ける。澪は息を二つ止めて、うつむいた。
物乞いだと思われればいい。底から、おこぼれを拾いに来た、名もない墨の影だと。
神官はしばらく澪を見て、それから、興味を失った。滅びたものを、わざわざ疑う者はいない。滅びたことにした手が、いちばん、油断する。
澪は墨の布の下で、手を握った。透けた指が、布を掴んでいた。
掴むことしか、できなかった。
いまの澪にできるのは、それだけだった。社へ消える娘を、見送ることしか。透けた指で、布を握りしめることしか。けれど、握った手のなかは、いつも空だった。
娘は社の奥へ、消えた。
また一本、糸が切れる音が、澪には聞こえた気がした。
嘘を覆さねば、世界は喰われて死ぬ。寒さは止まらず、娘たちは社へ消え、葦境の葦は、根まで凍る。
そして、その嘘を覆せるのは、その嘘に滅ぼされたことにされた、わたしだけだ。
澪は、坂を下りきった。
*
底へ戻ると、夕の色が壁を這い上がっていた。
澪は、火のそばに座った。手が、まだ冷たかった。さっき握った布の感触が、指に残っている。掴むことしか、できなかった指に。
年寄りがひとり、澪のとなりに腰を下ろした。黄泉子の、いちばん古い女だ。目は、ほとんど見えていない。それでも澪のほうへ、顔を向けた。
「上を、見てきたか」と年寄りは言った。
「はい」
「世界が、泣いていたろう」
「……泣いていました。救い手は、どこかと」
年寄りは、火に手をかざした。節くれだった、骨の浮いた手。
「織津姫さまも、こうして、世界の泣くのを聞きなすった」と年寄りは言った。語るというより、唄うように。「だから、降りなすった。誰も降りられぬ底へ。たったひとりで。あの裂け目の底に、ぜんぶの答えがある。穢れの始まりも、終わらせ方も」
「織津姫さまは、何を持って降りなすったと思う」年寄りは、火に枝を一本、足した。澪が答えずにいると、ひとりで続けた。「何も、持たなんだ。糸を紡ぐ道具も、身を守る刃も。ただ手ぶらで、降りなすった。掴むものを、ぜんぶ置いて」
掴むものを、置いて。
澪は、自分の透けた指を見た。まだ、何かを掴もうとしている指を。
澪は火の向こう、闇の奥を見た。穢野の、いちばん奥。千引岩の、裂け目。
答えは、底にある。
斎も、底にいる。
降りるしか、ない。
「降りた者は」と年寄りは、火を見たまま言った。「めったに、還らん。織津姫さまも、還らなんだ」
「……はい」
「それでも、行くか」
澪は、答えなかった。けれど、答えは、もう出ていた。
透けた指を、火にかざす。骨の影が、炎に透けた。半分、もう向こう側の手で。
還らなかった織津姫は、ひとりで降りた。
わたしは、ひとりじゃない。
小屋のほうから、雛の寝息が、かすかに聞こえた。あの子のために、雛を取り戻した。今度は、斎を取り戻す番だ。ひとりで縫って消えた女と、自分を分けるもの。
それは小屋で眠る、小さな寝息だった。火のそばで、待っていてくれる者がいる。だから、降りられる。
火の向こう、闇の奥で千引岩の裂け目が、また夜の息を吐いた。白い冷気が、郷の火を、ひとつ、揺らした。
降りる。
明日では、ない。もう決めた夜から、ずっと降りはじめている。




