第三話 降りると決める
眠れない夜が、また来た。
澪は、小屋の隅で、雛の寝顔を見ていた。妹は、姉の衣を握って眠っている。指の節が白くなるほど、しっかりと。
眠っていても、放さない。起きているあいだ、雛は何も言わない。けれど、眠ると手が本当のことを言う。
行かないで、と。
澪はその手を、見ていた。
雛は、知っている。姉が、どこかへ行こうとしていることを。言葉にされなくても、子どもはいちばん大事なことを、肌で嗅ぎ当てる。
だから、眠りのなかで、手が放すまいとする。起きているあいだは、聞き分けのいい顔をして、聞かずにいてくれている。聞けば、姉が困ると、知っているから。
その気づかいが、澪にはいちばん、こたえた。
降りる、と決めた。決めたはずだった。けれど、決めることと、足が動くことは、違った。
千引岩の裂け目。あの底へ降りるというのは、黄泉へ降りるということだ。生きたまま、死の国へ。
誰も降りたことのない場所へ。織津姫は降りて、還らなかった。
還れないかもしれない。
胸の奥が、いちばん冷たくなるのは、死を思うときではなかった。この手を――雛の握る、この手をほどいて行く、と思うときだった。
十六年、澪はこの子を握って生きてきた。隠れて、息をひそめて、この子の手だけは放さずに。その手を自分から、ほどく。還ってこられるかも、分からないのに。
透けた指で、澪は雛の手にそっと触れた。雛の指は、温かい。澪の指は、もう、温度を感じない。それでも温かさが、そこにあることだけは、分かった。
握り返したかった。
握れば、この子は安心して眠る。けれど、握れば、ほどくのが、もっとつらくなる。
澪は、手を重ねるだけにした。
この子を、何度、こうして見守ってきただろう。葦の里で、母が死んだ夜も。坂人に選ばれかけた朝も。直に連れ去られて、取り戻した、あの坂の上でも。
澪の世界は、いつもこの寝顔のまわりに、組み上がっていた。雛を守る。そのために、心を殺し、顔を消し、底まで降りた。
その、いちばんの理由を、置いて行く。斎を、迎えに行くために。
守るものを守るために、守るものを、手放す。理屈に、合わない。けれど、合わないことをしなければ、斎は還らない。雛もいつか、世界の凍りつくなかで、社へ連れていかれる側に、なる。
窓の隙間から、白い息が忍び込んでくる。夜ごと、冷気は濃くなる。澪が迷っているあいだにも、葦の里は凍り、糸は切れていく。
迷う刻は、もう、残っていなかった。
明日。明日、降りる。
そう思うと、指の先が、また少し、透けた気がした。決めるたびに、向こうへ、半歩。
半歩ずつ、雛から、遠くなる。半歩ずつ、斎へ近くなる。おなじ一歩が、片方を手放し、片方へ向かう。澪の降りる道は、ずっとそういう道なのだった。
*
朝になる前に、澪は、橡の小屋へ行った。
橡は、起きていた。澪が来るのを知っていたように、火を熾していた。
「決めたか」と橡は言った。
「決めました。今日、降ります。黄泉比良坂を」
橡は火を見たまま、しばらく黙っていた。それから、ゆっくりと、口を開いた。
「あの裂け目を、まっすぐ降りる道はない」と橡は言った。「降りるのではない。引き込まれるのを、こらえながら、足で探っていくのだ。黄泉は降りる者を、歓ぶ。早く来い、と引く。その引きに身を任せれば、楽だ。楽だがそれは、堕ちることだ」
「……はい」
「降りるほど、お前の体は、向こうのものになる。指から、手から、腕から。痛みはない。痛みがないのが、危ない。痛くないから、気づかぬうちに、半分、死人になる」
澪は、自分の透けた指を見た。すでに、始まっている。
「どこまで透けたら、還れなくなりますか」と澪は訊いた。
橡は、すぐには答えなかった。「分からん」と、やがて言った。「織津姫さまは、縫い切って、ぜんぶ透けて、還らなんだ。
お前がどこまで保つかは、お前の血と、お前の心の、強さ次第だ。糸を、使いすぎるな。縫うのはいちばん大事な、ひと針だけにしろ」
いちばん大事な、ひと針。それが斎なのか、世界なのか、澪には、まだ選べなかった。両方をと願うことが、欲深いのかも、しれなかった。
「途中で、何かを差し出されても、口にするな」橡の声が、低くなった。「黄泉のものを、ひと口でも食べれば、二度と還れぬ。腹が減っても、喉が渇いても、向こうのものは、口にするな。これは、いちばん大事なことだ。忘れるな」
「忘れません」
「底に、何があるか、訊かぬのか」と橡は言った。
「……斎が、います」
「それと、もうひとつ」橡は、火に枝を足した。「織津姫さまの、降りた跡だ。世界を縫った、その手の、いちばん最初の結び目。穢れの始まりも、儀の偽りも、ぜんぶ、そこから、ほどける。お前が真実を掴むなら、それは底にしかない。上のどの社にも、書庫にも焼かれて、残っておらん」
真実は、底に。斎も、底に。降りるしかない理由が、また、ひとつ、重なった。
「鶚の言葉を、もう一度、言ってみろ」
「掴むな、放て」
「そうだ。だがお前はまだ、それを、手で分かっていない」橡は、澪の手を見た。「斎を見つけても、掴むな。掴めば、逃げる。日之大神が、そうして失った。お前は、放て。斎が自分の足で、お前のところへ還るのを、待て。掴みたくなる、その手を、開いたままで」
澪は、自分の手を見た。開けるだろうか。いちばん会いたい者を、目の前にして、掴まずにいられるだろうか。
分からなかった。
「分からん、という顔をしているな」橡は、口の端をわずかに上げた。「それでいい。分かったつもりの者ほど、必ず、掴む」
橡はそれから、めずらしく、長いこと澪を見ていた。火明かりに、皺の一本一本が、深く見えた。
「わしは、お前を、止めるべきなのだろうな」と、ひとりごとのように言った。「年寄りの役目としては。降りるな、生きておれ、と。だが、言わん。お前が降りねば、世界は緩やかに、ぜんぶ凍る。お前が降りても、還らんかもしれん。どちらにも、救いはない。ただ降りるほうにだけ、わずかに、芽がある」
「芽」
「放つ、という芽だ」橡は、火を見た。「掴んで失う話なら、もう、いくらでもある。日之大神も、お前の母も、わしもだ。放って、返した話は、まだひとつもない。お前が最初に、なるかもしれん」
澪はその言葉を、胸にしまった。最初に、なるかもしれない。だれも歩いていない道の、最初の足跡に。
道は、歩いた跡が道になる。橡はいつか、そう言った。誰も還らなかったのは、誰も、放てなかったからかもしれない。
掴んで失って、それきりだったから。澪は、まだ何も巻かれていない自分の手首を、見た。
*
橡の小屋を出ると、壁の上のほうが、夜の色から、薄い灰へ変わっていた。底の、夜明けだった。
澪は千引岩の裂け目の縁まで、もう一度、歩いた。
冷たい息が、吹き上げてくる。底の底。黄泉。斎が、沈んでいる場所。
日之大神は、ここを降りて、后を掴んで、失った。見るなと言われて、見て、失った。神話は、そう、終わっている。掴んだ手から、すべてがこぼれて。
澪はその終わりを、書き換えに行く。
掴まず、ただ放って、待つ。神話が失敗した、その同じ坂を、反対の手で、降りる。
足を裂け目のほうへ、向けた。爪先が縁の霜を、踏む。
もう、後戻りはしない。決めたのは昨日でも、踏み出すのは、今だった。
裂け目の底から、風が、ひとつ、吹き上げた。澪の髪を、後ろへ流す。来い、と言う声のようでも、戻れ、と言う声のようでも、あった。
澪はどちらにも、応えなかった。ただ、自分の足で、立っていた。
来い、と引く声に応えれば、堕ちる。戻れ、と引く声に応えれば、十六年とおなじ、隠れる暮らしに戻る。澪はそのどちらでもない場所に、立とうとしていた。
誰かの声で動くのでは、ない。自分で、決める。受け身の花嫁でも、据えられた贄でもなく。
裂け目の縁の霜が、爪先の下で、小さく鳴った。明日、ここから、降りる。
*
小屋に戻ると、雛が目を覚ましていた。
姉の衣は、もう、握っていなかった。きちんと畳んで、膝の上に置いている。澪が出ていったあいだに目を覚まして、ひとりで待っていたのだ。
「行くんだね」と雛は言った。
問いではなかった。
澪は膝をついて、妹と目の高さを合わせた。嘘は、つけなかった。この子には、いつも見抜かれる。
「うん」と澪は言った。「斎を、迎えに行く。下の、いちばん深いところまで」
「遠い」
「遠い」
「……還ってくる」
これも、問いではなかった。雛は答えを決めて、聞いていた。澪に還ってくる、と言わせるために。
澪は、すぐには答えなかった。
還ってくる、と言うのは、たやすい。言えば、雛は笑う。安心して、姉を送り出す。
けれど、それは嘘になるかもしれない。嘘でこの子を、つなぎとめることになる。
握って、つなぎとめる。
それは、直が、澪にしたことだった。雛を手綱にして、優しい声で、檻を閉じた、あの男のやり方。澪はそれを、いちばん、憎んだ。
おなじことを、雛にしたくはなかった。
「分からない」と澪は言った。「還ってくる、と約束はできない。下は、そういう場所だから」
雛の顔が、こわばった。泣きそうなのを、こらえる顔。笑顔の仮面が、剥がれかけて、また貼りつく。
「でも」と澪は続けた。「還れるように、するだけのことは、ぜんぶ、する。あなたのところへ、斎と一緒に、還れるように。それだけは、約束する」
「斎さまと、一緒に」
「うん」
雛はしばらく、澪を見ていた。それから、こくりとうなずいた。嘘で固めた約束より、その、分からない、のほうを、雛は信じた顔をしていた。
「雛のことは、橡さまと、繁さんが、見ていてくれる」と澪は言った。「火のそばにいなさい。わたしが下にいるあいだ、いちばん温かいところに」
「ねえちゃの、いない火のそば」
「……うん」
雛は、唇をぎゅっと結んだ。泣くのをこらえたのではない。何か、言いたいことを、こらえた顔だった。それから、ふっと力を抜いて、言った。
「わかった。待ってる。火、絶やさないで、待ってる」
待ってる、と雛は言った。行かないで、ではなく。その一語の違いに、どれだけの覚悟をこの子が込めたか、澪には分かった。
雛も放つことを、覚えようとしていた。姉を握って止めるのではなく、手を開いて、送り出すことを。
*
雛が自分の手首から、組み紐をほどいた。
澪がいつか、葦の里で編んでやった紐だ。直に連れ去られても、底に来ても、雛はずっと手首に巻いていた。色は褪せて、端がほつれている。それでもほどけては、いなかった。
その紐を握っているかぎり、姉と繋がっている。雛は、ずっと、そう思って巻いていたのだ。直の檻のなかでも。
底の冷えのなかでも。澪と離されても、紐だけは放さなかった。
その紐を、いま雛は自分の手首から、ほどいた。
雛はその紐を、澪の手首に、巻きはじめた。透けた手首に。慎重に、二度、巻いて、固く、結んだ。
「これ」と雛は言った。「ねえちゃ、握っちゃ、だめなんでしょ。掴むな、放て、って。橡さまが、言ってた」
澪は、息を止めた。
「だから、結んどく」と雛は言った。「握らなくても、ほどけないように。手、開いてても、繋がってるように」
澪は結ばれた紐を、見た。
透けかけた手首に、褪せた紐が、巻かれている。半分、向こう側の手に。けれど、紐はこちら側に、繋がっていた。
握らなくても、繋がっていられる。
十六年、握ることしか知らなかった澪に、いちばん小さな妹が、それを結んで見せた。掴むな、放て。橡が何度言っても、手で分からなかったことを。
「ありがとう」と澪は言った。
声が、少し、揺れた。
「泣いてる」と雛が言った。
「泣いてない」
「泣いてるよ」
雛は、笑った。今度は仮面ではない、笑いだった。怖いのを、隠さない笑い。姉が泣くのを、初めて見て、けれど、こわがらない、笑い。
澪は開いた手を、見た。
何も握っていない手。透けかけた、冷たい手。けれど、手首には紐がある。
もう、空ではなかった。
雛の体温が、紐を通して、まだ手首に残っている気がした。感じないはずの、透けた肌に。気のせいかもしれない。けれど、その気のせいを、澪は握りしめ――ようとして、やめた。
握らない。
ただ、そこに在ることを、信じる。それが、放つ、ということなのかもしれなかった。
明日の朝、降りる。
ひとりでは、降りない。橡や底の者が、坂の途中まで送ると、言った。あとは、この紐と――手首に巻かれた、褪せた約束と、ともに。
澪はその手を、ゆっくりと、握らずに閉じた。




