第四話 灯をあつめる
夜明けの色が、壁の上に差すころ、澪が小屋を出ると、郷の者が、火のまわりに集まっていた。
ひとりや、ふたりではなかった。
掘っ立て小屋から、出られる者は、みな出てきていた。腰の曲がった年寄り。痩せた子を抱いた女。
片足を引きずる男。黄泉に近すぎると蔑まれ、上が「ないこと」にした者たち。その者たちが、まだ暗い火のまわりに、肩を寄せて、立っていた。
澪のために、だった。
「何の、集まりですか」と澪は訊いた。
橡が、火の向こうから、答えた。
「お前を、送る集まりだ」
澪は言葉を、失った。
底へ来たとき、この者たちは、澪を恐れた。災いを呼ぶ娘だと。狩りを招く火だと。
繁は、出ていけと言った。それが、いまは火を囲んで、澪を見ている。恐れではない目で。
「わたしは」と澪は言った。声が、うまく出なかった。「わたしは、あなたたちに、何も、できなかった」
「できた者は、誰もおらん」と橡は言った。「だが、お前は降りる。それだけで、十分だ」
火のまわりの誰も、すぐには口をきかなかった。底の者は、別れに慣れている。坂人に選ばれた者を送り出して、二度と戻らなかった顔を、いくつも見てきた。送るというのは、この者たちにとって、たいてい、永の別れだった。
それでも、集まった。永の別れになるかもしれない者のために、乏しい火を、囲んで。
澪は、その火のひとつひとつを見た。ひとつの火に、ひとつの顔があった。上の水鏡が「穢れの塊」と呼んで、ひとまとめに「ないこと」にした、その塊がここでは、ひとりひとり、別の顔をして、別の火を抱いていた。
塊では、なかった。みな、誰かの子で、親で隣人だった。
繁が火の向こうに、いた。底へ来た日、出ていけ、と言った男。狩りを招く、と澪を拒んだ男。
その繁が、いまは何も言わずに、火に薪を足していた。澪と、目を合わせない。それが、この男の不器用な肯定だと、澪には、もう分かっていた。
*
火のそばに、痩せた女が、進み出た。
腕に、子を抱いている。澪が底へ来てまもなく、熱で死にかけた子を、触れて引き戻した――あの女の、子だった。子は、もう走り回れるほどに、なっている。
女は何も言わずに、澪の前に何かを差し出した。
小さな、布の包みだった。澪が受け取って、開くと乾いた木の実が、いくつか入っていた。底では、容易に手に入らないものだ。
「下は、長い」と女は言った。それだけ言って、目を伏せた。穢れに触れることを、かつては死罪と恐れた女が、澪の透けた手に、自分から、触れていた。
ひとり、またひとり、進み出てきた。
火を熾すための、乾いた苔。傷を洗う、塩のひとつまみ。すり切れた、けれど、まだ暖かい、布きれ。みな、自分たちの、いちばん乏しいもののなかから、いちばん要るものを、澪に持たせようとしていた。
澪は受け取るたびに、手が震えた。
十六年、澪は与える側でしか、生きてこなかった。雛を守り、底の者の痛みを引き受け、自分の手のひらから、痛みを吸い取って。受け取ること。
誰かに、差し出されること。それをどうしていいか、澪は知らなかった。
底の子どもが、ひとり、澪の衣の裾を引いた。手のなかに、小さな石を握っている。川で拾った、つるりとした石。
何の値打ちもない石。けれど、子どもにとっては、宝なのだ。
子どもはそれを、澪に差し出した。
受け取っていいのか、澪は迷った。この子の、たったひとつの宝を。けれど、突き返せば、この子の手は、空になる。差し出した手を、空のまま、引っ込めさせることになる。
澪は膝をついて、両手でその石を受け取った。子どもが、笑った。
斎が底の子に頭を撫でられて、ほどけた顔をしたことが、あった。あのとき、斎は受け取れない手をしていた。何かをしてもらうことに、慣れていない手を。
澪も、おなじだった。斎と、おなじ。受け取り方を知らない者、どうし。
いつか、斎にも受け取らせたい。誰かに何かをしてもらうことを、罪だと思わずにすむ日を。そのためにも、まず、自分が受け取る。
「受け取れ」と橡が、低く言った。「贈られたものを、突き返すのは、贈る者の手を、空にすることだ。お前は、放つことを覚えたいのだろう。なら、まず、受け取れ。受け取れぬ者に、放つことは、できん」
澪は両手で、ひとつひとつ、受け取った。
穢れの娘、と上が呼んだ血が、ここでは別の名で、呼ばれていた。
繕い手、と。
「あんたの血は、贄じゃねえ」と、繁がぶっきらぼうに言った。澪を、見てはいなかった。けれど、言った。「縫い手だ。世界を、縫う手だ。上が贄だと呼んで、喰ってきただけだ。……おれたちは、もう、騙されねえ」
それは底の郷の、いちばん小さな、けれど、いちばん確かな、反転だった。
穢れが誉れに、なる。
上の水鏡が、まだ誰も知らずにいる、その始まりが、火のまわりの、ここにあった。
いつか、と澪は思った。いつか、この反転を、底の火のまわりだけでなく、上の、すべての水面に、映す。穢れが誉れだと、世界じゅうの目に、見せる。
そのために、降りる。斎を迎えるためだけでは、ない。この、火のまわりの小さな真実を、世界の真実に、するために。
ふたつの願いが、ひとつの坂を、下る。斎を返す願いと、嘘を覆す願いと。
*
火が高くなったころ、坂の上から、繁が駆け下りてきた。
朝の見回りに、出ていたのだ。底の者はいつも坂の上を、見張っている。狩りがいつ降りてくるか、分からないから。
「上に、動きがある」と繁は言った。息が、上がっていた。「神官が、何人も、千引岩のほうへ、向かってる。普段は誰も近づかねえ、あの裂け目のほうへ」
橡の目が、細くなった。
「冬だな」と橡は言った。「お前が降りるのを、待っている。いや――降りるように、仕向けて、待っている」
澪は、息を止めた。
千引岩の裂け目。世界の縁。織津姫が降りた、真の縫い目。そこは、澪が、斎を迎えに降りる、入口であり――冬が、最後の縫い手を、迎え入れる、罠でもあった。
降りなければ、斎は還らない。降りれば、冬の手のなかへ、進んで歩いていくことになる。
「分かっていて、降りるのか」と橡が訊いた。
「分かっていて、降ります」と澪は答えた。「冬の枡のなかでも、掴めないものが、ひとつ、あります。わたしが、何を放つか。それだけは、冬にも、決められない」
橡はしばらく澪を見て、それから、うなずいた。
「もうひとつ、報せがある」と繁が、声を落とした。「坂のずっと下のほう、穢野の外れに……笠をかぶった男が、ひとり。じっとこっちを、見上げてる。動かねえ。ただ、見てる」
笠の男。
澪はその影を、知っていた。直だ。
冬が、上から。直が、下から。澪が千引岩へ向かう道の、両端に二人が、立ちはじめていた。
直のことを思うと、澪の、いちばん古い場所が、軋んだ。
幼馴染だった。葦の里で、いっしょに育った。澪の隠した夢を、ただひとり、知っていた男。その男が、いまは雛を手綱にして、澪を囲おうとした。
優しい声で。あの男の優しさは、いつも本物だった。本物だから、振りほどく手が、いつもにぶった。
冬の罠は、論で出来ている。逃げ道を、ひとつずつ塞ぐ罠。直の罠は、情で出来ている。
澪の、いちばん柔らかいところに、巣を張る罠。論には、論で抗える。けれど、情には。
澪は、手首の紐を見た。雛の結んだ紐。握らずに、繋がる紐。
直の知らない繋がり方が、ここに、ひとつ、あった。あの男は、握ることしか知らない。澪がずっとそうだったのと、おなじだ。
けれど、いまの澪は、握らない繋がり方を、ひとつ、知った。雛が、結んでくれた。だから、直の情の罠にも、冬の論の罠にも、落ちずにすむかもしれない。
落ちるとすれば、それは自分が、また握ろうとしたときだ。誰かのせいでは、ない。
*
出立の前の、わずかな刻、澪は橡の小屋の奥へ、ひとり、入った。
そこには織津姫の絵が、代々、描き継がれている。上が焼いても、底が描き直してきた絵。いちばん奥の壁に、暗い水のなかで、両手を広げ、手のひらから、糸を伸ばす、女神が描かれていた。
澪はその絵の前に、立った。
織津姫もこうして、降りたのだ。世界の泣くのを聞いて。たったひとりで。
手ぶらで。掴むものを、ぜんぶ、置いて。
そして、還らなかった。
「あなたは」と澪は、絵に語りかけた。声には、出さずに。「ひとりで、降りた。送る者も、いなかった。待つ者も、いなかった。だから、縫い切って、消えるしか、なかったんですね」
絵の女神は、答えない。ただ、暗い水のなかで、手を広げている。誰にも、届かない手を。
小屋の入口で、足音がした。橡だった。澪のあとを、ついてきたのだ。
「その絵を、描き継いできたのはな」と橡は言った。「いつか、織津姫さまとは違う降り方をする者が、現れると信じていたからだ。掴んで失う神話を、放って返す話に、書き換える者が。何代も底はそれを待って、絵を描き直してきた」
「……重い、ですね」と澪は言った。
「重い」と橡は、笑わずに認めた。「だが、お前ひとりの肩には、載せん。絵を描いてきた者みんなの、願いだ。みんなで、担ぐ。お前はその願いの、いちばん先っぽを、歩くだけだ」
澪は絵の女神の、広げた手を、もう一度、見た。あの手が空に見えたのは、誰もその手を、取らなかったからだ。
今度は、取る者がいる。
澪は自分の手首を、見た。
雛の結んだ、褪せた組み紐が、巻かれている。透けかけた手首に。
ひとりではない。
それが織津姫と、自分を分けるもの。手ぶらでは、ない。手のひらは、空かもしれない。
けれど、手首には紐がある。背には、底の者の灯がある。火のそばには、待つ妹がいる。
「わたしは、あなたとは、違う降り方を、します」と澪は言った。「縫い切って、消えるためでは、なく。縫って、還るために」
還る、と言えるだろうか。
分からない。けれど、織津姫が言えなかった言葉を、澪は絵の前で、口にした。それだけで、ほんの少し、足が軽くなった気がした。
*
朝の光が、いちばん高くなったとき、澪は坂の下に、立った。
千引岩へ続く、つづら折りの坂。その下に、黄泉比良坂の、裂け目が口を開けている。
郷の者が坂の上に、並んでいた。
ひとりひとりが、手に火を持っていた。乏しい油を、惜しまずに灯した、小さな火を。底の、いちばん暗い場所で、いちばん大事な、火を。それを澪を送るために、掲げていた。
灯が坂の上に、ひと続きの、線になっていた。
暗い底にはじめて、道のような光が、引かれていた。澪が十六年、隠れて生きた暗がりが、いま澪を送るために、灯っていた。隠れる場所だった底が、送り出す場所に、なっていた。
「ねえちゃ」
雛が、駆けてきた。澪の前で、止まる。抱きつきはしなかった。抱きつけば、放せなくなると、この子も知っていた。
「火、絶やさないで、待ってる」と雛は言った。ゆうべと、おなじ言葉を。けれど、声は、もう震えていなかった。
「うん」と澪は言った。
言えたのは、その一語だけだった。けれど、ゆうべの「分からない」とは、違う「うん」だった。還ると、約束はしない。ただ還ろうとすることだけは、この子に約束できた。
雛は澪の透けた手首の、組み紐を、指で、ひとつ、撫でた。ほどけていないことを、確かめるように。それから、後ろへ下がった。
送り出すために。手を、開いて。
橡が澪の肩に、手を置いた。ほんの一瞬。「いちばん大事な、ひと針を、間違えるな」と、それだけ言った。
繁は、何も言わなかった。ただ坂の下まで、握り飯を、押しつけるように渡して、ふいと横を向いた。不器用な男の、いちばん要るものは、たいてい、口より、手のほうが、覚えている。
澪は坂の下を、見た。
冷たい息が、底から、吹き上げてくる。斎が、いる。真実が、ある。冬の罠も、ある。
背には、灯の輪。手首には、紐。
織津姫は、手ぶらで降りた。澪は手ぶらでは、ない。けれど、手のなかは、空けてある。
掴むためでは、なく、いつか、斎に何かを渡すために。空の手は、負けではない。贈るために、空けてある手だ。
澪は最初の一歩を、裂け目のほうへ、踏み出した。
そのとき、坂の上の、灯の輪の、ずっと外れに――穢野の、いちばん遠い縁に、笠をかぶった影が、ひとつ、立っているのが、見えた。
動かない。ただ、澪が降りていくのを、見ている。
灯の輪の、温かい光も、その影のところまでは、届いていなかった。




