第五話 黄泉比良坂
裂け目の縁から、最初の一歩を、踏み下ろす。
足の裏が岩の冷たさを、伝えてきた。けれど、それも、すぐに分からなくなった。黄泉比良坂は、一歩ごとに、冷えていく。
底の冷えとも、違った。底の冷えは、外から、肌を刺した。ここの冷えは、内から、骨を白くしていく。
息を吐くと、白くなった。底でさえ、めったに白くならなかった息が、ここでは吐くそばから、凍りつくように、白い。その白い息だけが、澪が、まだ生きている証だった。死者は、息を吐かない。
澪は、振り返らなかった。
坂の上には、灯の輪があった。雛が、いた。振り返れば、足が止まる。
止まれば、二度と降りられなくなる。だから、見ない。背中で、灯を感じているだけにした。
繁が、後ろに、ついてきていた。底の若い男が、二人。みな、松明を手にしている。
底の者は本当なら、この坂を降りてはいけない。黄泉に近い血を持つ者ほど、呼ばれやすい。それでも繁たちは、ついてきた。
澪を、ひとりで行かせないために。途中までしか、行けないと、分かっていて。
「足もとを、見すぎるな」と繁が、低く言った。「黄泉ってのは、見れば見るほど、深くなる。先を、見ろ。お前さんの、行く先を」
澪は、うなずいた。
坂はつづら折りに、下っていく。岩肌に水が滲んで、黒く光っている。その水の面に、ときおり、顔のようなものが、映った。
澪の顔では、ない。ずっと前に、この坂を降りて、還らなかった、誰かの顔。黄泉は降りた者を、ぜんぶ、覚えている。
水に映った顔のひとつが、ふと澪のほうを、見た気がした。澪が足を止めると、顔も止まった。澪が進むと、顔も、ついてきた。
何代も前に、この坂を降りて還れなかった者たちが、新しく降りてくる者を、めずらしがって、覗いている。仲間が増えるのを、待つように。
澪は水面を、見ないことにした。見れば、引き込まれる。
死者の、気配がした。
声では、ない。匂いでも、ない。ただ空気が、こちらを見ている。降りてくる生者を、何かが坂の闇から、見ている。
若い男のひとりが、小さく、経のようなものを、唱えはじめた。底に伝わる、降りる者を守る言葉だという。意味は、もう、誰も知らない。それでも、唱えずにはいられないほど、この坂は生者を、拒んでいた。
澪だけが、拒まれていなかった。黄泉の血が、澪を招いていた。招かれている、という心地の悪さが、澪の背を押した。
早く、用を済ませて、ここを出よう。斎を、連れて。
*
半刻ほど降りたところで、澪は自分の手を、見た。
見なければ、よかった。
指は、もう、とうに透けていた。けれど、いまは手のひらまで、薄くなっていた。骨の影がはっきりと、透けて見える。手首の、雛の結んだ組み紐だけが、向こう側の闇のなかに、ぽつんとこちら側の色をして、巻かれていた。
腕が、寒い。寒いのに、感じない。
袖をまくると、肘のあたりまで、肌の色が薄れていた。降りるたびに、黄泉が澪の血を、呼んでいた。お前の血は、もともとこちら側のものだろう、と。早く、ぜんぶ、こちらへ来い、と。
足が、もつれた。
繁がとっさに、腕を掴もうとして――触れる寸前で、手を止めた。澪の腕が、半ば、透けていたからだ。掴めば、自分の手が、向こう側へ、引き込まれる。底の者はそれを、知っていた。
「……すまねえ」と繁は言った。掴めなかったことを、詫びていた。
「いいんです」と澪は言った。立ち上がる。膝が、笑っていた。「もう、誰にも掴ませません。掴めば、その人まで、連れていってしまう」
ふしぎなことに、雛の結んだ組み紐だけは、透けなかった。澪の手首が、半ば向こう側になっても、褪せた紐は、こちら側の色のまま、巻かれていた。生きている者の、結んだもの。
待っている者と、繋がっているもの。それだけは、黄泉も呼べないのだ。
澪はその紐を見るたびに、足を、もう一歩、前へ出せた。透けていく身のなかで、紐だけが、澪を、まだ澪のままに、繋ぎとめていた。
降りるというのは、こういうことだった。
一歩ごとに、命を、削る。一歩ごとに、向こう側へ、半身を預ける。痛みは、ない。
痛みがないことが、橡の言ったとおり、いちばん、危うかった。気づかぬうちに、澪は降りるのではなく、溶けて、いくのかもしれなかった。
それでも、足を止めなかった。
止めれば、削った命の分が、無駄になる。ここまで透けた身が、何の意味も、なくなる。前へ。斎のいる、いちばん深いところへ。
母の顔がふいに、浮かんだ。声を殺して、泣いていた、あの横顔。母もこんなふうに、何かを削りながら、生きていたのだろうか。抗って、折れて、それでも澪を産んで、血を闇に沈めて。
母は、折れた。澪は、折れない。折れないために、降りる。折れた母の、続きを歩くために。
削れていく身が、ふしぎと軽かった。失うものが減るほど、足は軽くなる。それがこわいことなのか、楽なことなのか、澪には、もう分からなかった。
*
道に迷いはじめたとき、それは、来た。
坂がいくつにも、枝分かれしていた。どれもおなじ闇へ、続いている。どれを選べばいいのか、繁にも若い男たちにも、分からなかった。黄泉に道しるべは、ない。
澪は、目を閉じた。
斎を、思った。最後に見た、神の宿った体の、目の奥の、小さな光を。あれは沈んだ斎が、澪を見ていた光だった。待っている、と言っていた光だった。
その光が、いまどちらに、あるか。
胸の奥がひとつの方角へ、引かれた。痛みでも、声でもない。ただこちらだ、と血が知っていた。
澪の血と斎を縫い止めている、おなじ糸。その糸がいちばん深い闇の、ひとつの方角を、指していた。
斎の、気配だった。
声では、ない。姿でも、ない。ただおなじ糸の、向こうの端が、かすかに震えている。澪が近づくほど、その震えは、強くなった。
生きている、と糸が言っていた。まだ、沈みきっていない、と。神に呑まれた体の、いちばん奥で、斎が、まだ澪のほうを、向いている。
間に合うかもしれない。
その望みだけが、透けていく澪の、いちばん濃い部分に、残っていた。
「こっちです」と澪は言った。
「分かるのか」と繁が訊いた。
「斎が、いるほうが、分かります」と澪は言った。「血が、繋がっているから。わたしと斎はおなじ糸の、両端だから」
枝分かれの、いちばん暗いほうへ、澪は足を向けた。繁たちが、顔を見合わせた。いちばん暗いほうは、いちばん、黄泉に近い。生者の、行くところでは、ない。
けれど、斎はそこに、いる。
*
岩棚が行く手を、塞いでいた。
その先は生者の松明では、照らせないほどの、闇だった。空気が、重い。一歩、踏み込むだけで、肺が冷たい水で、満たされるような、重さ。
繁が、足を止めた。
「ここまでだ」と繁は言った。悔しそうに。「これ以上は、おれたちが、保たねえ。一歩でも踏み込めば、おれたちの肌も、お前さんみたいに、なる。連れはここで、待つ」
「分かっています」と澪は言った。「ここまで、ありがとう」
「礼を言うな」と繁は、横を向いた。「……必ず、戻ってこい。あの妹が火を絶やさずに、待ってる。橡さまもおれたちも、待ってる。戻る場所が、あるってことを、忘れるな」
戻る場所が、ある。
その一言が、澪の、半ば透けた胸に、温かいものを、落とした。織津姫には、なかったもの。待つ者。戻る場所。
温かいものは、すぐに冷えた。黄泉の冷えが、それも奪っていく。けれど、一度、温かかった、という記憶は、奪えなかった。
澪はその記憶を、胸の、いちばん透けにくい場所に、しまった。斎に会うまで。会って、おなじ温かさを、渡すまで。
澪はひとりで、岩棚の、先へ進んだ。
闇が、澪を呑んだ。背後の、松明の光が、みるみる、遠くなる。やがて、点になった。それでも、澪は振り返らなかった。
ここから先は、ほんとうに、ひとりだった。
織津姫もここを、通ったはずだった。けれど、織津姫には、ここで待つ者が、いなかった。岩棚の手前で、戻ってこいと、言ってくれる者が。だから織津姫は、振り返っても、誰もいない闇を、見るしかなかった。
澪は、違う。振り返れば、見えなくても、繁がいる。坂の上には、雛がいる。
見えないことと、いないことは、違う。澪はその違いを、握りしめた。いや、握らずに、ただ信じた。
けれど、手首には紐がある。背には、もう見えない灯がある。ひとりだけれど、ひとりではない。その矛盾を、澪は抱えて、降りた。
向こう側に、なる恐怖が、足もとから、這い上がってくる。このまま降りれば、自分が自分でなくなる。斎を見つける前に、溶けて、消える。そうなれば、誰も斎を迎えに来ない。
それに、雛が待っている。火を絶やさずに。澪が溶けて消えたら、雛はいつまでも、来ない姉を、待ち続けることになる。火を、絶やさずに。
それだけは、させたくなかった。消えるわけには、いかない。斎を連れて、戻る。雛の火が、無駄に燃えつづけないように。
恐怖を澪は踏んで、進んだ。
恐怖の、すぐ隣にひとつの灯が、あった。斎が、待っている。その一点だけを、見て、降りた。坂の作法を、繰り返しながら。
掴むな。放て。先を見ろ。足もとを、見すぎるな。
足もとにときおり、白い花のようなものが、咲いていた。黄泉の花だ。きれいだった。
きれいなものほど、こういう場所では、危ない。摘みたくなる。触れたくなる。
けれど、橡が言った。向こうのものに、手を出すな。ひとつでも、手にすれば、それはここに留まる口実に、なる。
澪は花を踏まないように、よけて、通った。摘まずに。見るだけ。
きれいなものを、きれいなまま、置いていく。それも、放つ、ということなのかもしれなかった。
*
どれほど、降りたか、分からなくなったころ、澪はひとつの、水たまりの前に、出た。
黒い水が岩のくぼみに、溜まっている。鏡のように、静かな水面。
澪はそこに、自分を映した。
映らなければ、よかった。
水の面にいたのは、半分、向こう側の顔だった。頬が透けて、後ろの闇が、見える。目だけがこちら側の色をして、こちらを見返している。
生者と死者の、ちょうど境目の顔。澪はその顔から、目を逸らせなかった。
これが、降りるということだ。
橡は、言わなかった。降りるたびに、こんなに自分が削れるとは。言えば、澪が降りるのを、やめると思ったのかもしれない。
あるいは、言葉にできるようなことでは、なかったのか。削れるとは、こういうことだ。鏡を覗いて、はじめて、分かる。
斎を迎えに行くたびに、澪は斎のいる場所へ、近づいていく。近づくほど、澪自身が斎のいる側の、ものになる。迎えに行く者が、迎えられる者に、なっていく。
それでも、いい、と澪は思った。
斎を、迎えられるなら。斎が、こちら側へ戻れるなら。澪が、半分、向こう側になるくらい。織津姫はぜんぶ、向こう側になって、消えた。
澪は半分で、済むかもしれない。済まないかもしれない。けれど、半分でも斎の手を、取れる場所まで、行ければ。
いや。取る、のではない。手を開いて、待つのだ。掴まずに。
水面の自分が、もし、口を開いたら。
こちらへ来い、と言うのではないか。お前も、もうこちら側だ、と。
そのとき、背後の、闇のなかから、声が聞こえた。
声では、なかったのかもしれない。風の音か、岩の軋みか、あるいは澪自身の、記憶か。けれど、たしかに聞こえた。皮肉な、けれど、最後だけ、皮肉を脱いだ、あの声が。
掴むな。
放て。
鶚の、声だった。
黄泉の風に、さらわれて消えた、あの声がいちばん深い闇の底で、澪に追いついていた。まるでずっと先回りして、待っていた、ように。
鶚は、死んだ。澪の目の前で、裂け目に呑まれた。掴むな、と言って、自分から、手を放して。あのとき、澪を道連れにしないために。
その鶚が、いまいちばん深い底で、澪を待っていた。先に降りて、先にこの道を歩いて、掴むな、放て、と、もう一度、伝えるために。
死んだ者は、何もくれない、と澪は思っていた。けれど、鶚はくれた。死んでなお、いちばん大事な言葉を、置いていってくれた。
それも、贈り物だった。掴まずに、渡す。鶚は最後まで、それをしていた。
澪は水面から、顔を上げた。半分透けた手で、手首の紐を、そっと確かめる。握らずに。ただ、触れるだけ。
「分かってます」と澪は、闇に答えた。
「掴まない。だから――もう少しだけ、待っていて」
闇の、いちばん奥で、何かが身じろぎした、気がした。




