第六話 黄泉戸喫
闇の奥に灯りが、あった。
澪は、足を止めた。
黄泉の底に、灯りなど、あるはずがなかった。ここは生者の火も、日輪も届かない場所だ。それなのに、行く手の闇に、ぼんやりと、橙色の、温かい光が、ともっている。
その光に、澪の、半ば透けた手が、うっすらと、染まった。久しぶりに見る、温かい色の光だった。黄泉は、ずっと青白い闇だった。
その闇のなかに、ひとつだけ、生者の世界の色をした、光。それがどれほど、誘うものか。
近づくとそれは、ひとつの、座敷だった。
岩のあいだに、ぽつんとしつらえられた、座敷。畳が敷かれ、膳が並び、湯気が立っていた。炊きたての飯。
温かい汁。澪が葦の里にいたころ、ついぞ、口にできなかったような、白い飯が椀に山と盛られている。
腹が、鳴った。
降りはじめてから、何も口にしていなかった。喉も、渇いていた。半ば透けた体は、もう空腹も渇きも、感じないはずだった。それなのに、その膳を見たとたん、体の奥がねじれるように、それを欲した。
おかしい、と澪は思った。半分、向こう側になった体が、なぜ、こんなに生者のものを、欲しがるのか。
黄泉は、賢い。澪が、いちばん飢えているものを見抜いて、そこに、置く。冷えた体には、温もりを。疲れた心には、休みを。
失った者には――失った者を。黄泉戸喫とは、ただの食ではなかった。降りてきた者の、いちばん欲しいものの形をして、待っている罠だった。
「お食べ」
声が、した。
座敷の奥に、人影があった。湯気の向こうで、輪郭が揺れている。
澪は、息を止めた。
橡の言葉が、骨の奥で鳴った。黄泉のものを、ひと口でも食べれば、二度と還れぬ。腹が減っても、喉が渇いても、向こうのものは、口にするな。
これが、それだった。
逃げよう、と思った。けれど、足が動かなかった。膳の温かさが、足をその場に、縫いつけていた。
逃げるためには、まず、この温かさに、背を向けなければならない。冷えた闇のほうへ、自分から、戻らなければ。
温かさに背を向けて、冷たさを選ぶ。それは降りてきてから、ずっと澪がしてきたことだった。けれど、何度しても、慣れることは、なかった。
*
「お食べ」と、声は、もう一度、言った。
優しい声だった。咎める色も、急かす色も、ない。ただ、いたわるように。
「長い道を、降りてきたろう。寒かったろう。冷えたろう。もう、いいんだよ。ここで、お食べ。温まって、お休み」
湯気が澪の頬を、撫でた。温かかった。降りはじめてから、はじめての、温かさだった。冷えきった体に、その温かさは、毒のように、甘く、染みた。
温もりは、本来、生きるためのものだった。底では、火が命を繋いだ。けれど、ここでは温もりが、命を奪う。
生きるために欲しいものが、そのまま、死へ誘う餌になる。黄泉は、生者のいちばん欲しいものを、いちばん危ない毒に、作り変える場所だった。
「お前は、よくやった」と声は言った。「ここまで、たったひとりで、降りてきた。誰にも、できなかったことだ。もう、十分だ。これ以上、何もしなくていい。選ばなくて、いい。苦しまなくて、いい。ただ、ここに、いればいい」
選ばなくて、いい。
その言葉が、澪の、いちばん疲れた場所を、撫でた。
ずっと、選んできた。雛を取るか、斎を取るか。底を縫うか、斎に届くか。
いちばん大事な、ひと針を何に使うか。選ぶたびに、何かを捨ててきた。選ぶというのは、捨てることだった。
その重さから、解き放たれる。ここに、いれば。何も、選ばずに。
澪は、膳の、白い飯を、見た。
箸を取れば、終わる。すべての、選択が。すべての、苦しみが。
これは、冬の声と、おなじだった。自ら血を差し出せ、それがいちばん尊い、もう選ばなくていい――底で、冬が澪の喉元に、当てた、あの刃。あれが、いま黄泉そのものの声になって、もっと優しく、もっと甘く、澪を誘っていた。
留まれ。消えろ。それが、楽だ。
楽だ、という言葉ほど、澪に効くものは、なかった。
十六年、楽だったことなど、一度もなかった。隠れて、息をひそめて、誰かを守って。心を殺すのは、楽ではなかった。心を殺しても、何も楽にはならなかった。
だから、楽だ、と囁かれると、ふっと力が抜けそうになる。もう、いいか、と。ここまで来たのだから、と。
澪は、奥歯を噛んだ。透けた歯が噛みあう感覚も、もう、薄い。それでも、噛んだ。
楽になりたい、というその声こそが、いちばん危ないものだと、底で橡が教えてくれた。いちばん優しい顔をした、穴だと。
穴は足もとに、ぽっかりと口を開けて、待っている。落ちれば、楽になる。落ちなければ、苦しいまま、歩きつづける。
橡は踏みとどまれ、と言った。踏みとどまるのが、いちばん強い、と。澪はいま、その穴の、いちばん縁に、立っていた。
*
湯気が、晴れた。
座敷の奥の人影が、はっきりと、見えた。
ひとりでは、なかった。
鶚が、いた。皮肉な笑みを浮かべて、杯を傾けている。「よう」と、軽く、手を上げた。
「やっと来たか。待ちくたびれたぞ」
「もう、いいだろう」と鶚は言った。皮肉のなかに、めずらしく、労りが混じっていた。「お前は、よくやった。俺の遺した言葉も、ちゃんと守った。掴むな、放て、ってな。立派なもんだ。だから、もう、休め。ここには痛いことも、選ぶことも、ない。俺と、一杯、やろう」
鶚と、一杯。
それは生きているあいだに、ついぞ、できなかったことだった。あの皮肉屋と、ただ向かい合って、酒を酌み交わす。そんな、なんでもない時間が、欲しかった。喪って、はじめて、欲しかったと、気づいた。
その隣に、斎が、いた。白い礼装のまま。澪を見て、ほんの少し、戸惑ったように、目を伏せる。あの、届かせてはならぬ手を、自分で押し止める、いつもの仕草で。
斎は、何も言わなかった。ただ、そこに、いた。生きていたころの、斎のまま。
神に、呑まれる前の。澪がいちばん、取り戻したい、その姿で。
手を伸ばせば、届く。掴めば、抱きしめられる。十六年、誰にも触れられずに生きた澪が、触れたい、と願った、ただひとりの人が、すぐそこに、いる。
触れてもここでは、死なない。黄泉では、もう接触の禁忌すら、ないのだから。
そして、いちばん奥に。
母が、いた。
澪が葦の里で、見送った母。声を殺して、泣いていた、あの母。いまは、泣いていなかった。穏やかな顔で、澪に椀を差し出していた。
「澪」と母は言った。「おいで。こっちへ。もう、隠れなくて、いいの。もう、抗わなくて、いいの」
澪の、喉が鳴った。
「母さん」
「抗っても」と母は、静かに言った。「最後は、折れるのよ。母さんが、そうだった。織津姫さまも、そうだった。みんな、抗って、抗って、最後は折れた。お前も、折れていいの。折れて、ここで母さんと、お休み。もう、誰もお前を、責めない」
母の声は、優しかった。本物の、母の声だった。
それがいちばん、こたえた。
斎が、いる。鶚が、いる。母が、いる。
失った者が、みな、ここに、いる。箸を取れば、この者たちと、永遠にいられる。もう二度と、失わずに、すむ。
掴めば、すべてがここに、ある。
*
澪は膳の前に、膝を、ついた。
手が椀のほうへ、伸びかけた。半ば透けた、その手が。
そのとき、手首の、組み紐が目に入った。
褪せた、雛の紐。黄泉でも透けなかった、ただひとつの、こちら側の色。
澪の手が、止まった。
ここにいる斎は、目を伏せていた。けれど、ほんとうの斎は、伏せた目の奥で、こう言うはずだった。来るな、と。お前に生きていてほしい、だから、来るな、と。
放つ愛で、突き放すはずだった。この、座敷の斎は、突き放さない。ただ、優しく、留まれと言う。だから、これは斎では、なかった。
ほんとうの斎なら、澪を見たとたん、こう叫ぶはずだった。なぜ来た、と。帰れ、と。お前までこっちへ来るな、と。
突き放すことでしか、愛せない人。それが、斎だった。優しく留まれと言う斎は、澪の、欲しがる心が、作ったまぼろしだった。
母も、おなじだった。
ほんとうの母は、折れた。けれど、折れる前に、澪を産んだ。血を闇に沈めて、隠して、澪を生かした。折れていい、と言うために、ではない。
折れた、その続きを、誰かに渡すために。母は澪に続きを、渡したのだ。ここで折れろ、と言うために、十六年、苦しんだのでは、なかった。
「あなたは」と澪は、母の幻に言った。「母さんじゃ、ない」
母の顔がゆらりと、揺れた。
「母さんは」と澪は、続けた。声が、震えた。それでも、言った。「折れた。でも折れたことを、わたしに渡してくれた。ここでわたしまで折れたら、母さんの、折れた意味が、なくなる。母さんはわたしに、折れてほしくて、産んだんじゃ、ない」
「鶚さんも」と澪は、皮肉な笑みの幻に、言った。「あなたは、わたしと一杯やるより、わたしに生きて、斎を返してほしいはずです。あなたが命をかけて遺した言葉は、ここで休め、じゃ、なかった。掴むな、放て。あれはわたしに、最後まで歩かせるための言葉でした」
鶚の幻が、肩をすくめた。ばれたか、とでも言うように。皮肉な笑みのまま、薄れていった。
澪は伸ばしかけた手を、引いた。
椀には、触れなかった。ひと口も、口にしなかった。
「わたしには」と澪は言った。「待っている人が、いる。火を、絶やさずに。だから、ここには留まれない。あなたたちが、どんなに、優しくても」
座敷が、揺らいだ。
湯気も膳も灯りも、揺らいで薄れていく。鶚の笑みが、斎の伏せた目が、母の差し出した椀が、闇に溶けていく。
最後に母の声が、聞こえた。揺らぎながら、けれど、さっきより、ほんの少し、嬉しそうに。
「……そう。お前は、折れないのね」
闇が、また、ただの闇に、戻った。
澪は膝をついたまま、しばらく、動けなかった。
折れなかった。けれど、折れなかったことが、勝ちなのか、澪には分からなかった。失った者と、永遠にいられる道を、自分で閉じたのだ。胸の奥が削れた身よりも、なお、空っぽになっていた。
それでも手首の紐は、こちら側の色のまま、巻かれていた。
紐を見ていると、雛の声が聞こえる気がした。火、絶やさないで、待ってる。あの子は、いまも底の火のそばで、待っている。澪がまぼろしの温かさを選んで、ここに留まれば、あの子の火は、永遠に迎える者のない火に、なる。
それだけは、できない。
澪はゆっくりと、立ち上がった。膝が、震えていた。失った者を、もう一度、置いていく。それははじめて喪ったときと、おなじくらい、つらかった。
けれど、置いていく。前へ。斎の、ほんとうの斎の、いるほうへ。
*
歩き出そうとしたとき、坂の上のほうから、足音が聞こえた。
生者の、足音だった。
黄泉の、ねっとりした静寂を、踏み破るような、性急な、足音。誰かが、駆け降りてくる。澪のいる、いちばん深い闇のほうへ。
その足音には、聞き覚えが、あった。澪の名を、何百回も呼んだ足音。葦の里の井戸端から、いま、ここまで追ってきた足音。
ありえなかった。生者はここまで、降りられない。繁たちも、岩棚で引き返した。
それなのに、誰かが、来る。澪を、追って。
足音が、止まった。
闇のなかに、影が立っていた。旅装の、男。
笠をゆっくりと、脱ぐ。
直だった。
幼馴染の、優しい顔が、黄泉の闇のなかで、澪を見ていた。汗を、かいている。ここまで、駆けてきたのだ。
生者の身で、半身を削りながら。澪の、するように。
澪は、身構えた。
黄泉戸喫を、退けたばかりだった。まぼろしの、優しい誘いを。けれど、いま目の前にいる直は、まぼろしでは、なかった。
生身の、本物の、直だった。本物の、囲う愛がいちばん深い闇まで、澪を追ってきた。
まぼろしの誘いより、本物の直のほうが、ずっと手ごわい。まぼろしは、澪の心が作ったものだから、見抜けた。けれど、直は外から来る。澪の、見抜けない角度から。
そして、何より――直は、生きていた。まぼろしの斎や、まぼろしの母とは、違う。直は生身の温もりを持って、ここに立っていた。
黄泉の底で、ただひとつの、生きた人間。それが、澪の、いちばん欲しかったはずの「生きた温もり」であることが、たまらなく、皮肉だった。
黄泉戸喫が、形を変えて、もう一度、来たのだ。今度は、直の顔をして。
「やっと、追いついた」と直は言った。息を、切らしながら。声だけはいつもの、優しい声で。
「滅びる世界に」と直は、言った。「お前、何を、返しに来たんだ」




