第七話 囲う手
「滅びる世界に、お前、何を返しに来たんだ」
直の声が、黄泉の闇に、落ちた。
澪は、答えなかった。まず、直の、手を見た。
何も、持っていなかった。雛は、いなかった。
それが澪を少しだけ、楽にした。これまで直はいつも、雛を抱いていた。雛を手綱に、澪を引き寄せた。
けれど、いまの直の腕には、何もなかった。手綱を失った男が、それでもここまで、降りてきた。
直の顔は、やつれていた。黄泉をここまで降りるのは、生者には命がけだ。直の指の先も、わずかに白んでいた。
澪ほどでは、ない。けれど、直も削りながら降りてきたのだ。澪を、追うためだけに。
そこまでして、と澪は思った。その執着の深さの前で、澪は息をひとつ、深くした。憎むにはあまりに長く、知りすぎた相手だった。幼いころ、直は澪の手を引いて、葦原を走った。
あのころの直の手は、ただ、温かかった。いつから、その手は掴んで放さない手に、なったのだろう。澪にはその境目が、思い出せなかった。たぶん、直にも。
優しかった少年と、いま目の前にいる男が、おなじ人だとは、すぐには信じられない。けれど、おなじ人なのだ。優しさは、消えていない。ただ、その優しさが、向きを誤っただけ。
「雛は」と澪は言った。
「お前の、底の連中のところだろう」と直は言った。あっさりと。「取り返そうと、思えば、できた。でも、やめた。雛を抱えてちゃ、お前を追えない。だから、置いてきた」
直が、雛を手放した。
澪が何年も、奪い返そうとして、できなかったものを、直は澪を追うために、自分から、手放したのだ。
「分かるか」と直は、優しく、笑った。「俺は、雛より、お前を選んだ。雛はお前を縛るための、道具だった。その道具すら、捨てた。いまの俺には、お前しか、ない。なあ、澪。これがどれだけの、ことか」
道具すら捨てた、と直は言った。雛を、道具と呼んだ。あの、薬で眠らされ、薄い白衣を着せられた、雛を。
直にとって雛は、最後まで人ではなく、澪を釣る道具だった。その言い方に、澪の胸の奥が、冷えた。
この男は、愛を語る。けれど、その愛のなかに、雛の顔は、ない。澪の顔さえ、ほんとうは、ないのかもしれない。あるのは手のなかに収めたい、という渇きだけ。
優しい声だった。いつもの、直の声。けれど、その優しさの底に、もう後がない者の、ひりついた、響きがあった。
*
「来い」と直は言った。手を、差し伸べる。
「世界は、滅びる。お前にも、止められない。糸は、切れる。みんな、黄泉に呑まれる。だったら、せめて、俺とお前と――迎えに行けば、雛と三人で。水鏡の届かない、どこか遠くで。最期まで、暮らそう。誰にも、見られずに。誰にも、狩られずに」
それは澪が九つか十のころ、井戸端で直にだけ、こぼした夢だった。
誰にも見られない、どこか遠くで、雛と静かに暮らしたい。穢れも水鏡も、ない場所で。
その夢を、直は覚えていた。何年も。澪自身が、忘れかけていた夢を。
その夢を餌にされている、と澪は気づいていた。けれど、餌だと分かっていても、効く。本物の夢だったから。
直は嘘で人を釣る男では、なかった。本物を本物のまま、檻の餌にする。それがいちばん、たちが悪かった。
昔の澪なら、その手を取っていた。誰にも見られない場所。それは十六年、澪がいちばん、欲しかったものだった。
「斎なんか」と直は、声を低くした。「返して、どうする。返したところで、世界が滅びれば、いっしょに、消えるんだぞ。お前が半身を削って、向こう側になってまで、迎えに行って、それで二人とも、滅びる。何の、意味が、ある」
意味、と直は言った。
滅びる前に、迎えに行って、二人で滅びる。たしかに世間の物差しでは、意味のないことだった。けれど、と澪は思った。意味があるか、ないかで決めるのなら、十六年、隠れて生きたことにも、意味はなかった。
生きることに、もともと意味の証文など、ついていない。それでも、行く。意味のためでは、なく。斎が、待っているから。
澪は、直の、差し伸べた手を、見た。
その手は、温かそうだった。生きている手。黄泉の底で、ただひとつ、澪をこちら側へ、引き戻せる、生きた手。
掴めば、楽だった。
掴めば、滅びの前の、つかのまの、静けさが手に入る。雛と、直と誰にも見られない場所で。それはさっきの、座敷の誘いと、おなじだった。形を、変えただけの。
けれど、ひとつだけ、座敷の誘いと、違うことが、あった。座敷は留まれ、と言った。直は逃げよう、と言う。
どちらも斎を置いていけ、と言っていた。どちらも選ぶのをやめろ、楽なほうへ、と言っていた。
澪はもう、楽なほうを選ばないと、決めていた。
*
「あなたは」と澪は言った。「わたしを、救うんじゃ、ない」
直の、笑みが止まった。
「しまい込むだけ。誰にも見られない場所、っていうのは、誰にも見つけられない場所。あなたはわたしを、そこにしまうの。雛も、いっしょに。鍵を、かけて。それをあなたは、守る、って呼ぶ」
「守って、何が、悪い」と直は言った。声が、少し、硬くなった。「お前を、危ない目に、遭わせたくない。お前がすり減るのを、見たくない。それの、どこが」
「守るのと、囲うのは、違うんです」と澪は言った。
その違いを、澪は長いこと、分からずに生きてきた。握ることが、守ることだと、信じていた。雛を、握って。斎を、握って。
握れば、守れると。けれど、握ったものは、ぜんぶ、こぼれた。握ったから、こぼれたのだと、いまは分かる。
言いながら、澪は自分の手首の、組み紐を、見た。雛が、結んだ紐。握らなくても、繋がっている、紐。
「守るっていうのは、その人がその人のまま、生きられるように、することです。あなたのは、違う。あなたはわたしが、生きてるかどうかより、あなたの手のなかに、いるかどうかを、気にしてる。手のなかにいれば、わたしが、どんなに死んだ目をしてても、あなたは、満足なんです」
直はそれを、否定しなかった。否定できる言葉を、探しているのに、見つからない。そういう、沈黙だった。
「……そんなこと」
「葦の里で」と澪は、続けた。「わたしが、心を殺して、笑わなくなっても、あなたは優しかった。なぜだか、分かりますか。あのころのわたしが、いちばん、あなたの手のなかに、収まっていたからです。何も望まず、誰も見ず、ただあなたの優しさに、すがるしか、なかったから」
直は、何も言わなかった。
図星を突かれた者の、沈黙だった。
沈黙のなかで、直の指が動いた。差し伸べたままの手の、親指が手のひらを撫でる。澪に嘘をつくときの、直の癖。けれど、いま、直は誰に嘘をついているのか。
澪にか。それとも、自分自身にか。守るためだ、と、直は、自分に言い聞かせつづけてきたのだ。
何年も。囲っているのではない、守っているのだ、と。その嘘が、いま澪の言葉で、剥がれかけていた。
*
「俺は」と、ようやく、直が言った。声が、掠れていた。「お前を、愛してる。それは嘘じゃ、ない」
「知っています」と澪は言った。「嘘じゃないから、いちばん、つらい」
愛が嘘なら、よかった。嘘なら、はねつけられた。けれど、直の愛は本物だった。本物の愛が、人を檻に入れる。
そういうことが、世の中には、ある。愛していないからではなく、愛しているから、間違える。それを澪は、目の前で見ていた。
澪は、直を、見た。憎み、きれなかった。この男は、澪の、いちばん古い友だちだった。
澪の夢を、ただひとり、覚えていてくれた人だった。その人がこんなふうに、なった。
ならなかった、もうひとりの自分を、澪は直のなかに、見た。
もし、澪が雛を握りしめたまま、放さなかったら。もし、澪が斎を掴んで、引き戻そうとして、それでも放さなかったら。もし、澪が、「守る」と「囲う」を、取り違えたまま、生きていたら。
澪は、直になっていた。
その想像は、澪の足もとを、冷やした。直のように、優しい声で、誰かを閉じ込める自分。雛にお前のためだ、と言いながら、雛の翼をもぐ自分。
ありえない話では、なかった。澪は何度も、その角の、すぐそばまで、行った。
「あなたは、わたしです」と澪は言った。
直の、目が揺れた。
「わたしが、ひとつ、角を曲がり間違えていたら、なっていた、わたし。あなたは握ることしか、知らない。わたしも、ずっとそうでした。だから、あなたを憎めない。あなたを見ると、自分の、いちばん醜いところを、見せられる」
これは慰めでも、軽蔑でもなかった。澪はただ、直に鏡を向けていた。お前は、わたしだ。
わたしはお前に、なりえた。その事実だけが、二人のあいだに、横たわっていた。直がなりたくて、こうなったわけではないことを、澪は知っていた。
葦の里の、優しい少年が、どこで角を曲がったのか。たぶん、本人にも分からない。澪も、もう少しで、おなじ角を、曲がるところだった。
「やめろ」と直は言った。はじめて、声が荒くなった。穏やかな仮面に、ひびが入った。「俺を、お前と一緒にするな。俺は……俺は、ただ」
「ただ、わたしを誰にも、渡したくないだけ。死にも、渡したくない。だから、滅びるなら、いっしょに、しまい込みたい。違いますか」
直は、答えられなかった。
答えられないことが、答えだった。直ははじめて、自分の愛が、救いではなく所有かもしれないと、疑った顔をしていた。生まれて、はじめて。
その疑いは、直のいちばん深いところを、刺したはずだった。俺の愛は正しい、その確信だけで、直はここまで来たのだから。
*
澪は、一歩、直に近づいた。
直が、手を伸ばしかけた。澪を、掴もうと。けれど、その手が止まった。
澪の手を、見たからだった。
闇のなかでも、それは分かった。澪の手は、半分、透けていた。指は向こうの闇が、見えるほどに。手首の、褪せた紐だけが、こちら側の色をして、巻かれていた。
「お前」と直は、言った。声が、震えていた。「お前……もう、半分、向こうじゃないか」
「はい」
隠す気は、なかった。直に、見せた。これが斎を迎えに行く、ということの代償だと。
掴んで引き戻すのではなく、半身を差し出して、迎えに行く。直の知らない、愛の形がここにある。その証が、この透けた手だった。
「なんで、そこまでして」直の顔が、はじめて、くしゃりと、歪んだ。優しい仮面でも、穏やかな支配でもない、ただの、男の顔で。「なんで、そこまでして、あいつを迎えに行く。あいつは、もう神に喰われた、器だぞ。お前が消えてまで、迎える価値が、どこに」
澪は透けた手を、直のほうへは、向けなかった。
向ければ、直は、また掴もうとする。掴めば、直まで向こうへ、引き込む。だから、手は自分の胸のあたりで、そっと開いたままに、した。
「掴まないため、です」と澪は言った。
「……は」
「斎を、掴んで引き戻すためじゃ、ない。掴めば、また、こぼれる。わたしは斎に自分の足で、還ってきてもらう。そのために、迎えに行くんです。手を開いて、待つために。あなたには――握ることしか知らないあなたには、たぶん、分からないでしょうね」
言ってから、澪はほんの少し悔いた。突き放しすぎた、かもしれない。けれど、これは突き放しでは、なかった。掴むことしか知らない男に、掴まない、という道があることを、渡したつもりだった。
いつか、この男も一度でいい、手を開ければ。そう思った。望み薄だと、知りながら。
直は、澪の、開いた手を、見ていた。
その手が、何も掴んでいないことを。それなのに、たしかに何かと、繋がっていることを。理解、できない、という顔で。けれど、その理解できなさの、いちばん奥で、何かが小さく、軋んだ音を、立てた気がした。
その音を、澪は聞き逃さなかった。直のなかの、何かがはじめて軋んだ。囲う、という生き方の、いちばん硬い部分が。
それが崩れる音なのか、ただ軋んだだけなのか、澪には分からなかった。けれど、たしかに、いままで、びくともしなかったものが、動いた。
直は立ち尽くしたまま、動かなかった。
澪はその横を、すり抜けて、闇の、さらに奥へ、歩きはじめた。斎の、いるほうへ。
一歩ごとに、また、半身が削れた。けれど、足は止めなかった。直の差し伸べた、温かい手を、振り切って。楽なほうを、捨てて。
背後で、直が、ついてくる気配が、した。掴むためでは、なく。ただ、澪の、開いた手の意味を、確かめるように。




