第八話 贈り物
闇がふいに、ひらけた。
それまで岩のあいだを、縫うように、降りてきた。けれど、その先は広かった。どこまでが、岩でどこからが、虚空なのか、分からない。
黄泉の、いちばん底。澪は、その縁に立っていた。
生きてここまで降りた者は、織津姫のほかに、いない。いたとしても、還って語った者は、いない。澪はたぶん、二人目だった。
そして、織津姫が還れなかったことを思えば――還って語る、最初の者になるか、織津姫とおなじく、ここで消える者になるか。そのどちらかだった。
正面にひとつの、結び目があった。
ほかに言いようが、なかった。光の糸が無数に、寄り集まって、ひとつの、大きな、結び目になっている。そこから、細い糸が四方へ、伸びていく。上へ。
葦の里へ。穢野へ。世界の、すみずみへ。
神織の、いちばん最初の、結び目だった。
織津姫が、ここで世界を、縫いはじめた。その、最初のひと針が、ここにあった。
澪はゆっくりと、近づいた。
冷気がこれまでで、いちばん、濃かった。一歩、近づくごとに、澪の体が、また透けた。もう肩のあたりまで、向こうの闇が、見えている。
けれど、澪は止まらなかった。ここまで、来た。あとは、触れるだけだった。
ここまで何のために、降りてきたのか。斎を、迎えるため。それは変わらない。けれど橡は、言った。
底には、もうひとつある、と。織津姫の降りた跡。世界を縫った、最初の結び目。穢れの始まりも、儀の偽りも、そこからほどける、と。
斎の気配は、まだもっと奥にあった。けれど、この結び目を、素通りはできなかった。それを知らずに斎を迎えても、おなじ嘘が、世界を喰いつづける。
結び目に半分透けた手を、伸ばす。
触れた。
*
澪のなかに、流れ込んできたものが、あった。
痛みでも、声でもない。記憶だった。澪のものでは、ない、ずっと古い、誰かの記憶。
血がおなじだから、読めた。おなじ糸の、おなじ血すじだから。
織津姫の、記憶だった。
澪は、見た。
ひとりの女が、この場所に、降りてくる。手ぶらで。何も、持たずに。女は自分の手首を、噛んで、血を、流す。
その血が、糸になる。女はその糸で、ほつれかけた、世界の縁を、縫いはじめる。一針、一針。自分の血を、世界に与えながら。
それは喰われたのでは、なかった。
奪われたのでも、なかった。
女は自分から、与えていた。血を。命を。世界に。
見返りを、求めずに。ただ、世界がほどけないように。誰かが、生きられるように。
その血は、女の、いちばん濃い命だった。それをひと匙ずつ、世界に分けて、女はだんだん、透けていった。澪と、おなじように。
透けるのは、呪いではなかった。贈った、しるしだった。
贈っていた。
見返りを求めない、与え方があることを、澪ははじめて、その目で見た。底で橡が言ったことの意味が、いま分かった。縫うとは、選ぶこと。
何を縫い、何を縫わぬかを、選べ、と。けれど、それだけでは、なかった。縫うとは、与えること。
自分のいちばん大事なものを、惜しまずに差し出すこと。織津姫は、命を惜しまなかった。惜しまなかったから、世界はいまも、かろうじて繋がっている。
澪の、喉から、声が漏れた。
「……贈り物」
その言葉が、闇の底に落ちた。十六年、澪をいちばん深く傷つけてきた言葉――穢れ。その正体が、ここにあった。穢れでは、なかった。
贈り物だった。世界への、いちばん古い、いちばん大きな、贈り物。それを上は、穢れと呼び替えて、喰ってきた。贈り物を、奪い物に。
その一語のすり替えだけで、何百年も人が喰われてきた。澪の母も。澪も。これから喰われるはずだった、無数の娘たちも。
比良坂の儀は、嘘だった。世界を救うために、穢れの血を、喰う――それは、上が作った嘘だった。ほんとうは、誰も喰う必要など、なかった。
織津姫が最初に、してみせたこと。それは奪うことでも、喰うことでも、なく。
与えること。贈ること。分かち合うこと。
血は喰わせるものでは、なかった。贈るものだった。喰えば、糸は、減る。贈れば――贈った者の、血と繋がった、すべての糸が、強くなる。
上はそれを、知っていて、隠した。喰うほうが、支配できるから。贈り合われたら、誰も上を要らなくなるから。
喰う、ということは、ひとりが、ぜんぶを握ることだった。贈る、ということは、みんなで分け合うことだった。上は、握りたかった。だから、贈与を収穫にすり替えた。
穢れ、という嘘で。澪の血は喰われるための血では、なかった。贈るための血だった。十六年、澪が穢れだと思い込まされてきた、この血が。
*
記憶は、続いた。
縫い終えた織津姫の、すぐそばに、もうひとりの、影があった。
男だった。日之大神。織津姫の、夫。
男は、手を伸ばしていた。降りていく妻を、掴んで引き戻そうと。連れて、帰ろうと。
織津姫はその手を、取らなかった。
「掴まないで」と、織津姫は言っていた。「来ないで。わたしを掴めば、糸が切れる。あなたまで、引き込む。だから――放して。わたしはここで、世界にわたしを、贈るから」
男は、それでも掴もうとした。愛する者を、掴まずには、いられなかった。
その手が織津姫に、届いた瞬間。
糸が、切れた。
女は男の手の中で、崩れて、消えた。掴まれたから、消えたのだ。男が、放っていれば。
男が見ずに、待っていれば。織津姫は贈り終えて、あるいは還れたかもしれない。
けれど、男は掴んだ。
そして、すべてを失った。
男は悪人では、なかった。ただ、愛していた。愛する者を、行かせたくなかった。掴んででも、引き戻したかった。
その気持ちを、澪は痛いほど分かった。澪も、斎を掴んだ。掴んで、こぼした。
日之大神と、おなじことを、一度、してしまった。だから、これは責める話では、なかった。掴むのは愛が足りないからでは、ない。
愛が深すぎて、放せないのだ。けれど、その深い愛が、いちばん、失わせる。それがこの神話の、いちばん、むごいところだった。
これが神話の、ほんとうの姿だった。死者は連れ戻せぬ、という教え。それは掴んだから、失った、という話だった。
掴まなければ。放っていれば。
その教えは、ねじ曲げられて、世に広まった。死者は連れ戻せぬ、近づくな、穢れる、と。ほんとうは、掴むな、放て、という、たったひとつの作法の話だったのに。上はそこからも、嘘を作った。
連れ戻せぬのではない。掴めば、連れ戻せぬ、だけ。放てば――道は、ある。
黄泉返りは――できたのだ。
最初から。
掴まず、放って、相手に還ることを、選ばせるなら。自らを、贈るなら。
澪は長いあいだ、黄泉返りを、奇跡のように思っていた。神話の禁を破る、大それたことだと。けれど、違った。黄泉返りは、奇跡ではなかった。
ただ掴むのを、やめる、というだけのこと。いちばん難しい、いちばん簡単なこと。愛する者を、目の前にして、手を開いたままで、いられるか。それだけの、ことだった。
*
澪は結び目から、手を離した。
膝が、震えていた。透けた体が、いまにも向こうへ、溶けそうだった。それでも澪の目には、いままでに、ない、光があった。
返せる。斎を。
掴んで引き戻すのでは、なく。放って、待って、自らを贈るなら。
けれど、と澪は思った。
織津姫はそれを、して、還れなかった。なぜか。
答えは記憶の、最後にあった。
織津姫は、ひとりだった。
降りるとき、送る者がいなかった。縫い終えたあと、迎える者が、いなかった。放つ相手は、掴むことしか知らない夫、ただひとり。贈った血を、受け取って、抱きとめてくれる、世界が、まだなかった。
だから、織津姫は贈り終えて、それきり、向こうに残るしか、なかった。受け取る手が、こちら側に、なかったから。
だから、織津姫は神話になった。ひとりで降りて、ひとりで縫って、ひとりで消えた女の、話に。受け取る手がなかったから、贈与は犠牲に見えた。
与えて、消えただけの、悲しい話に。けれど、それは織津姫のせいでは、なかった。世界が、まだ受け取り方を、知らなかったのだ。
澪は自分の手首を、見た。
雛の、結んだ、組み紐。底の者の、灯。火を絶やさずに、待つ妹。掴むな、放て、と教えて、死んでなお、言葉を遺した、鶚。
澪には、いる。
受け取る手が、こちら側に、ある。待つ者が、いる。
それが織津姫と、澪を分けるものだった。織津姫は贈って、消えた。澪は、贈って――還れるかもしれない。受け取ってくれる者が、いるから。
*
澪は闇の奥を、見た。斎の、沈んでいる、いちばん深いところを。
これから、することが、はっきりと、分かった。
斎を、掴まない。引き戻さない。斎に自分の足で、還ることを、選ばせる。
そのために、澪は自分の血を、命の一部を、斎に、贈る。織津姫が世界に、したように。掴むのでも、消えるのでも、壊すのでも、なく。
贈って、放つ。
それが黄泉返りの、ほんとうの作法だった。鶚の遺した、掴むな放て、の、いちばん奥に、あったもの。
ただし、と澪は知っていた。
ただでは、すまない。
血を贈り、命の一部を贈れば、澪は、もうもとの澪には、戻れない。半分、向こう側になった体は、たぶん、こちら側に、すっかりは、還らない。斎を返せても、澪は両界の、境のあたりに、半ば、縛られる者に、なる。
もう雛とおなじ火のそばで、ただの姉として、暮らすことは、できないかもしれない。底の者と、笑い合うことも。澪は境を守る者に、なる。生と死の、あわいに立ちつづける者に。
それは、孤独な役目だった。けれど、織津姫の孤独とは、違う。澪は向こうとこちらの、両方に繋がったまま、境に立つ。ひとりきりで、消えるのでは、ない。
それでも、いい、と澪は思った。
消えるのでは、ない。壊すのでも、ない。誰かに命じられた犠牲でも、ない。
澪が自分で、選んで、贈る。それは自己消滅とは、まるで違うものだった。冬が、底で囁いた、尊い犠牲とは。
与えさせられて、消えるのでは、ない。
自分の意思で、与えて、その上で還ろうとする。
それが、贈与だった。
冬の囁きと、織津姫の業は、見た目はよく似ていた。どちらも自分を、世界に差し出す。けれど、根がまるきり違った。冬のは、与えさせる。
お前は要らない、世界のために消えろ、と。澪を、道具にして喰う。織津姫のは、与える。わたしが世界にこれを贈りたい、と。
澪が澪のまま、選んで渡す。消されるのと、贈るのは似ているようで、正反対だった。一方は、澪をなくす。もう一方は、澪が澪のまま、世界と繋がる。
澪はようやく、底で冬に囁かれて以来、ずっと答えられずにいた問いの、答えを掴んだ。いや――掴んだのでは、ない。受け取った。
*
「……贈る、ねえ」
背後で、声が、した。
澪は、振り返った。
直が、すぐそこに、立っていた。いつのまにか、こんなに近くまで。澪が結び目に触れているあいだ、ずっと後ろで、見ていたのだ。
聞いていたのだ。織津姫の、ほんとうの話を。黄泉返りの、ほんとうの作法を。
知られて、まずい、とは思わなかった。むしろ、聞いてしまえ、と澪は思った。直こそ、誰よりも聞くべき男だった。
掴むことで、すべてを失ってきた男。日之大神と、おなじ道を、歩いてきた男。
直の顔は、青ざめていた。けれど、それは黄泉の冷気の、せいだけでは、なかった。
「贈る、か」と直は、もう一度、言った。掠れた声で。「与えて、見返りを求めない。掴まない。放つ。……俺には、できなかったことだ」
直の目が、澪の、透けた手を、見ていた。それから、自分の、掴むためだけに、生きてきた、その手を、見た。
「俺は、ずっと」と直は言った。声が、震えていた。「与えてるつもりで、奪ってた。守ってるつもりで、囲ってた。お前を贈られたことなんか、一度も、ない。俺はお前から、取ることしか、してこなかった」
黄泉の冷気が、また一段、濃くなった。
直の、足もとから、白い息が立ちのぼる。生者の証の、白い息。けれど、その息もさっきより、薄くなっていた。
直もここまで降りて、削れていた。澪と、おなじように。
澪は、直を見た。この男が、放つ、という言葉を口にする日が来るとは、思わなかった。握ることしか知らなかった男が。すべてを掴んで、こぼしてきた男が。
「澪」と直は言った。はじめて、すがるような、けれど、何かを捨てるような、目で。
「俺にも――まだ、間に合うか。一度でいい。放つ、ってやつが」




