第九話 放つ鴉
「間に合うか、なんて」と澪は言った。「わたしには、分かりません」
黄泉の崩れる気配が、まだ、遠くで鳴っていた。けれど、この一瞬だけは、二人のあいだに、奇妙な静けさが、あった。敵でも味方でもない、ただ長く知りすぎた二人の、最後の静けさが。
直は、黙って、澪を見ていた。
「放つことに、間に合うも、遅いもないんだと思います。ただ、一度、手を開けるかどうか。それだけ」
直はそれを聞いて、しばらく、黙っていた。黄泉の闇のなかで、二人の、削れかけた体だけが、かすかに輪郭を保っていた。かつて、葦の里でいっしょに育った二人。
おなじ水を飲んで。おなじ夕焼けを見て。それがこんな場所まで、来てしまった。
どこかで、ひとつ違えただけ。直が握る道を、澪が放つ道を、選んだ。ただそれだけの違いで、ここまで隔たった。
それでも澪は直を見捨てては、いなかった。憎みきれない、というのは、そういうことだった。この男のなかに、まだ葦の里の少年が、いる。澪は、それを知っていた。
澪はそれ以上、言わなかった。言葉で教えられることでは、なかった。直が自分で、開くしか、ない。十六年、握りつづけた手を。
直は、自分の手を見下ろした。何も掴んでいないように見えて、いつも何かを握りしめてきた手。雛を。澪を。
澪の夢を。その手を、ひらく。直の指がひらきかけて、止まった。
握るのをやめた手の先に、何が待っているのか、分からない。分からないものへ、手をひらく。長年の癖は、そう簡単には、抜けなかった。
そのとき、足もとが揺れた。
*
最初は小さな、震えだった。
けれど、それは、すぐに大きくなった。織津姫の結び目から、伸びた糸の、何本かが、ぷつ、ぷつ、と切れる音が、した。世界の、いちばん古い縫い目が、軋んでいた。
黄泉が、せり上がってきていた。
黒い水のような、冷気の塊が、裂け目の底から、ゆっくりと盛り上がってくる。生者を待っていた、とでもいうように。澪と直という、二人の生者を。
黄泉は降りてきた者を、めったに放さない。まして、二人。
上では綻びが、臨界に達していた。糸が切れるたびに、地上の、どこかが黄泉に、呑まれていく。その揺れが、ここまで届いていた。世界の縁が、崩れはじめていた。
上で何が起きているか、澪には見えた。葦の里が凍り、その先から黒い水が滲み出して、田を家を人を呑んでいく。糸が一本切れるたびに、地図から、ひとつ、村が消える。
臨界とは、こういうことだった。もう、待ったはなかった。澪が斎を返し、嘘を覆さなければ、世界はこの崩落に呑まれて、終わる。
澪の足もとの、岩棚が傾いだ。
崩れる、と思った瞬間、澪の体は宙に投げ出されかけた。半分透けた体は、軽い。風にさらわれる、木の葉のように。黄泉の、いちばん深い裂け目へ、そのまま、落ちていく――
腕を、掴まれた。
直の手だった。
*
直は崩れる岩棚の、縁に踏みとどまって、澪の腕を掴んでいた。
掴むことしか、知らない男の、手だった。その手が、いま澪を落下から、引き止めていた。
「……っ」
直の顔が、歪んだ。澪の腕は、半分、透けている。掴めば、向こうへ引き込まれる。
直の指の先が、見るまに白んでいく。澪の透けが、直に移っていく。
おかしな話だった。澪をこちら側に引き止めようとして、直自身が、向こう側に引かれていく。掴めば掴むほど、二人とも黄泉に近づく。
それが掴む愛の、ほんとうの姿だった。掴んだものを、守るどころか、いっしょに引きずり込む。
「放して」と澪は言った。「直、放して。あなたまで、引き込む」
「うるさい」と直は言った。歯を、食いしばって。「いまさら、放せるか。俺がお前を、落とすと、思うのか」
岩棚が、また、崩れた。二人の体が、裂け目のほうへ、ずるりと、滑る。直は片手で、岩を掴み、片手で澪を掴んでいた。
どちらか、片方しか、保たない。澪を放せば、直は助かる。澪を掴んでいれば、二人とも落ちる。
単純な、算術だった。けれど、直にその算術は、できなかった。掴むことしか知らない男に、放せば助かる、という答えは、出せない。出せないまま、二人はずるずると、縁へ滑っていく。
澪は、抗わなかった。直の手を振りほどこうとも、しなかった。振りほどけば、それは澪が直を、突き放すことになる。そうでは、なかった。
直が自分で選ぶのを、待つ。掴むな、放て。それは澪が斎にも、しようとしていること。いまは、直にそれを待つ番だった。
待つのは、つらかった。手を出せば、早い。掴んで、引っぱれば。
けれど、それをしたら、またおなじことの、繰り返しだった。掴んで、こぼす。だから、待つ。
澪は、見た。
直の目が、迷っていた。生まれて、はじめて、この男が迷っていた。掴むか、放すか。
いつもなら、迷わず、掴んだ。けれど、いま、直は――
「直」と澪は言った。静かに。「あなたは、わたしをしまい込むことは、できなかった。でも――いま、放すことは、できる。一度でいいって、言ったでしょう。これが、それです」
*
直の目から、迷いが消えた。
それは諦めの顔では、なかった。掴むのをやめた、という、ただそれだけの、澄んだ顔だった。
「……はは」と直は、笑った。掠れた、けれど、ほんとうの、笑いだった。穏やかな仮面の笑いでは、ない。「最後に、お前にいいこと、教わったな」
直は澪の腕を、掴んでいた手を――
ひらいた。
その一瞬、澪は見た。直の手のひらが、はじめて、何も掴んでいないのを。空っぽの、手のひら。
けれど、それは負けの空では、なかった。澪がずっと、目指してきた、贈るための空だった。直は最期に、その空を手に入れた。
そして、その同じ手で、最後の力で、澪の体を崩れる岩棚から、向こうの、しっかりした岩のほうへ、突き飛ばした。
掴むのでは、なく。
放して、押し出した。澪が、助かるほうへ。斎の、いるほうへ。
生まれてはじめて、直は掴むのではなく、放った。しかも、自分のいちばん欲しいものを。十六年、追いつづけた、ただひとりを。
手放すことで、生かした。それは囲う愛の敗北では、なかった。囲う愛が最後の最後で、放つ愛になった、その瞬間だった。
人は最後の一瞬でも、変われる。澪は、それを目の前で見た。生まれてからずっと、握ってきた男が、たった一度、ひらいた。その一度が、何年もの握りを、贖った。
遅すぎる、とは思わなかった。放つに遅すぎる、はない。直自身が、そう教えてくれた。
澪の体が安全な岩の上に、転がった。半分透けた手で、岩を、掴む。落ちずに、すんだ。
そして、振り返ったときには。
直の足もとの、岩棚がすっかり、崩れていた。
直は片手で、岩の縁にぶら下がっていた。澪を突き飛ばした、反動で。もう、登ってくる力は、残っていなかった。生者の身で、ここまで降りて、削れて、その上、澪の透けまで、もらって。
「直」
澪は、手を伸ばしかけた。掴もうと。
「掴むな」と直が言った。
澪の手が、止まった。
奇妙だった。掴むな、放て、と澪に何度も教えたのは、鶚だった。それを、いま、直が澪に言っている。
いちばん掴む愛の、化身だった、その男が。死にぎわに、放つ愛の言葉を。世界はときどき、こういう皮肉な、贈り物をする。
贈り物、という言葉が、また澪の胸をついた。さっき、織津姫の結び目で、掴んだ言葉。直の死すら、最後の最後で、ひとつの贈り物に、なろうとしていた。
「掴めば、お前も落ちる。せっかく、放したのに。台なしに、するな」直は、笑っていた。「……俺が、生まれて一度だけ、まともに放したんだ。受け取れよ」
受け取れ、と直は言った。
澪は伸ばしかけた手を、ゆっくりと引いた。掴まなかった。それが直の放つを、受け取る、ということだった。直が放したものを、澪が掴み返したら、直の、最後の一度が、無駄になる。
こんなにもつらい受け取り方が、あるとは思わなかった。助けられるのに、助けない。手を伸ばせるのに、伸ばさない。
けれど、それが、放つ、ということだった。直が、教えてくれた。死にながら。
*
「あなたも」と澪は言った。声が、震えた。「ほんとうは、放ちたかったんでしょう。ずっと」
直は、答えなかった。
けれど、その目がほんの少し、ゆるんだ。図星を突かれたときの、けれど、いつもの、ひりついた図星では、ない。やっと認められた、という、ゆるみ方だった。
「雛を」と直は言った。「あの夜、お前が捨てた雛を、俺が拾った。あれは……ほんとうは、お前の、代わりに守りたかったんだ。お前が、守れなかったものを。それをいつのまにか、手綱にしてた。俺は守ることと、囲うことの、区別が……つかなく、なってた」
「知っています」
「最後に、ひとつだけ」直の指が、岩の縁から、ひとつ、ふたつ、と離れていく。「雛に……すまなかった、と。それから――お前は、間違って、なかった、と」
その言葉を、澪は雛に必ず届けようと思った。直が最期に、雛の名を呼んだことを。手綱としてでは、なく、ひとりの子として。直は最後の最後で、雛を道具から人に戻した。
それもひとつの放つ、だった。雛はきっと、泣くだろう。直をこわがっていた雛が、直の死を、どんなふうに受け止めるか、澪には分からない。
けれど、伝えよう。あの人は、最後に変わったのだと。人は、変われるのだと。
「直」
「斎を、迎えに行け」と直は言った。最後の力で。優しい声で。けれど、今度は檻のない、ただの、優しさで。「俺の分も、放ってこい。掴まずに」
俺の分も、と直は言った。放てなかった男が、放てる者に、託した。自分にはできなかったことを、澪に。
それは敗者の言葉では、なかった。最後にいちばん大事なことを、分かった者の、言葉だった。
直の手が岩から、離れた。
落ちていく、その一瞬。
直は、笑っていた。穏やかな仮面でも、支配でもない。葦の里で澪の手を引いて、葦原を走った、あのころの、少年の、笑いで。
その笑いを、澪はずっと、忘れていた。直が鴉になる前の、笑い。囲う愛に呑まれる前の。
最期にその笑いが、戻ってきた。放った瞬間に。掴むのをやめた者の、いちばん自由な、顔で。
黄泉の闇が、直を呑んだ。
音は、しなかった。ただ白い息が、ひとつ、闇のなかに、立ちのぼって――消えた。生者の証の、最後の、白い息が。
*
澪はしばらく、動けなかった。
直は囲う愛の、果てに死んだのでは、なかった。放つことを、生まれて一度だけ、覚えて、死んだ。澪を、突き飛ばして。掴んだ手を、ひらいて。
憎みきれなかった男が、最後にいちばん、美しいことを、した。
それは澪がこれから、しようとしていることと、おなじだった。掴まず、放つ。直は澪より、先にそれを、してみせた。死をもって。
放つ愛だけが、人を、救う。
澪がずっと信じようとして、信じきれずにいたこと。放つ愛だけが、人を救う、という、その一行を。直が、命で証した。澪より、先に。
その証を皮肉なことに、囲う愛の、化身だった男が、いちばん、はっきりと、立ててみせた。
冬は、知らないだろう、と澪は思った。囲う愛の果てに、放つ愛が芽生えることを。人は、変われることを。冬は、人を数で見る。
工程で見る。けれど、直は最期に、数でも工程でもない、たったひとつの放つを、選んだ。その一度が、世界を救うわけでは、なかった。
直の死で綻びが止まるわけでも、ない。けれど、澪の胸のなかに、それは消えない火を残した。放てる、という、証の火を。
「ありがとう」と澪は、闇に言った。掴もうとして、できなかった手を、胸の前でそっと、開いて。「あなたの分も、放ってきます」
涙は、出なかった。半分、向こう側になった体は、もう涙を流す力も、薄い。けれど、胸の、いちばん透けにくいところが、熱く、なった。
その火を抱いて、澪は行く。直が放したものを、無駄にしないために。直の分まで、掴まずに。
振り返れば、もう直の白い息は、なかった。けれど、闇はさっきより、ほんの少し、軽くなった気がした。ひとつの囲う魂が、最後にほどけて、楽になった、ように。
澪は、立ち上がった。
崩れた岩棚の、向こう。黄泉の、いちばん深いところ。そこにひとつの、影が立っていた。
神の宿った、斎の、体だった。
崩落の、揺れに引き寄せられるように、それはいつのまにか、そこに、いた。古い、底の知れない目で、澪を見ている。
けれど、その目の、奥に。
小さな、光があった。
沈んだ斎が、まだ、澪を見ていた。




