第十話 慈悲の貌
斎の器の、すぐ後ろに、白い影が立っていた。
澪は、すぐにはそれが、誰だか、分からなかった。黄泉の、いちばん深いところに、生者の白が、あるはずが、なかったから。
けれど、それは見間違えようの、ない姿だった。
冬だった。
笏を手に、汚れひとつない、白い衣で黄泉の闇のなかに、立っている。削れても透けても、いなかった。澪も、直も、ここまで降りて、半身を失った。それなのに、冬だけが無傷だった。
無傷なのは、当然だった、と澪は思った。冬は、何も贈らない。何も与えない。だから、削れない。
人を喰うばかりで、自分はひと匙も差し出さない。透けるのは、贈った者のしるし。冬の体が透けないのは、冬がこれまで一度も、何も贈らなかった証だった。
斎の器が冬の前に、立っていた。神の宿った体。古い目で、澪を見ている。冬と神はおなじ側に、いた。
神は澪を、最後の縫い手として喰いたい。冬は澪を、最も尊い贄として使いたい。欲しがるものは、おなじだった。澪の、血と、命。
斎の器は、ただ、立っていた。神の目で澪を見ながら、けれど、その目の奥に、小さな光がある。沈んだ斎が、この対峙を見ている。
澪はその光に、ひそかに語りかけた。もう少し、待っていて。あなたを迎えに来る前に、しなければならないことが、ある。
「よく、来てくれた」と冬は言った。痛ましいほど、穏やかな声で。「ずっと、待っていた。お前が自分の足で、ここまで降りてくるのを」
待っていた、と冬は言った。
澪は、悟った。脱出も降下も、底で真実を知ったことも、ここまでの道の、すべてが。冬の、掌の上だった。
澪を殺すためでは、ない。澪をいちばん深い縫い目の、いちばん深いところまで、自分の足で、来させるため。
最後の縫い手を。最も尊い贄を。
逃げる道は、なかった。背後は、黄泉のいちばん深い裂け目。前は、冬と、神。澪は自分から、いちばん深い罠のまんなかへ、歩いてきた。
けれど、と澪は思った。冬の枡のなかでも、ひとつだけ、冬に決められないものが、ある。澪が、何を放つか。それだけは、冬にも神にも、決められない。
*
「見たろう」と冬は、千引岩の、結び目のほうへ、目をやった。「世界が、ほどけていく。糸が、切れていく。葦の里も北の田も、もう黄泉に、呑まれかけている。止められるのは、お前、ひとりだ」
冬の声は、嘘を、ついていなかった。
それがいちばん、こわかった。冬は嘘で世界を、回す男では、なかった。本当のことを、本当のまま、使う男だった。
世界は実際に、滅びかけている。澪が血を捧げれば、たしかに世界は、繋ぎとめられる。冬の言うことは、ぜんぶ、本当だった。
「お前が、ここで自ら血を差し出し、神織を繕えば」と冬は言った。「万人が、救われる。たった一人の犠牲で。これほど、尊い行いが、あるか。お前は英雄に、なる。世を救った、けなげな娘として、水鏡に永遠に、語り継がれる」
最も、甘い毒だった。
底で囁かれたのと、おなじ毒。けれど、いまは臨界の現実が、その背に、ある。実際に世界は、滅びかけている。実際に澪一人で、止められる。
だから、いっそう、断りにくい。断れば、世界が滅びる。澪のせいで。
その重さは、本物だった。澪がいま断れば、葦の里の残りも、底の郷も、雛の待つ火も、ぜんぶ黄泉に呑まれるかもしれない。澪一人が消えれば、それを防げる。一人と、万人。
算盤をはじけば、答えは、ひとつ。冬はその算盤を、澪の前に置いた。優しい声で。お前は優しい子だから、正しい答えを選べるはずだ、と。
澪は、底で橡が言ったことを、思い出した。塔の上の者には、人が数に見える。底から見れば、人は顔だ。冬の算盤には、顔がなかった。
一人、という駒。万人、という駒。そこに雛の顔も、底の者の顔も、斎の顔もなかった。
「お前は、優しい子だ」と冬は言った。慈しむような、目で。「優しい子なら、分かるはずだ。万人と自分と、どちらを、取るべきか」
澪は、その顔たちを思った。雛の、待つ顔。底の者の、灯を掲げた顔。直が最後に、放った顔。
斎の、目の奥の光。それは数では、なかった。ひとつひとつ、別の顔だった。その顔のために、澪は自分を、数にできなかった。
*
澪はしばらく、冬を見ていた。
それから、ゆっくりと、口を開いた。
「あなたの言うことは、ぜんぶ、本当です」と澪は言った。「世界は、滅びかけている。わたしが血を捧げれば、止まる。それは、本当」
冬の、目がわずかに、和んだ。
「でも」と澪は、続けた。「あなたは、ひとつだけ、すり替えている。捧げる、と捧げさせられる、を」
冬の、笏を撫でる指が、止まった。
「織津姫は、世界に自分を、贈りました。自分の意思で。誰に命じられたのでも、ない。それは、贈与です。でもあなたが、わたしに、させようとしているのは、それじゃ、ない。あなたはわたしに、要らない、と言う。世界のために、消えろ、と言う。それは贈与じゃ、ない。処分です」
「……ことばを、もてあそぶな」と冬は言った。声は、まだ、穏やかだった。「結果は、おなじだ。お前が血を捧げ、世界が救われる。贈与と呼ぼうが、犠牲と呼ぼうが、何が、違う」
「違います」と澪は、はっきりと、言った。
「贈るとき、わたしはわたしのまま、世界と繋がります。あなたに消されるとき、わたしは、ただなくなる。おなじ血が、流れてもまるで、別のことです。あなたはそれが、分からない。だから、あなたはずっと人を喰ってきた。贈り物を奪い物だと、思い込んで」
「もうひとつ」と澪は言った。声が自分でも驚くほど、静かだった。「あなたの慈悲は、慈悲じゃ、ない。支配です」
冬の眉がわずかに、動いた。
「世界を救う、と言いながら、あなたは世界を喰ってきた。救うために、喰う。慈悲の顔で、奪う。あなたのは、いちばん大きな愛を騙った、支配です。直は、わたし一人を囲おうとした。あなたは、世界ぜんぶを囲おうとしている。優しい顔で。だから、直より、たちが悪い」
言いながら、澪は気づいた。これは、ただの言い返しでは、なかった。これは、暴露だった。
冬の、いちばん見られたくない顔の、暴露。いつか、これを冬一人にではなく、世界じゅうに、見せなければ、ならない。
けれど、それはまだ、先だった。いまは、ただこの男の前で、屈しないこと。冬の論に、呑まれないこと。
十六年、誰の前でも、心を殺してきた澪が、いまはじめて、まっすぐに、権力者の目を、見返していた。隠れずに。
見返しても、神罰は落ちなかった。澪が、織津姫の裔だからだ。冬の権威も、神の力もこの血の前では、すこし、分が悪い。
冬は、それを知っている。だからこそ、澪を殺せない。使うしか、ない。
*
冬はしばらく、黙っていた。
それから、別の、餌を出した。
「お前の母を、覚えているか」と冬は言った。「お前の母も、抗った。血の意味を知り、儀を止めようとした。だが、できなかった。折れて、お前を産み、血を闇に沈めた。あの女が果たせなかったことを、お前が果たすのだ。母の、無念を晴らすと、思えば」
母の名を、出された。
けれど、澪は、もう揺れなかった。
「母は」と澪は言った。「折れたんじゃ、ありません。続きをわたしに、渡したんです。わたしがここで、あなたに消されたら、母の、渡したものが、消える。母の無念を、晴らすのは、あなたの贄に、なることじゃ、ない。あなたの嘘を、覆すことです」
言葉がするすると、出てきた。底にいたころの澪なら、冬の前で口を開くことさえ、できなかった。心を殺して、うつむいて、嵐が過ぎるのを待つだけだった。
それが、いままっすぐに、冬に言い返している。隠れる娘が、暴く娘に変わっていた。
「織津姫の、血の歴史は」と冬は、なおも言った。「喰われ、続けることだ。それがお前たちの、定めだ。抗っても母のように、折れる。お前も、いずれ」
「織津姫は、喰われたんじゃ、ない」と澪は、さえぎった。「贈ったんです。わたしはその結び目に、触れて、見ました。あなたの知らない、本当の話を。あなたは織津姫の血を、何百年も喰ってきた。喰うために、贈り物を穢れと、呼び替えて。でもそれは、もう、終わります」
餌はひとつも、効かなかった。
母も血筋も、織津姫も。冬が澪の柔らかいところだと、思っていた場所は、もう澪のなかで、別のものに、なっていた。傷ではなく、誇りに。
冬は、それを見ていた。澪の、餌の効かなさを。この男は、人のいちばん柔らかいところを突いて、操ることに長けていた。母。
妹。愛する者。それを手綱にして、何百人もの娘を、贄の座へ座らせてきた。
けれど、澪の柔らかいところは、もう手綱にならなかった。母も織津姫も、斎も澪を縛る鎖ではなく、澪を立たせる支えに、なっていた。喰われてきた者たちの名が、澪を支えていた。
「あなたは、ひとりですね」と澪は言った。
冬の、表情が止まった。
「世界をぜんぶ握っているのに、あなたの背には、誰もいない。喰った者は、あなたを支えない。呪うだけだ。わたしには、いる。喰われかけた者たちが、わたしをここまで送ってくれた。あなたは世界を持っていて、ひとり。わたしは何も持たなくて、ひとりじゃ、ない」
*
冬の、慈しむような目が、ふと変わった。
慈悲の仮面は、崩れなかった。けれど、その奥の、瞳の動きが、止まった。澪を、量る目。これまで何百という坂人を、贄として、見送ってきた、温度のない、目。
その目で、冬は澪を見ていた。読めない、というふうに。
「お前は」と冬は、言った。はじめて、ほんの少しだけ、声の、調子がずれた。「世界を、救う英雄に、なりたいのでは、ないのだな」
「はい」
「英雄なら、私が用意してやれた。万人に、讃えられる死を。なのにお前は、それを要らないと言う。たった一人の、喰われた器のために、世界の理に、抗うと言う。死者は連れ戻せぬ、という、世界の、いちばん古い理に」
「はい」
「……愚かだ」と冬は言った。
けれど、その「愚かだ」には、これまでの冬には、なかった、何かが混じっていた。切り捨てる響きでは、なかった。むしろ、見たことのない、ものを、見る、響き。
冬の確信に、ひびが入った。ほんの、髪一筋ほどの、ひび。けれど、ずっと揺らがなかった男の、はじめてのひびだった。冬は、人がこんなふうに生きられるとは、思っていなかった。
たった一人のために、世界の理に抗う。万人の讃える死を、要らないと言う。冬のものさしには、ない生き方だった。そのものさしにないものを、冬ははじめて、目の前にして、量りかねていた。
「愚かだ。だが――」
冬は言いさして、口をつぐんだ。
そして、ゆっくりと、後ろを振り返った。千引岩の、結び目のほうを。世界じゅうの糸が、集まり、伸びていく、その要を。
「お前は、知らないだろうな」と冬は、結び目を見つめたまま、言った。「あの縫い目が、何と繋がっているか。なぜ、私がお前を、ここまで来させたか。血を繕うためだけ、ではない」
澪は、結び目を見た。世界じゅうの糸が集まる、要。その糸が、どこへ伸びているか。上へ。
葦の里へ。穢野へ。世界のすみずみへ。
そして、はっと気づいた。
水鏡。国じゅうの目を映し、国じゅうへ映す、あの水面。あれも、糸で繋がっている。
神織の糸で。世界じゅうの水鏡は、この、いちばん最初の結び目に、根を持っている。
だから、冬はここに来た。最後の縫い手の血で神織を結び直し、世界じゅうの水鏡を、自分の手のなかに、握り直すために。澪を贄にし、その血で見届けの機構ごと、世界を永遠に、掌握するために。
血を繕うためだけではない、と冬は言った。冬が欲しいのは、繕った世界の、すべての目だった。
澪の、背筋が冷えた。
冬の目にはじめて、澪を超えた、もっと大きな、企みの、影がよぎっていた。
水鏡を、握り直す。それは世界じゅうの目を、永遠に、冬の見せたいものだけにする、ということだった。讃えるも狩るも、乞うも冬の思うまま。人々は冬の見せる水面の外を、二度と見られなくなる。
けれど、と澪は思った。糸で繋がっているなら。世界じゅうの水鏡が、この結び目に根を持っているなら。
それは、逆もできる、ということでは、ないか。
「すぐに、分かる」と冬は言った。慈悲の貌に、戻って。「お前が、いちばん、見られたくないものを、いちばん、見られたい場所で、見せてやろう」




