第十一話 千引の門
地が、鳴っていた。
綻びが臨界を越えて、黄泉と地上の、境そのものが、迫り上がってきていた。これまで深く降りなければ、届かなかった、千引岩の結び目が、いまは上の世界の、すぐ裾まで、せり上がっている。黄泉と地上が、ひとつの場所で、口を合わせようとしていた。
それは世界が、終わる、ということだった。
葦の里が北の田が、穢野が、ひとつずつ黄泉に呑まれていく。澪が降りているあいだにも、世界は削れていた。雛の待つ、底の火さえ、いつまで保つか、分からない。時は、もう、ほとんど残っていなかった。
急がなければ。けれど、急いて、掴めば、こぼす。澪は、自分に言い聞かせた。
急ぎながら、掴まない。それが、いちばん難しいことだった。
けれど、おなじことが、もうひとつ、起きていた。
境が迫り上がったせいで、これまで誰も降りられなかった、いちばん深い縫い目の、要へ。生者が来られるように、なっていた。
坂の上から、足音が聞こえた。
ひとつでは、なかった。いくつも。いくつも。
生者の足音だった。黄泉に響くはずの、ない音。降りてくる、というより、なだれ込んでくる、ような。
澪は、振り返った。誰が、こんな場所まで。生者が来られるはずが、ないのに。
そのとき、澪は思い出した。境が、迫り上がったのだ。崩れる世界が、皮肉にも隔てをなくしていた。
底と、黄泉のいちばん深いところが、ひとつに近づいた。だから、来られる。だから、来てしまった。
来てくれた、という思いと、巻き込んでしまった、という悔いが、いちどに来た。この者たちは、澪のために、削れながら降りてきた。澪は、その重さを背負った。背負って、なお、前へ進むしか、なかった。
*
底の者たちが、降りてきていた。
橡が、先頭に、いた。墨の衣の、年寄りたちが。繁が、鉈を、手に。
黄泉子の若い者が、松明を掲げて。澪を、坂の途中まで、見送った、あの者たちが。境が迫り上がって、降りられるように、なった道を、迷わず、下ってきた。
「澪を」と橡が、冬に向かって、言った。「ひとりには、させん」
繁がその隣で、鉈を握り直した。
「言っとくが」と繁は、澪を見ずに、言った。「あんたを、助けに来たんじゃ、ねえ。郷の、けじめだ。喰われる側が、喰う側にいっぺん面と向かって、言ってやらなきゃ、気がすまねえ。それだけだ」
口では、そう言った。けれど、繁の鉈を握る手は、震えていた。生者が、黄泉まで降りる。
それがどれほどのことか、繁にも分かっていた。分かっていて、降りてきた。澪の、するように。
底の者たちの指の先も、白みはじめていた。ここにいるだけで、削れる。それでも、誰も引き返さなかった。
冬は底の者たちを、見た。慈しむような目で。けれど、その目の奥は、量っていた。
穢れと呼んで、ないことにしてきた者たちが、いま隊を成して、自分の前に、立っている。冬の、ものさしには、ない光景だった。
冬はこれまで、底の者を塊として見てきた。穢れ、というひとかたまりとして。けれど、いま目の前にいるのは、塊ではなかった。橡という、ひとり。
繁という、ひとり。松明を掲げた若者という、ひとり。顔のあるひとりひとりが、自分の意思で、ここまで降りてきた。
数では動かない者たちだった。冬の算盤の、いちばん外にいた者たち。それが、いま、要を囲んでいた。
澪はその輪の、まんなかに、いた。
前には、冬。冬の前には、斎の器。背には、黄泉のいちばん深い裂け目。
そして、坂の上には、底の者たち。すべての勢力が、この、ひとつの要に、集まっていた。
千引の、門。生と死の、境の、いちばん細い結び目に、世界の、ぜんぶが集まっていた。
斎の器は、その、まんなかに立っていた。神の宿った体。冬の側に。
けれど、その目の奥の、小さな光だけは、ずっと澪を見ていた。沈んだ斎が、この収束を見ている。澪が来るのを、待っている。
待っていて、と澪は、またその光に語りかけた。もう少し。あとひとつ終わらせてから、必ず迎えに行く。
橡が、澪のそばに来た。透けかけた澪の手を見て、けれど、掴まずに、ただ隣に立った。
「無茶を、する」と橡は言った。叱るのでは、なく。「だが、無茶をする者しか、神話を書き換えられん。織津姫の絵を、何代も描き継いで、待っていた。その、無茶をする者を」
「橡さま」と澪は言った。「わたしは、ここでふたつのことを、します。嘘を覆して、斎を返す。たぶん、無事では、すみません」
「知っとる」と橡は言った。「だから、みんなで来た。お前ひとりの無茶に、せんために」
底の者たちが、坂の上で松明を掲げた。ひと続きの、灯の線。あの出立の朝、坂の上に灯った、見送りの灯と、おなじだった。けれど、今度は見送りでは、なかった。
共に立つための、灯だった。澪は、ひとりで降りてきた。けれど、ひとりでは、なかった。背にその灯を感じながら、澪は冬と向き合った。
*
澪は、要を、見た。
世界じゅうの糸が、ここに集まり、ここから、伸びていく。その糸の、何本かが見覚えのある、揺らぎ方を、していた。
水鏡だ、と澪は確信した。
各地の社の、水盤。国じゅうの目を映し、国じゅうへ映す、あの水面。あれは神都の術だけで、できているのでは、なかった。
根を、神織の糸に、持っていた。世界じゅうの水鏡が、この、いちばん最初の結び目に、繋がっている。
気づいてみれば、当たり前のことだった。水鏡は、境を映す。生と死の境。讃えと、狩りの境。
境を司るのは、神織。だから、水鏡の根は、神織のいちばん深い結び目にある。上の者は、それを神都のありがたい術だと信じてきた。違った。
水鏡は神都のものではなく、世界の縫い目のものだった。冬は、それを私物にしようとしている。世界の、見る目をぜんぶ。
だから、ここに立つ者は、世界じゅうの水鏡へ、おなじものを、一斉に映すことが、できる。
冬がここに、来た理由が、それだった。最後の縫い手の血で、神織を結び直し、世界じゅうの水鏡を、自分の手に、握り直す。見届けの機構ごと、世界を永遠に、掌握する。澪を、贄にして。
けれど、と澪は思った。
おなじ要に、立てるなら。おなじ糸を、握れるなら。
逆も、できる。
冬が嘘を全土へ流すために、使おうとしている、その同じ水面に。澪は真実を、流せる。穢れは贄では、ない。
贈り物だった、と。比良坂の儀は、繕う儀では、なく、喰う儀だった、と。世界じゅうの、目の前で。
いつか、国じゅうの水鏡の前で、禁忌の接触を犯した夜が、あった。あのとき、水鏡は、澪を突き落とす指になった。讃える指が、そのまま、突き落とす指に。ならば、今度は。
突き落とす水面を、真実を映す水面に変える。澪を穢れと呼んだ、その同じ水面に、穢れの本当の意味を映す。讃えと狩りの機構を、暴露の機構に。
できるか、どうかは分からなかった。澪は、繕い手だ。神織を、繕い、解くことはできる。けれど、水鏡を逆しまに使うことなど、誰もしたことが、ない。
やり方も知らない。ただ、要に触れれば。糸に、自分の血を通せば。
何かが起きる、という予感だけが、あった。織津姫の結び目に触れたとき、記憶が流れ込んできた。あれとおなじことが、もっと大きく起こせるかもしれない。
*
やることは、ふたつ、あった。
ひとつ。冬の嘘を、覆す。世界じゅうの水鏡を、逆しまに使って。
見られた嘘は、生きられない。冬の慈悲が、支配だと全土に、見せる。
ふたつ。斎を、返す。黄泉の、いちばん深いところまで、降りて。
掴まず、放って。自らを、贈って。
そして、その、ふたつを。
おなじ場所で、おなじ刻に、しなければ、ならなかった。
要を離れれば、水鏡は使えない。けれど、要に留まれば、斎のいる、いちばん深い底までは、降りられない。嘘を覆すことと、斎を返すこと。
世界を救うことと、たった一人を救うこと。そのふたつが、ひとつの場所で、せめぎ合っていた。
冬は、それも見越していた。澪が要に立てば、斎を返せない。斎を返しに底へ降りれば、水鏡は冬のものになる。どちらを取っても、片方を失う。
冬はまた、澪に二択を突きつけていた。世界か、斎か。万人か、一人か。
かつて底で、そして、いまここで。冬はいつも、澪に、二つにひとつを選ばせようとする。選べば必ず、何かを捨てる二択を。
けれど、と澪は思った。直は、その二択の外へ出た。掴むか、落とすか、ではなく、放つ、という三つめへ。織津姫も。
掴むか、消えるか、ではなく、贈る、という。きっとここにも、冬の二択の外がある。まだ、見えないだけで。
二択の外を、見つける。それができなければ、世界か斎か、どちらかを失う。できれば――両方を救える。
直の放った命も、鶚の遺した言葉も、織津姫の贈った血も、ぜんぶ、その四つめの道の上にある。澪ひとりの思いつきでは、なかった。先に放った者たちが、敷いてくれた道だった。
澪は、唇を噛んだ。透けた歯が、噛み合う感覚も、もう、薄い。
二つを、どう、両立させるか。まだ、見えなかった。けれど、見えないまま、ここまで、来た。
底で、橡が言った。道は歩いた跡が、道になる。立っていることが、半分、道だ、と。
両立の道は、まだ霧のなかだった。けれど、ひとつだけ、はっきりしていることが、あった。逃げない。要からも斎からも、世界からも。
ぜんぶを抱えたまま、ここに立つ。捨てる二択を突きつけられても、どちらも捨てない道を探す。それが、澪の、四つめの道だった。
澪は、立っていた。要の、まんなかに。逃げずに。半分透けた足で、それでも地をしっかりと、踏んで。
*
冬が、笏を、掲げた。
要の糸がざわめいて、世界じゅうの水鏡が、いっせいに、冬を映しはじめた。葦の里の水盤。北の田の社。
穢野の、欠け椀の水。凍りかけた、すべての水面に、白い衣の冬が、映る。
「見よ」と冬は、全土へ語りかけた。慈悲深い、声で。
「世界が、滅びかけている。黄泉が、溢れ、糸が切れていく。だが、案ずるな。ここに最後の縫い手が、いる。この娘が、自ら、世界のために、その血を捧げる。たった一人の、尊い犠牲で、世はふたたび、繕われる。皆、見届けよ。この娘の、けなげな最期を」
冬の声は、慈悲に満ちていた。全土の、すがる村々に、それは救いの約束に聞こえただろう。誰か一人が、犠牲になってくれる。
自分たちは、助かる。これほどありがたい話は、ない。
澪は知っていた。この優しい声が、いちばんこわいことを。叫ぶ支配は、誰でも恐れる。けれど、慈悲の声の支配は、すがらせてしまう。
人々は自分を喰う手に、すがって、拝む。その鎖を断つには、見せるしかなかった。慈悲の顔の裏を。すがっている手が、ほんとうは喰う手だと。
言葉では、足りない。冬は、言葉の名人だ。言葉では、勝てない。
だから――見せる。全土の目に。言葉ではなく、本当のことを、そのまま。
全土が、見ていた。
凍えた村々の、すがる目が、いっせいに、澪に注がれた。救い手を、乞う目。けなげな娘の、犠牲を見届けようとする目。かつて、澪を讃え、澪を狩った、その同じ、無数の目が。
水鏡の、三つめの顔だった。讃える顔。狩る顔。そして、乞う顔。
けれど、どの顔も、澪を、自分の外のものとして見ていた。推しとして。穢れとして。
救い手として。誰も、澪をおなじ人として見たことが、なかった。これから、澪はその水面に、四つめのものを映す。
穢れと呼ばれた血が、ほんとうは贈り物だったという、真実を。讃えるためでも、狩るためでも、乞うためでも、ない。ただ、本当のことを知るための、水面に。
それができれば。讃えも狩りも、乞いも終わる。水鏡は人を煽る機構から、人が本当を分かち合う、ただの水面に、戻る。
冬は澪を世界じゅうの前で、尊い贄に、仕立て上げようとしていた。逃げ場の、ない舞台に。全土が見守るなか、断れば、世界を見捨てた娘に、なる。
澪は、その、無数の水面を、見た。
逃げ場の、ない舞台。
けれど、舞台は見る者と、見られる者が、向き合う場所でも、あった。冬が澪を全土に、見せるということは。全土が澪を見ている、ということ。
ならば、澪もその水面を、通して、全土を見返せる。
澪は無数の水鏡を、まっすぐに、見返した。逃げる娘の目では、なく。暴く娘の、目で。
冬が見せたいものを、映すための水面。それを、澪は、いま逆しまに、見ていた。




