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水鏡の花嫁  作者: 甕星 慶(ミカボシケイ)
第三部

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第十二話 水鏡を割る

(みお)は、要に手を伸ばした。


世界じゅうの糸が、集まる、結び目。(ふゆ)が、これから、澪の血で握り直そうとしている、その要に。


冬がそれを、見て、目を細めた。「そうだ」と、満足げに言った。「自ら、触れるがいい。


血を、捧げ、世界を、繕え。お前は、いまいちばん尊いことを、しようとしている」


冬の目には、勝利が見えていた。最後の縫い手が、自分の足で要まで来て、自分の手で血を捧げる。これ以上、完璧な収穫は、なかった。澪が、納得して贄になる。


誰も傷つけずに。冬の、いちばん美しい絵が、いま完成しようとしていた。けれど、冬はひとつだけ、見落としていた。澪が要に触れるのは、捧げるためでなく、流すためだ、ということを。


澪は要に半分透けた手のひらを、当てた。


血が、通った。


けれど、澪が流したのは、冬の望む血では、なかった。捧げる血でも、繕うだけの血でも、ない。澪はその血に、ひとつのものを、乗せた。


織津姫(おりつひめ)の、記憶を。


血を流す、ということは、贈る、ということだった。澪は、また半身を削った。指が手のひらが、もっと透けた。


けれど、今度の透けは、こわくなかった。これは世界へ真実を贈るための、透けだった。


冬は、澪が贄として血を捧げるのだと、思っていた。違った。澪は捧げるのでなく、贈っていた。


捧げさせられるのでなく、自分で選んで。冬の、いちばん見抜けなかったその一点を、澪はいま、要の上で、やってのけようとしていた。


ずっと見られることが、こわかった。十六年、隠れて生きた。見られたら、穢れがばれる。狩られる。


けれど、いま、澪は世界じゅうに見られながら、何も隠していなかった。見られたまま、真実を贈っていた。隠れる娘が、見られたまま、暴く娘になっていた。


   *


結び目に触れたとき、流れ込んできた、あの記憶。手ぶらで降りて、自分の血を、世界に贈った、女神の。喰われたのでは、なく、与えたのだという、本当の話。


それを澪は自分の血に、乗せて、糸へ流した。


世界じゅうの糸が、いっせいに、震えた。


要から、四方へ。上へ。葦の里へ。穢野へ。


世界の、すみずみへ。糸を伝って、澪の流したものが、走っていく。各地の社の、水盤へ。国じゅうの、水鏡(みかがみ)へ。


そして、すべての水面が、映しはじめた。


冬の、白い衣では、なかった。


織津姫を。暗い水のなかで、自分の手首を噛み、血を糸にして、世界を縫う女神を。喰われたのでは、なく、与えていた、その姿を。


それは、澪が結び目に触れて見たものと、おなじだった。けれど、いまは、澪ひとりが見ているのでは、なかった。世界じゅうが、おなじものを見ていた。何百年も隠されてきた、いちばん古い、本当の話を。


糸は嘘を運ぶためにも、本当を運ぶためにも、使えた。冬は、嘘を運ばせてきた。澪は、本当を流した。


おなじ糸で。おなじ水面で。


冬は、まだ気づいていなかった。澪が自分を贄にする代わりに、自分を世界へ贈っていることに。血を、一滴ずつ。


真実を、糸に乗せて。澪の体は、また透けていく。けれど、その透けが、世界じゅうの水面を、本当で満たしていく。


   *


全土の、水鏡が真実を、映していた。


穢れと呼ばれた血が、ほんとうは、世界を縫う糸だったこと。比良坂の儀が、繕う儀では、なく、縫い手を喰う儀だったこと。喰えば喰うほど、綻びは早まったこと。そして、それを知りながら、上が何百年も、贈り物を穢れと、呼び替えて、喰ってきたこと。


凍えた村々で、人々が水盤を、覗き込んでいた。救い手を乞うために、覗いた、その水面に。讃えるためでも、狩るためでも、ない、四つめのものが、映っていた。


本当のことが。


四つめの顔。それを映すために、澪はここまで降りてきた。斎を迎えるためだけでは、なかった。


底の火のまわりの小さな反転を、世界のすべての水面に届けるために。ふたつの願いのひとつが、いま、果たされようとしていた。


葦の里の、誰かが、息を、呑む。北の田の、誰かが声を上げる。穢野の、欠け椀の水を、囲んだ者たちが、顔を見合わせる。世界じゅうの目が、いまおなじ真実を、見ていた。


葦の里の、女の顔があった。かつて、澪の家の前で、袖で口を覆った女。その女が、いま水面に映る織津姫を見て、口を覆った手を、ゆっくりと下ろしていた。穢野の子に、塩を撒いた者たちもいた。


穢れを避けた者たちが、いま、自分たちが何を避けてきたのかを知った。避けていたのは、穢れではなかった。世界を支えていた、血だった。人々の顔に、いちどに、いろいろなものがよぎった。


驚き。恥。怒り。けれど、いちばん多かったのは、たぶん――いままで見せられていたものは、何だったのか、という問いだった。


冬が何百年も、隠してきた、たったひとつの、本当を。


「やめろ」


冬の声がはじめて、乱れた。


   *


「やめろ。それは……それは、ただの、昔話だ。誰が、信じる」


けれど、冬の声は、もう全土の水鏡には、乗っていなかった。要は澪の血が、握っていた。水鏡は、もう冬の見せたいものを、映していなかった。


冬が何百年も、握ってきたもの。それは剣でも、軍でもなかった。見られ方だった。


慈悲深い、神の代理人。世を守る、ありがたい統べ手。その、見られ方だけで、冬は世界を、握ってきた。


その、見られ方が、いま覆った。


全土が、見てしまった。慈悲の顔の、裏を。すがっていた手が、ほんとうは、喰う手だったことを。


見られた嘘は、生きられない。


それが水鏡の、ほんとうの力だった。冬はその力を握って、人を操ってきた。見せたいものだけを見せて。けれど、その力はもろ刃だった。


いったん本当が映れば。讃えるのも、狩るのもすがるのも、ぜんぶ、人々の見たものから来ていた。だから、見たものが変われば。


すべてが変わる。冬を神の代理人にしていたのは、人々の信だった。その信が引けば、冬は、ただの白い衣の男になる。


人々の目から、すうっと冬への、すがりが引いていくのが、澪には分かった。糸を、通して。世界じゅうの、信が冬から、離れていく。慈悲の声に、すがって、拝んでいた、その手が、ひとつ、またひとつ、止まっていく。


冬の、足もとが揺らいだ。


底の者たちが、坂の上から、それを見ていた。(つるばみ)が。(しげ)が。喰われてきた者たちが。


自分たちを塊として、ないことにしてきた男が、いま、ただの男に戻っていくのを。誰も、歓声を上げなかった。底の者は、勝ち鬨を知らない。ただ、長いあいだ奪われてきたものが、やっと明るみに出た、その静かな重さを、噛みしめていた。


   *


冬は自分の手を、見た。


(しゃく)を、握った手。けれど、その手は何も握っていなかった。見られ方を、失った冬には、もう何もなかった。


「私は」と冬は、言った。声が、掠れていた。「私は、世界を、救おうと」


「救おうと、しながら」と澪は言った。静かに。「喰っていた。あなたは、ずっと何も贈らなかった。だから、削れもしなかった。けれど、いま、分かりますか。何も贈らなかった、ということは――どこにも、根が、ないということです」


冬ははじめて、自分の手を、長いこと見ていた。その手は何百年、誰の手も握らなかった。握らせもしなかった。喰うときだけ、伸ばした手。


与えることを、一度もしなかった手。その手は、いま、何も掴めなかった。掴むものがない、のではない。掴んでも何も繋がらない、手だった。


冬が人を数で見てきたツケが、いま冬自身に返っていた。数は、誰も冬を支えない。顔だけが、人を支える。冬には支える顔が、ひとつもなかった。


冬の体が、傾いだ。


澪も底の者も、削れていた。透けていた。けれど、その透けは、贈った、しるしだった。


贈った者は、贈った先に、繋がっている。世界に、人に根を張っている。


冬は、何も贈らなかった。だから、何にも繋がっていなかった。要が真実で、満ちたいま、冬をこちら側に、繋ぎとめるものが、ひとつもなかった。


黄泉(よみ)の裂け目が、口を開けていた。


冬が何百年も、数えきれない娘を、突き落としてきた、その裂け目が。


その裂け目は、いつも向こう側に、あった。冬は縁に立って、人を落とす側だった。一度も落ちる側になったことが、なかった。落ちるのは、いつも穢れと呼ばれた者たち。


坂人。縫い手。名もない娘。いまはじめて、冬がその縁の、落ちる側に立っていた。


冬の体がゆっくりと、そちらへ傾いていく。誰も突き落としては、いなかった。澪も底の者も、手を出さなかった。ただ冬を繋ぎとめるものが、もうどこにも、なかった。


   *


「待て」と冬は言った。はじめて、すがる声で。「私を、繋ぎとめろ。お前の血で。お前は、繕い手だろう。私を、縫え」


澪は、冬を、見た。


縫うことは、できた。澪の血なら。けれど、澪は動かなかった。


「あなたを、縫えば」と澪は言った。「また、おなじことが、始まります。あなたは、また慈悲の顔で、人を、喰う。わたしはそれを、縫いとめません。でも――突き落としも、しません」


冬の目が、見開かれた。


「あなたが、落ちるなら、それはあなたが、何も贈らなかったからです。わたしが罰するんじゃ、ない。あなたが自分で、誰とも繋がらなかった。それだけです」


それは勝ち誇りでは、なかった。澪は、冬を見下していなかった。ただ、悲しかった。


世界をぜんぶ手に入れて、最後に、繋がる手がひとつもないこと。それは、いちばん深い罰だった。けれど、その罰を与えたのは、澪ではなく、冬自身の生き方だった。


いつか、冬も、誰かに手をひらけたかもしれない。直のように。けれど、その一度を、冬は生涯しなかった。それが、冬と直を分けたものだった。


冬は最後まで、慈悲の貌を、保とうとした。けれど、保てなかった。何百年も人に強いてきた、喰われる側の、顔に。冬自身が、なっていた。


白い衣が黄泉の裂け目へ、滑り落ちていく。


声は、上げなかった。最後まで。ただその目に、はじめて、温度のない、本物の、孤独がよぎった。世界をぜんぶ握って、誰とも繋がらなかった者の、いちばん、底の、孤独が。


黄泉が、冬を呑んだ。


あっけない最期だった。長いあいだ、澪の頭上に、神のように君臨してきた男が。叫びも、抵抗もなく。ただ、繋ぐものがないから、落ちた。


澪は、その落ちる先を見送った。憎しみも勝ち誇りも、なかった。ただ、ひとつ思った。この男も、どこかで角を曲がり間違えたのかもしれない。


直のように。けれど、直と違って、冬は最後まで、手をひらかなかった。だから、誰も冬を受け取らなかった。


   *


全土の水鏡が、それを見届けていた。


慈悲の顔の、統べ手が自分の作った、喰う仕組みの、いちばん底へ、落ちていくのを。讃え、狩り、乞うた、その同じ水面が、最後に、嘘の、終わりを映した。


嘘は、覆った。


世界じゅうの目の前で。穢れは、もう穢れでは、なくなった。贈り物だったと、全土が知った。


水鏡の、三つめまでの顔が、終わった。讃える顔も、狩る顔も乞う顔も。そのどれもが、冬の見せたいものに操られた顔だった。いま、四つめの顔が生まれていた。


自分の目で、本当を見た顔。もう、誰かに見せられるのでは、ない。自分で見る顔。世界は、すぐには変わらないだろう。


けれど、種は撒かれた。穢れは誉れだという、種が。底の火のまわりで灯った、小さな反転が、いま全土の水面に映った。


けれど。


澪は要から、手を離した。


世界は、まだ、綻びかけていた。冬が落ちても、糸は、まだ切れていく。そして、いちばん大事なことが、まだ終わっていなかった。


(いつき)が、まだ黄泉の、いちばん底に、いる。


嘘を覆すことは、できた。世界を、終わりからほんの少し引き戻すことも、できるかもしれない。けれど、それだけでは、澪の二本の願いの、片方しか果たせていなかった。世界を救うことと、斎を返すこと。


冬は、そのふたつを二択にして突きつけた。けれど、澪はいま、ひとつめをやり遂げた。要を離れずに。そして、これからふたつめをやる。


要から、いちばん深い底へ降りて。二択の、外。両方をする道が、いま澪の足もとに、ひらきかけていた。


澪は裂け目の縁に、立った。冬の、落ちた、その底を見下ろす。けれど、澪が見ていたのは、冬の落ちた闇では、なかった。


その、もっと奥。神に呑まれた、斎の、沈む底。


「次は」と澪は、つぶやいた。「あなたを、迎えに行く番」


半分透けた手を、開いたまま、澪は裂け目の闇へ、足を踏み出した。


掴むためでは、なく。


放って、迎えに行くために。


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