第十二話 水鏡を割る
澪は、要に手を伸ばした。
世界じゅうの糸が、集まる、結び目。冬が、これから、澪の血で握り直そうとしている、その要に。
冬がそれを、見て、目を細めた。「そうだ」と、満足げに言った。「自ら、触れるがいい。
血を、捧げ、世界を、繕え。お前は、いまいちばん尊いことを、しようとしている」
冬の目には、勝利が見えていた。最後の縫い手が、自分の足で要まで来て、自分の手で血を捧げる。これ以上、完璧な収穫は、なかった。澪が、納得して贄になる。
誰も傷つけずに。冬の、いちばん美しい絵が、いま完成しようとしていた。けれど、冬はひとつだけ、見落としていた。澪が要に触れるのは、捧げるためでなく、流すためだ、ということを。
澪は要に半分透けた手のひらを、当てた。
血が、通った。
けれど、澪が流したのは、冬の望む血では、なかった。捧げる血でも、繕うだけの血でも、ない。澪はその血に、ひとつのものを、乗せた。
織津姫の、記憶を。
血を流す、ということは、贈る、ということだった。澪は、また半身を削った。指が手のひらが、もっと透けた。
けれど、今度の透けは、こわくなかった。これは世界へ真実を贈るための、透けだった。
冬は、澪が贄として血を捧げるのだと、思っていた。違った。澪は捧げるのでなく、贈っていた。
捧げさせられるのでなく、自分で選んで。冬の、いちばん見抜けなかったその一点を、澪はいま、要の上で、やってのけようとしていた。
ずっと見られることが、こわかった。十六年、隠れて生きた。見られたら、穢れがばれる。狩られる。
けれど、いま、澪は世界じゅうに見られながら、何も隠していなかった。見られたまま、真実を贈っていた。隠れる娘が、見られたまま、暴く娘になっていた。
*
結び目に触れたとき、流れ込んできた、あの記憶。手ぶらで降りて、自分の血を、世界に贈った、女神の。喰われたのでは、なく、与えたのだという、本当の話。
それを澪は自分の血に、乗せて、糸へ流した。
世界じゅうの糸が、いっせいに、震えた。
要から、四方へ。上へ。葦の里へ。穢野へ。
世界の、すみずみへ。糸を伝って、澪の流したものが、走っていく。各地の社の、水盤へ。国じゅうの、水鏡へ。
そして、すべての水面が、映しはじめた。
冬の、白い衣では、なかった。
織津姫を。暗い水のなかで、自分の手首を噛み、血を糸にして、世界を縫う女神を。喰われたのでは、なく、与えていた、その姿を。
それは、澪が結び目に触れて見たものと、おなじだった。けれど、いまは、澪ひとりが見ているのでは、なかった。世界じゅうが、おなじものを見ていた。何百年も隠されてきた、いちばん古い、本当の話を。
糸は嘘を運ぶためにも、本当を運ぶためにも、使えた。冬は、嘘を運ばせてきた。澪は、本当を流した。
おなじ糸で。おなじ水面で。
冬は、まだ気づいていなかった。澪が自分を贄にする代わりに、自分を世界へ贈っていることに。血を、一滴ずつ。
真実を、糸に乗せて。澪の体は、また透けていく。けれど、その透けが、世界じゅうの水面を、本当で満たしていく。
*
全土の、水鏡が真実を、映していた。
穢れと呼ばれた血が、ほんとうは、世界を縫う糸だったこと。比良坂の儀が、繕う儀では、なく、縫い手を喰う儀だったこと。喰えば喰うほど、綻びは早まったこと。そして、それを知りながら、上が何百年も、贈り物を穢れと、呼び替えて、喰ってきたこと。
凍えた村々で、人々が水盤を、覗き込んでいた。救い手を乞うために、覗いた、その水面に。讃えるためでも、狩るためでも、ない、四つめのものが、映っていた。
本当のことが。
四つめの顔。それを映すために、澪はここまで降りてきた。斎を迎えるためだけでは、なかった。
底の火のまわりの小さな反転を、世界のすべての水面に届けるために。ふたつの願いのひとつが、いま、果たされようとしていた。
葦の里の、誰かが、息を、呑む。北の田の、誰かが声を上げる。穢野の、欠け椀の水を、囲んだ者たちが、顔を見合わせる。世界じゅうの目が、いまおなじ真実を、見ていた。
葦の里の、女の顔があった。かつて、澪の家の前で、袖で口を覆った女。その女が、いま水面に映る織津姫を見て、口を覆った手を、ゆっくりと下ろしていた。穢野の子に、塩を撒いた者たちもいた。
穢れを避けた者たちが、いま、自分たちが何を避けてきたのかを知った。避けていたのは、穢れではなかった。世界を支えていた、血だった。人々の顔に、いちどに、いろいろなものがよぎった。
驚き。恥。怒り。けれど、いちばん多かったのは、たぶん――いままで見せられていたものは、何だったのか、という問いだった。
冬が何百年も、隠してきた、たったひとつの、本当を。
「やめろ」
冬の声がはじめて、乱れた。
*
「やめろ。それは……それは、ただの、昔話だ。誰が、信じる」
けれど、冬の声は、もう全土の水鏡には、乗っていなかった。要は澪の血が、握っていた。水鏡は、もう冬の見せたいものを、映していなかった。
冬が何百年も、握ってきたもの。それは剣でも、軍でもなかった。見られ方だった。
慈悲深い、神の代理人。世を守る、ありがたい統べ手。その、見られ方だけで、冬は世界を、握ってきた。
その、見られ方が、いま覆った。
全土が、見てしまった。慈悲の顔の、裏を。すがっていた手が、ほんとうは、喰う手だったことを。
見られた嘘は、生きられない。
それが水鏡の、ほんとうの力だった。冬はその力を握って、人を操ってきた。見せたいものだけを見せて。けれど、その力はもろ刃だった。
いったん本当が映れば。讃えるのも、狩るのもすがるのも、ぜんぶ、人々の見たものから来ていた。だから、見たものが変われば。
すべてが変わる。冬を神の代理人にしていたのは、人々の信だった。その信が引けば、冬は、ただの白い衣の男になる。
人々の目から、すうっと冬への、すがりが引いていくのが、澪には分かった。糸を、通して。世界じゅうの、信が冬から、離れていく。慈悲の声に、すがって、拝んでいた、その手が、ひとつ、またひとつ、止まっていく。
冬の、足もとが揺らいだ。
底の者たちが、坂の上から、それを見ていた。橡が。繁が。喰われてきた者たちが。
自分たちを塊として、ないことにしてきた男が、いま、ただの男に戻っていくのを。誰も、歓声を上げなかった。底の者は、勝ち鬨を知らない。ただ、長いあいだ奪われてきたものが、やっと明るみに出た、その静かな重さを、噛みしめていた。
*
冬は自分の手を、見た。
笏を、握った手。けれど、その手は何も握っていなかった。見られ方を、失った冬には、もう何もなかった。
「私は」と冬は、言った。声が、掠れていた。「私は、世界を、救おうと」
「救おうと、しながら」と澪は言った。静かに。「喰っていた。あなたは、ずっと何も贈らなかった。だから、削れもしなかった。けれど、いま、分かりますか。何も贈らなかった、ということは――どこにも、根が、ないということです」
冬ははじめて、自分の手を、長いこと見ていた。その手は何百年、誰の手も握らなかった。握らせもしなかった。喰うときだけ、伸ばした手。
与えることを、一度もしなかった手。その手は、いま、何も掴めなかった。掴むものがない、のではない。掴んでも何も繋がらない、手だった。
冬が人を数で見てきたツケが、いま冬自身に返っていた。数は、誰も冬を支えない。顔だけが、人を支える。冬には支える顔が、ひとつもなかった。
冬の体が、傾いだ。
澪も底の者も、削れていた。透けていた。けれど、その透けは、贈った、しるしだった。
贈った者は、贈った先に、繋がっている。世界に、人に根を張っている。
冬は、何も贈らなかった。だから、何にも繋がっていなかった。要が真実で、満ちたいま、冬をこちら側に、繋ぎとめるものが、ひとつもなかった。
黄泉の裂け目が、口を開けていた。
冬が何百年も、数えきれない娘を、突き落としてきた、その裂け目が。
その裂け目は、いつも向こう側に、あった。冬は縁に立って、人を落とす側だった。一度も落ちる側になったことが、なかった。落ちるのは、いつも穢れと呼ばれた者たち。
坂人。縫い手。名もない娘。いまはじめて、冬がその縁の、落ちる側に立っていた。
冬の体がゆっくりと、そちらへ傾いていく。誰も突き落としては、いなかった。澪も底の者も、手を出さなかった。ただ冬を繋ぎとめるものが、もうどこにも、なかった。
*
「待て」と冬は言った。はじめて、すがる声で。「私を、繋ぎとめろ。お前の血で。お前は、繕い手だろう。私を、縫え」
澪は、冬を、見た。
縫うことは、できた。澪の血なら。けれど、澪は動かなかった。
「あなたを、縫えば」と澪は言った。「また、おなじことが、始まります。あなたは、また慈悲の顔で、人を、喰う。わたしはそれを、縫いとめません。でも――突き落としも、しません」
冬の目が、見開かれた。
「あなたが、落ちるなら、それはあなたが、何も贈らなかったからです。わたしが罰するんじゃ、ない。あなたが自分で、誰とも繋がらなかった。それだけです」
それは勝ち誇りでは、なかった。澪は、冬を見下していなかった。ただ、悲しかった。
世界をぜんぶ手に入れて、最後に、繋がる手がひとつもないこと。それは、いちばん深い罰だった。けれど、その罰を与えたのは、澪ではなく、冬自身の生き方だった。
いつか、冬も、誰かに手をひらけたかもしれない。直のように。けれど、その一度を、冬は生涯しなかった。それが、冬と直を分けたものだった。
冬は最後まで、慈悲の貌を、保とうとした。けれど、保てなかった。何百年も人に強いてきた、喰われる側の、顔に。冬自身が、なっていた。
白い衣が黄泉の裂け目へ、滑り落ちていく。
声は、上げなかった。最後まで。ただその目に、はじめて、温度のない、本物の、孤独がよぎった。世界をぜんぶ握って、誰とも繋がらなかった者の、いちばん、底の、孤独が。
黄泉が、冬を呑んだ。
あっけない最期だった。長いあいだ、澪の頭上に、神のように君臨してきた男が。叫びも、抵抗もなく。ただ、繋ぐものがないから、落ちた。
澪は、その落ちる先を見送った。憎しみも勝ち誇りも、なかった。ただ、ひとつ思った。この男も、どこかで角を曲がり間違えたのかもしれない。
直のように。けれど、直と違って、冬は最後まで、手をひらかなかった。だから、誰も冬を受け取らなかった。
*
全土の水鏡が、それを見届けていた。
慈悲の顔の、統べ手が自分の作った、喰う仕組みの、いちばん底へ、落ちていくのを。讃え、狩り、乞うた、その同じ水面が、最後に、嘘の、終わりを映した。
嘘は、覆った。
世界じゅうの目の前で。穢れは、もう穢れでは、なくなった。贈り物だったと、全土が知った。
水鏡の、三つめまでの顔が、終わった。讃える顔も、狩る顔も乞う顔も。そのどれもが、冬の見せたいものに操られた顔だった。いま、四つめの顔が生まれていた。
自分の目で、本当を見た顔。もう、誰かに見せられるのでは、ない。自分で見る顔。世界は、すぐには変わらないだろう。
けれど、種は撒かれた。穢れは誉れだという、種が。底の火のまわりで灯った、小さな反転が、いま全土の水面に映った。
けれど。
澪は要から、手を離した。
世界は、まだ、綻びかけていた。冬が落ちても、糸は、まだ切れていく。そして、いちばん大事なことが、まだ終わっていなかった。
斎が、まだ黄泉の、いちばん底に、いる。
嘘を覆すことは、できた。世界を、終わりからほんの少し引き戻すことも、できるかもしれない。けれど、それだけでは、澪の二本の願いの、片方しか果たせていなかった。世界を救うことと、斎を返すこと。
冬は、そのふたつを二択にして突きつけた。けれど、澪はいま、ひとつめをやり遂げた。要を離れずに。そして、これからふたつめをやる。
要から、いちばん深い底へ降りて。二択の、外。両方をする道が、いま澪の足もとに、ひらきかけていた。
澪は裂け目の縁に、立った。冬の、落ちた、その底を見下ろす。けれど、澪が見ていたのは、冬の落ちた闇では、なかった。
その、もっと奥。神に呑まれた、斎の、沈む底。
「次は」と澪は、つぶやいた。「あなたを、迎えに行く番」
半分透けた手を、開いたまま、澪は裂け目の闇へ、足を踏み出した。
掴むためでは、なく。
放って、迎えに行くために。




