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第五話 雨宮 栞

五月中旬。


大学生活が始まってから、

一か月ほどが経っていた。


最初は緊張ばかりだったキャンパスも、

最近では少しずつ慣れてきている。


講義棟までの近道。


空いている自販機。


学食の混む時間。


そんな細かいことも、

何となく分かるようになってきた。


けれど、

義弘の中にはまだ、

完全には馴染めない感覚が残っていた。


周囲では、

楽しそうな笑い声が飛び交っている。


「今度みんなで旅行行こうぜ」


「ゴールデンウイーク沖縄行きたくね?」


「てか飲み会どうする?」


“大学生っぽい会話”。


義弘はそれを、

少し遠い場所から聞いていることが多かった。


別に嫌いな訳じゃない。


ただ、

自分はそこへ上手く入れない。


そんな感覚があった。


昼休みも、

一人で旅先を調べたり、

写真を見返したりして過ごすことが多い。


でも――。


秩父へ行ってから、

少しだけ変わったことがある。


以前ほど、

自分の趣味を“変だ”と思わなくなったのだ。


山。


神社。


温泉。


ローカル線。


静かな景色。


昔は、

そういうものが好きだと言う度に、

どこか笑われる気がしていた。


高校の修学旅行で言われた言葉は、

今でも時々思い出す。


『寺とか渋すぎだろ』


『じじくさくね?』


あの時から、

自分の“好き”を人へ話すのが少し怖くなった。


だから大学でも、

あまり深く話さないようにしていた。


そんなある日。


観光学概論の講義中。


教授が前へ立ち、

プリントを配り始める。


「はい、じゃあ今日はグループワークやります」


教室が一気にざわついた。


義弘は内心で小さく息を吐く。


グループワーク。


嫌いではない。


ただ、

“グループを作る時間”が苦手だった。


しかも今回は二回目。


既に仲良くなっている者同士で、

自然と輪が出来始めている。


「あ、また同じメンバーでやろ」


「こっち来なよー!」


次々と席が埋まっていく。


義弘は少し出遅れた。


どうしようかと思っていると。


「……ここ、空いてますよ」


静かな声が聞こえた。


顔を上げる。


窓際の席に座っていた女子が、

こちらを見ていた。


肩まで伸びた黒髪。


落ち着いた雰囲気。


机の横には、

小さなカメラのストラップが見えている。


「あ、ありがとうございます」


義弘は軽く頭を下げ、

その席へ向かった。


「毎回これ苦手なんですよね」


苦笑しながら言うと、

彼女も少し笑った。


「分かります。

 気付いたらもうグループ完成してますよね」


「あれ早すぎません?」


「みんな慣れるの早いです」


その返しが自然で、

義弘は少し肩の力が抜けた。


やがて他の二人も加わり、

グループワークが始まる。


テーマは、

『地域観光資源を活かした観光プラン』。


観光学科らしい内容だった。


「やっぱ食べ歩きとか強いよね」


「インスタ映えは外せなくない?」


「グランピング系とか流行ってるし」


他の二人がテンポ良く話していく。


義弘はメモを取りながら聞いていた。


間違ってはいない。


実際、

観光として正しいと思う。


でも、

どこか“よく見る答え”にも感じた。


その時。


窓際の女子が、

静かに口を開いた。


「……静かな場所を目的に来る人も、

 最近は多いと思います」


場の空気が少し止まる。


「静かな場所?」


「はい。

 景色を見るとか、温泉とか。

 “何もしない時間”を楽しむ感じです」


義弘は少し驚いた。


その感覚が、

かなり自分に近かったからだ。


彼女は続ける。


「観光って、

 何かを“する”ことばかり注目されるじゃないですか」


「まあ、確かに」


「でも、

 空気を楽しみに行く人も居ると思うんです」


その瞬間。


義弘の頭に、

秩父の景色が浮かんだ。


朝の山。


川の音。


夕暮れ。


温泉。


静かな時間。


気付けば、

自然と口が動いていた。


「……秩父とか、結構そういう感じありますよ」


三人の視線が、

こちらへ向く。


一瞬だけ、

心臓が跳ねた。


また、

“変わってる”と思われるかもしれない。


そんな感覚が、

反射みたいに頭をよぎる。


でも――。


「へぇ、秩父?」


否定の声は来なかった。


義弘は少しだけ安心しながら続ける。


「この前行ったんですけど、

 派手な観光地っていうより……」


言葉を探す。


けれど今回は、

途中で飲み込まずに済んだ。


「歩いてる時の空気とか、

 山の静けさが良いんですよね。

 あと、温泉入った後の夕方の感じとか」


「あー、なんか分かるかも」


男子学生が頷く。


「最近そういう“癒やし系観光”人気だよね」


笑われない。


否定されない。


それだけで、

義弘は少し驚いていた。


「あと、

 橋とか川沿い歩くだけでも結構楽しくて」


言葉が続く。


今までなら、

ここで止めていた。


でも今回は違う。


「写真とか撮るんですか?」


窓際の彼女が聞く。


「あ、はい。

 景色ばっかですけど」


「どんな景色撮るんです?」


「人が少ない時の観光地とかですかね。

 一瞬だけ静かになるタイミングあるじゃないですか」


言いながら、

義弘は少し不安になる。


また、

“変わってる”と思われるかもしれない。


でも。


「……それ、すごく分かります」


彼女は、

すぐにそう言った。


「え?」


「私も、

 人が居ない瞬間の景色好きです」


机の横のカメラストラップへ、

彼女が軽く触れる。


「観光地なのに、

 一瞬だけ静かになる時ありますよね」


「あ、そう、それです」


義弘は思わず少し前のめりになる。


「なんか、

 その場所の“本当の空気”見える感じしません?」


言った後で、

少し喋り過ぎたかと思った。


でも。


「分かります」


彼女は、

ちゃんと頷いた。


否定されない。


変だと言われない。


それだけで、

こんなに話しやすいんだと義弘は思った。


気付けば、

さっきまでより自然に話せていた。


キャンプ場の話。


三峯神社の空気。


温泉。


ローカル線。


「え、一人でキャンプ行ったの?」


「最近ちょっと興味あって。

 武甲キャンプ場ってとこ行きました」


「大学生でソロキャンってすごいな」


「動画の影響ですけどね」


笑いながら答える。


昔なら、

趣味を話した後、

どこかで周囲の反応を気にしていた。


でも今回は違う。


ちゃんと、

“会話”になっていた。


男子学生の一人が、

興味津々そうに聞いてくる。


「実際どうなの? 一人キャンプって」


「最初はちょっと不安でした。

 でも、焚き火見てる時間とか結構落ち着きますよ」


「へぇ……」


「あと、夜の音がいいんです。

 川の音とか、薪の音とか」


「あー、それちょっと分かるかも」


「虫とかヤバくない?」


「春はまだそこまででもなかったです。

 夏は多分大変そうですけど」


自然に笑いが起きる。


義弘もつられて少し笑った。


その時だった。


「秩父の写真、見てみたいです」


窓際の彼女がそう言った。


「え?」


「さっき話してた景色。

 ちょっと気になります」


義弘は少し迷った。


スマホの写真フォルダは、

本当に景色ばかりだ。


橋。


山。


川。


温泉街。


他人から見れば、

地味な写真かもしれない。


でも。


「……地味ですよ?」


そう言いながらスマホを取り出す。


「その方が気になります」


彼女は少し笑った。


義弘はアルバムを開き、

先日の秩父旅行の写真を見せる。


最初に映ったのは、

朝の三峯神社だった。


木漏れ日。


石畳。


誰もいない参道。


「……綺麗」


彼女が小さく呟く。


その反応に、

義弘は少し驚いた。


続いて、

旧秩父橋の写真。


夕方の川沿い。


焚き火。


武甲山。


「これ、自分で撮ったんですか?」


「はい」


「なんか、写真静かですね」


その言葉に、

義弘は少し目を見開いた。


“静か”。


それは、

義弘が写真で一番大事にしていた空気だった。


映えよりも、

その場所に流れていた時間を残したかった。


だから、

そう言われたのが嬉しかった。


「観光地なのに、

 人が少ない感じする」


「人いなくなる瞬間待って撮ってるんで」


「なるほど……」


彼女は写真を見ながら、

少し楽しそうに笑った。


「なんか、“そこに居た時の空気”感じますね」


その一言で、

胸の奥が少し熱くなる。


今まで、

こういう写真を誰かに見せても、


『渋いね』


『風景だけ?』


そんな反応が多かった。


だから、

ちゃんと写真を見てもらえた気がして、

義弘は少し嬉しかった。


講義終了後。


他の二人は、

「お疲れー」と教室を出ていく。


義弘も荷物をまとめる。


すると。


「雨宮 栞です」


窓際の彼女が、

改めてそう名乗った。


「佐久間義弘です」


義弘も軽く頭を下げる。


「佐久間くん、

 また旅の写真見せてください」


「……機会あれば」


そう答えると、

澪は少し笑った。


窓の外では、

五月の風が木々を揺らしている。


大学へ入ってから初めて。


義弘は、

“自分の好きなものを話しても大丈夫かもしれない”

と思えた気がした。

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