第三話 聖地巡礼と駅前の温泉・中編
山を下るバスは、
来た時より少しだけ賑やかだった。
登山帰りの人達。
観光客。
そして、聖地巡礼らしい若者達。
後ろの席では、
相変わらず楽しそうな会話が続いている。
「やっぱ旧秩父橋は行くでしょ」
「あと、あの公園も!」
義弘は窓の外を眺めながら、
小さく口元を緩めた。
作品名こそ聞こえなかったが、
多分、同じ作品だ。
秩父を舞台にしたアニメはいくつかある。
その中でも、
今日義弘が巡る作品は、
“景色そのもの”と“キャラクター達の空気感”が強く印象に残る作品だった。
派手な戦闘や劇的な展開ではなく、
夏の匂い。
夕暮れの静けさ。
何気ない会話。
そして、
そこにいるキャラクター達の距離感。
そういう作品が、
義弘は昔から好きだった。
バスは山道を抜け、
再び市街地へ近付いていく。
木々が減り、
建物が増える。
コンビニ。
住宅街。
小さな商店。
少しずつ、
“人の生活”の景色へ戻っていく。
義弘はスマホで地図を確認した。
まず向かうのは、旧秩父橋。
作品の中で何度も映っていた場所だ。
西武秩父駅へ戻ると、
観光客の姿は朝よりかなり増えていた。
土産物屋から漂う味噌の香り。
駅前を歩く家族連れ。
レンタサイクルを借りる若者達。
そんな賑わいの中を抜けながら、
義弘は静かに歩き始めた。
春の日差しは柔らかい。
少し冷たい風だけが、
まだ山の近さを感じさせる。
しばらく歩くと、
立派な鳥居が見えてきた。
秩父神社だった。
色鮮やかな装飾。
歴史を感じさせる社殿。
観光客も多いはずなのに、
境内へ一歩入ると空気が少し静かになる。
義弘は自然と足を止めた。
三峯神社とはまた違う。
山奥の張り詰めた空気ではなく、
“町に根付いた神社”の落ち着きがある。
「……ここも、いいな」
小さく呟きながら、
義弘は軽く一礼した。
境内には、
御朱印待ちらしい列も出来ている。
子供連れ。
年配の夫婦。
観光客。
それぞれが思い思いに参拝していた。
義弘はカメラを取り出し、
境内の一角を静かに撮る。
風に揺れる木々。
石畳。
社殿へ差し込む午後の日差し。
人が多い場所でも、
切り取り方次第で静かな景色になる。
それが少し面白かった。
秩父神社を後にすると、
再び川の音が聞こえてきた。
荒川。
その流れに沿うように、
古い橋が見えてくる。
義弘は自然と歩く速度を落とした。
「……ここか」
目の前に現れたのは、
どこか懐かしい雰囲気を持つ橋だった。
古い鉄骨。
少し色褪せた欄干。
川の向こうに見える山。
アニメで見たままの景色。
けれど実際に立つと、
画面越しとは全然違った。
風の強さ。
川の音。
鉄橋が軋む微かな音。
全部が“本物”だった。
義弘は橋の中央まで歩き、
カメラを構える。
観光客がいなくなる瞬間を待つ。
数秒。
静かになった。
カシャッ――。
シャッター音が響く。
撮れた写真を確認する。
派手ではない。
SNSで何万“いいね”も付くような写真ではない。
でも、
義弘は満足だった。
「……やっぱ現地来ると違うな」
独り言のように呟く。
聖地巡礼というより、
“景色を確かめに来た”感覚に近かった。
その後も義弘は、
作品に登場した場所をゆっくり巡った。
川沿いの道。
小さな踏切。
公園。
商店街。
どこも特別派手な場所ではない。
でも、
アニメで見た景色が現実に存在している。
それだけで不思議と楽しかった。
途中、
同じく聖地巡礼中らしい男女グループとすれ違う。
「あ、ここここ!」
「同じ構図で撮ろ!」
楽しそうに写真を撮っている。
義弘は少し離れた場所から、
その光景を眺めた。
楽しみ方は人それぞれだ。
同じ作品が好きでも、
見たい景色は違う。
義弘は人のいないタイミングを待ち、
静かに写真を撮る。
その方が落ち着いた。
気付けば、
太陽が西に傾き始めていた。
かなり歩いた。
リュックを背負い直しながら、
義弘は小さく息を吐く。
「……流石に疲れたな」
そこで思い出す。
西武秩父駅前に、
有名な温泉施設があったはずだ。
せっかくなら最後に寄って帰ろう。
そう決めて、
義弘は駅前へ戻ることにした。
夕方に近づく西武秩父駅は、
朝とはまた違う空気だった。
帰宅する観光客。
土産袋を抱えた家族。
温泉帰りらしい人達。
そして駅前に見える、
木の温もりを感じる建物。
温泉施設だった。
館内へ入ると、
ふわりと木の香りが広がる。
外の空気より暖かい。
義弘はカウンターでキーを貰い、
ロッカーへ荷物を預けた。
長時間歩いた足が、
少し重い。
脱衣所を抜け、
浴場へ入る。
その瞬間。
「……あー……」
思わず声が漏れた。
湯気。
静かな空気。
木造の天井。
露天風呂から見える青空。
山帰りの冷えた身体へ、
温泉の熱がゆっくり染み込んでいく。
肩の力が抜ける。
大学へ入ってから、
ずっと少し緊張していた気がした。
新しい環境。
新しい人間関係。
周囲へ合わせる毎日。
でも今日は違った。
好きな場所へ行って。
好きな景色を見て。
好きな写真を撮った。
ただそれだけなのに、
不思議なくらい心が軽かった。
露天風呂で春風を感じながら、
義弘はぼんやり空を見上げる。
少しづつオレンジ色になっていく秩父の空。
遠くの山影。
静かな風。
「……また来よう」
自然とそんな言葉が漏れた。
今日一日だけじゃ足りない。
まだ行っていない場所もある。
奥宮もある。
季節が変われば、
景色も変わる。
夏の秩父。
秋の秩父。
冬の三峰。
全部見てみたかった。
風呂を上がった後、
義弘は休憩スペースで瓶の牛乳を買った。
冷たい牛乳が喉へ流れ込む。
歩き疲れた身体に妙に美味い。
窓の外では、
西武秩父駅へ特急ラビューが入線してきていた。
白い車体。
静かなライト。
帰宅する人達が、
ゆっくりホームへ吸い込まれていく。
本来なら、
ここで帰っても十分満足な旅だった。
けれど、
義弘にはもう一つだけ予定が残っていた。
キャンプ場。
最近少しだけ興味を持ち始めた、
ソロキャンプの下見だった。
動画で見るだけだった世界。
焚き火。
静かな夜。
山の空気。
今日一日、
秩父を歩いているうちに、
そういう時間を実際に体験してみたくなっていた。
義弘は空になった瓶を返却し、
リュックを背負い直す。
カメラには大量の写真。
スマホには位置情報付きの思い出。
でも多分、
一番残るのは“空気”だと義弘は思った。
山の冷たさ。
川の音。
温泉の熱。
秩父の静かな時間。
それをまた感じたくなった時、
きっと自分はまたここへ来る。
義弘は小さく笑い、
夕暮れ時の秩父の街へ歩き出した。
ラストスパートは、
まだ始まったばかりだった。




