第八十八話 相も変わらず
「凛ちゃん、凛ちゃん」
繊弱に呼びかける声にハッとして、振り返った。
「ふ、伏見…………」
死んだ魚の目をした、白衣の男。
昨晩はもちろん、一昨日も夜勤明けだったようで、丸二日は寝てないと聞いた。
ただでさえ目立つ目のクマがさらに濃くなって、痩せこけたパンダみたいに見える。
「あーあーそんな病み上がりの体で…………護衛は他のボディガードさんに任せていいんじゃないの」
「問題ない。お前の治癒で瘴気は抜けた。それよりお嬢様の経過はどうだ?」
「うん………今のところ異常なし。午後の検査で問題がなかったら、ひまりちゃんは帰れるよ…………」
「そうか…………」
医療従事者すら立ち入りを禁止したこの特別個室で、ひまりが検査入院をしているのは、すべて伏見が伏せた極秘情報だ。
「すまない…………世話になったな」
「いいよいいよ………愛弟子の愛娘ちゃんのためなら…………寿命削ったってかまわないし………」
「お嬢様にも伝えておく」
「んん?」
伏見は怪訝そうに細い首を傾ける。
「キミも入ってるんだけど…………愛娘ちゃん?」
「なっ…………」
言われた途端に、カーッと顔が茹でたタコみたいに紅潮する。
「ぁ、あ………」
いつも硬く結ぶ唇が、嫌でも自然と綻びた。
「ぁ………り、がとう」
少し幼さを残した口調で、凛は紡いだ。
にやぁ、と痩せた頬肉を骨張るまで歪ませる伏見。
うぅっ! と、返す言葉も見つからずに目を逸らす。
「あ、それとさぁ…………」
伏見は眠たげな眼差しを下に向けた。
「この子何とかしてくれない?」
二人の視線の先には、ピコンピコンとセンサーみたいにアホ毛を揺らしたピンク頭の子供。
にやぁ、とぷにぷにのほっぺたを吊り上げている。
「あっ、あっ、アイスケ!? なぜいる!?」
「受付の看護師の膝に乗って色目使ってたから………とりあえず連れてきた」
「なぜ!?」
「悪いけどボク、二時間ほど仮眠取ってくるよ………何かあったら連絡してね…………ふぁぁ〜………」
「ちょ、おい!」
大きなあくびをしながら手をひらひら振って立ち去る伏見。
ぽかん、と口を開けて凛は呆然とする。
ピコン、ピコン、とアホ毛は存在意義をアピールするかのように揺れる。
凛は嫌でも視界に入るピンク頭に目をやった。
「………自宅で療養するように言われなかったのか?」
「悪魔の治癒力舐めちゃダメだよぉ〜、元気もりもり〜。凛さんこそ平気なの?」
「ああ。伏見の回復魔法はおぞましいほど強力だからな。しかしお前こそ、自ら肩を貫通させたらしいが………」
「大丈夫大丈夫〜、出血なんてディアボロスにゃ慣れっこだよ〜」
ブンブンと尻尾を振り回して尋常ではないスタミナを強調するアイスケに、凛はうっ、と呻いた。
あの事件から、まだ半日も経っていないというのに。
戦場から帰還した小さな少年は、溌剌とした笑顔を見せている。
「いやぁ〜、家の事情もあって一旦は帰ったんだけどさ」
むず痒そうに顎をかいて言った。
「何か………気になっちゃって」
にししっ、と照れ隠しのように歯を見せて笑った。
「あー…………だめ、かな?」
視線を下に泳がせて、目を合わせようとしないアイスケに、凛は呆れるようにため息をついた。
「…………いいだろう。お前には恩があるからな」
ぱあっ、と黒目がちの瞳が期待に満ちた犬のように輝く。
「ただし!」
バンザイのポーズで踊るアイスケに鋭く言い放った。
「弱ったお嬢様に不埒な真似でもしたら…………削ぎ落とすぞ」
「どこを!?」
「分かったなら入れ!! ここは病気だ!! あまり騒ぐな!!」
「いやあなたの声が大きいんですけど!?」
「はぁ!?」
「ひゃいぃっ! 何でもありませんんんんんん!!」
鬼の眼光に、少年が勝てることは当分なさそうだ。




