第八十七話 悪魔と鬼
今日の病院は平穏な方だ。
サイレンの音も、ストレッチャーの走る音も、数えられるほどしか耳に入ってこない。
一般病棟の離れにある、特別病棟の特別個室の前で、包帯に覆われた凛は静寂の中思った。
そして、ふと思い返した。
今朝の悪魔との会話を。
『感謝はしている…………だが今となってこそ聞くが、いいか』
白衣の悪魔はどうぞ、と気味が悪いほど冷静を纏っていた。
『お前はエメポーションを、いかにして再誕させた?』
『………………』
『なぜ、救えると、あれほどの確信を持っていた?』
『………………』
白衣の悪魔は缶コーヒーに口をつけ、だんまり。
それが余計気に食わず、凛は声量を上げる。
『青瘴気のサンプルだけを鍵にあの薬を生んだとは到底思えない…………噂では………カールハインツは禁を犯して、神の使徒まで引きずり墜とし、天界と地界を繋ぐあの薬の発明を成功させたと聞いた』
『…………………』
『アイスケ、か?』
『…………………』
『お前があの時、閉じ込めた記憶晶………アイスケの、歌を、材料に、お前は………』
『………………だとしたら?』
『!』
ずっと沈黙を守っていたラムの口が開き、まるで試すような言い振りをした。
その声は、敵を罵るように低く、いつもの苛立つほど飄々とした口調が剥がれ、暗い殺気を放つ悪魔の本性を見せていた。
凛はごくりと生唾を飲む。
言ってはいけないような、そんな複雑な疑問が、頭にずっと浮かんでいたおぞましい可能性が、喉の奥に押し込むには眩暈がするほど耐えきれない。
二人っきりの病室の中、凛は、白衣の悪魔に、静かに聞いた。
『あいつは、天使なのか…………?』
ラムは、顔色一つ変えない。
その沈黙が、まるで肯定のように感じて、凛はますます恐怖が増した。
だが、あの人でも悪魔でもなく子供でも大人でもない姿は、羽ばたく白い翼は、聴いたこともない旋律は、そのあり得ない可能性を一筋に照らす他なかった。
『あいつ自身は…………理解しているのか』
『たぶん…………正確には分かってないだろうね』
『たぶん?』
ラムは、缶コーヒーを置いて、ぼうっ、と一点の壁を見つながら口を開いた。
『正直、俺自身もはっきりと理解していない』
『な………』
『天使なんて、科学的に証明された試しがない。カールハインツの研究も、一説としてはあるけど、当事者も死んだ今じゃ確証なんてない』
『だがお前はっ………その研究を………成功させた………』
『最初はただ………あの子の歌を研究室から聴いていた』
ラムは呆然と言った。
『綺麗だなって、可愛らしなって、あの子の音楽の才に感心していた…………』
ラムは、子供のように淡々と言った。
『だけど、すぐにあの子の歌に力を感じた。音楽の域を超えた、科学でも認証されていない、未知なる力を知ってしまった。あの子の歌を聴いて、俺の研究は想像も上回る世界を切り拓いた。予想もしなかった可能性が次々に頭に浮かんだ。この世に消えたはずの、線密なデータが脳内で鮮明に再生された。魔界で見た禁書と、祖父の資料、人界で目の当たりにした青瘴気の実態に、そして、あの子のメロディがはっきりと波紋を見せて、色がついて………まるで手繰り寄せられた糸みたいに、すべてが交わった時…………俺は、気付いたら高嶺の花をつかんでいた。その時、初めて生きがいの研究において底知れない恐怖を感じたよ』
ラムが初めて見せた戸惑いがちな笑みに、凛はハッと驚いた。
血も涙もない悪魔だと思っていた。
蝮の処刑人と恐れられた残忍な祖父と同じく、人の命に関心などない冷酷な男なのだと。
だが今の彼は、人間の感情が渦巻くのと同じように、確かな変化を見せている。
闇に染まった悪魔にも、恐怖心はあるのだと、凛は生まれて初めて知った。
『非科学的な夢物語は信じない………そう思っていたけど、あの子の力は、現実にも証明されてしまった』
『出生が、関係しているのか?』
『分からない…………分かったとしてもあなたには言いませんよ』
皮肉ぶった言い方に、む、と凛は不貞腐れる。
『だけど………』
ラムは少し儚げに笑った。
『本当は………知っていたような気がした。あの姿を………どこかで、見たことがあるような気がした。あの歌に、懐かしい思い入れを感じた』
『なっ………』
『名もなき物語の、十人ぼっちは…………』
言い淀んだ唇は、しばし動きを止めて────絡まった糸が解けるみたいに、優美に綻びた。
『案外、幸せにしてるのかもね』
すっ、と立ち上がり、空になった缶コーヒーをゴミ箱に放り込むと、ラムは背を向けた。
『これは脅しです』
また、悪魔の声に戻った。
『あの子の力については他言無用。仮に言ったとしたら………あなたの大事なお嬢様の未来は保証しない』
振り向きざまに、ラムは刺すような眼差しを向けた。
『上等だ』
凛は鬼の眼光で答える。
『お嬢様は、私が命に代えてでも守り抜く。例え私が死んだとしても………怨霊になって不届き者の喉を裂いてやる』
ふはっ、と悪魔は吹き出した。
む、と凛はその後ろ姿を睨む。
最後に突きつける言葉は、用意したものでも衝動的なものでもなく、凛の抱えていた本音が言葉となって紡いだ。
『今回の件に関しては、永遠に感謝する…………明日にでも戦争が起き、お前たちと敵対することになろうが…………この恩は一生忘れない。ありがとう』
『それはどうも。クソ魔王の味方につく気は微塵もないんで、その心配はご無用ですけど…………一応、肝に銘じておきますよ』
ひらひらと手を振って、白衣の悪魔は歩き出した。
扉に手をかけた時に着信音が鳴り、歩きながらスマホを耳に当てる。
『もしもし、ミント? え? 兄さんが注射から逃げてる? 待ってて、今すぐ縛りに行くから。え? 泣いてる? じゃあそれ写真撮って送って。うん、うん、あ、そこに猿轡ある? ないならいいよ、俺持ってるから』
その物騒な会話を耳にし、凛は思った。
一瞬でも見直した自分が、バカだったと。




