第八十一話 扉のない部屋
温かい。
そこに足をついた時、率直に思った。
床も、壁も、天井も、一面ガラス張りされているが、扉も窓もない、入り口も出口も、目に見えない。
ヒーローは静かに歩いた。
くすくす、くすくす、忍び寄る小さな含み笑いは、不思議と不快感はなかった。
そのほんのり甘い声は、どこか聞き覚えがあって、耳にしっくりと馴染むのだ。
ふと、壁に行き止まる。
ガラスに映る自分の顔は、少しぼんやりしている。
夢で見るような、漠然とした風景だった。
ただ、純白の翼は音も気配も残さず消えていることが見て分かり、真面に映る傷まみれの自分は、紛うことなき中学生の少年、黒野 アイスケだと決然と名乗れる不可思議な高揚感に胸をくすぶられた。
そっと、壊れ物を扱うような手つきで、壁に触れる。
温かな空気を腹から吸い込んだ。
「ラララン ラララン ララランランランランランランラン」
壁に、大きな波紋が広がる。
濡れてもいないのに、水面を突いたような感触だった。
誰からつかまれることもなく、背中を押されるわけでもなく、ただ衝動のまま手が伸びて、水辺に身を投げるように壁をすり抜けた。
くすくす、くすくす、含み笑いが鮮明に聞こえる。
花の蜜のような、ほのかな甘い香りも充満していた。
見渡す限り────その人はいた。
あの子と同じ、亜麻色の髪をおさげにした、くるりんとまつ毛が長く、ぱっちり二重瞼の、大きなブラウンの瞳に、小さな桜色の唇の端麗な女性。
あの子と同じ、幼げで、優しげな微笑みを向けている。
右にも、左にも、上にも、一面、彼女の容姿で敷き詰めている。
「ここには、たくさんひまりちゃんのママがいるんだね」
星空を眺めるように、ゆっくりと視線を巡らせた。
「顔も、香りも、声もある。本当にいるみたいだ。こりゃあ、快適だ。籠りたくもなるよね」
ふふっ、と微笑む女性と目が合って、アイスケはにこりと笑い返した。
「ねえ、ひまりちゃん」
正面で蹲る少女に、アイスケは呼びかけた。
やっと、会えた。
ずっと、虚勢を張って無理に笑って涙を殺して隠し通していた、少女の真の姿に。




