第八十話 名もなき歌
『ユウキにいちゃん! またあのおはなしをよんで!』
『あはは、なもなきものがたり? アイちゃんはだいすきだもんね』
『うん! だいすき! それとね! おうたもうたって! てんしさまがうたってたおうた!』
『え〜? あれはすごくむかしのおときばなしだから、おうたまではおにいちゃんしらないよぉ〜』
『えーっ! でも、おれは、うたえるよぉ?』
『えっ?』
『たしかねっ、たしかねっ! こーんなおうただったっ!』
その時、兄はどんな顔をしていたのだろうか。
自分は何て口ずさんでいたのだろうか。
あの旋律は、どこから流れてきたのだろうか。
名もなき物語の、真実────
『お前は、知ってるんだよ』
そうだ。
瞳を閉じれば、闇の中から浮かんでくるんだ。
どこからともなく、ただ自分の心が、歌っているんだ。
今から、もう一度、蘇らせよう───頭の奥底で、長い眠りから、ゆっくりと、寝返り始めた、名もなき歌を。
「歌え 歌え」
奇異なメロディが、地から跳ねて天までなびくように弾んだ。
「夜半の嵐に打たれても
地獄の業火に飲まれても」
空が返事をするように、くすみない夜空の雲が、緩やかに開く。その隙間から、真夜中の色とは思えない、一筋の朱華色の光が差し込まれた。
「声枯れてなお 月乾いても 命の灯火消えうるまで
歌え 歌え」
光が鼓動し、少年を照らす。ふわ、ふわ、と、小さな背中から、純白の羽根が咲いた。
咲いて、咲いて、咲き溢れる。
「その歌声 天地を貫き 花咲かせた時
花の園まで 遊び戯れ」
咲いて、咲いて、咲き誇る。
「るるる るるる
るる るるるるるるるるるる
るるるる るるるるるるるるる
るるるるるるる るるるるるるる るるるるるるるるるるるるるる
るるる るるる
るるるるる るるるるるるるる るるるるるるるる
るるるるるるる るるるるるるる」
大きな翼を全開に広げ、少年は羽ばたいた。
白く、柔らかな羽を揺るがせ、ふわりと宙に舞い上がった。
淡い光を全身に浴びて、月でも太陽でもない、天の輝きに恵まれ、優しく煌めいた。
神樹の星々が、眩く閃いて、幹の中から流星群を突き上げ、天空へと誘った。
木々を伝って、林から十人の仲間が駆けつける。
皆、声すら失った。
それは、この世の常識を跡形もなく破壊する光景。
そこにいるのは、悪魔でも、人間でもなく、幼いようで、子供でもない。
例えるなら、まるで──────
「天使………の、詠唱…………」
月の瞳を奪った少女は、喘ぎながら、言葉を紡いだ。
悲鳴も、喉奥に凍りついて音にならない。
瞼が破れそうなほど目を瞠って、金縛りに誘発されたように尻餅をついたまま全身を震わせた。
その赤い月の中に眠る、奪われた少女が、金色の瞳を見開く。
『──様、──様』
遠い、遠い声。
無数の白い羽根が、花吹雪のように舞った。
『──様、──様』
(あ………俺、は)
『──様、家族になろう』
(ああ………)
ひらり、と一枚の羽根が頭上から降り落ち、頭頂部に掠った刹那────重い雷鳴が轟いた。
(あっ………あぁ………)
『天使様。家族になろう』
(にい、ちゃん………)
孤独な目をした、九人の悪魔。
愛に飢え、苦しみ、渇きに渇いた彼らを、無性に愛したくなった。救いたくなった。睨まれて、笑い返した。突き飛ばされて、抱きついた。罵声を浴びて、その唇にキスをした。何度も何度も、その寂しそうな背中を追いかけた。転んでも転んでも、痛みも吹き飛ばすくらいに立ち上がった。
氷が、少しずつ溶けるような────そんな表現がふさわしく。
彼らの顔は、初めての涙に濡れて、初めての笑みを覚えて、初めての熱を帯びて、優しく綻びていったのだ。
『天使様。家族になろうよ』
差し伸ばされた手は、震えていた。
初めての、怯えに染まった顔。
初めての、希望を見つけた顔。
初めての、愛情を求めた顔。
天界と地界の交わり。
甘い毒の果実をかじるような、禁断の愛と知っていた。されど、その手に惹かれた。共に生きたい、そう、心の底から思った。願った。恋に焦がれる乙女のように、愛の告白の響きに、ときめき、喜び、頷いた。異なる種族の瞳が、十の眼差しが、見つめ合って、束を結んだ。永遠を愛の欲に駆られ、伸ばし、その冷たい手を、握ったのだ。
刹那、天が割れた。空が雲ごと引き裂かれ、天地を貫く神樹が瞬き、死人のような凍てつく双眸の魔神が地へと降臨した。
夜半の嵐に飲み込まれ、地獄の業火に包まれて、血が、血が、血が、赤い、紅い、朱い、血が、踊り狂った。
光も闇も絶たれた血塗られた夜、やっと繋いだ家族の手は、力なくして地に落ちた。
(ぐぁぁぁぁぁぁああああああああああああ!!)
悲しい、哀しい、物語のループ。
頭の奥底に埋まった、呪われた、記憶のかけら。
こだまする泣き声。
遠い、遠い、泣き声。
疼き始める傷。
痛い、痛い、傷。
ぐちゃり、ぬちゃり、脳の髄が裂かれた。
じくじく、じくじく、胸を抉った。
苦しい。怖い。嫌いだ。ありがとう。大好き。ごめんなさい。助けられなくて、ごめんなさい。救えなくて、ごめんなさい。痛い、イタイ、いたいおもいをさせて、ごめんなさい。いたいのいたいの、とんでいかなくて、ごめんなさい。いっぱいいっぱい、かえってきて、ごめんなさい。いっぱいいっぱい、いたくさせて、ごめんなさい。いたいよぉって、いたいよぉっ、いたいよぉいたいよぉいたいよぉいたいよぉいたいよぉいたいよぉいたいよぉって、いっぱいいっぱい、泣かせちゃって、ごめんなさい。
おむねのどっくんどっくんのおと、
おおきなおおきなどっくんどっくんのおと、
いきたいって、いきたいっ! って、いきたいいきたいいぎだいよぉ! って、はじめてさけんだおおきなおと、
なみだのおと、
とまらせちゃって、ごめんなさい。
まもれなくて、ごめんなさい。
だからね、このおうた、なまえもないんだ。
ごめんなさい。
なまえをつけるのすら、こわかったんだ。
ごめんなさい。
えっと、えっと、って、かんがえたけど、
おくちから、ぶしゃっ、て、ちがでて、
のどがつぶれて、
ちをはきながら、ふりしぼったけど、
どんどん、どんどん、よわくなって、みえなくなって、いろがなくなって、ぐるってゆがんで、
いきるおとごと、きえちゃったんだ。
すえっこのいのち、すえっこって、いってくれた、みとめてくれた、じゅうにんめの、さいごの、いのち、きえちゃったんだ。
よわいよわいてんしさまで、ごめんなさい。
わるいわるいおとうとで、ごめんなさい。
にいちゃん、
ねえちゃん、
いたいの、いたいの、いたいの、いっぱい、あったね、いっぱい、さけんだね、ごめんなさい。
ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。
『──ちゃん。──ちゃん』
遠い、遠い、囁き声。
『アイちゃん アイちゃん』
とっても、綺麗な、囁き声。
(だ、れ)
その声が、ぽちゃん、と、泣いてる胸の真ん中に、しずくみたいに落ちた。
『アイちゃん』
(あ、い、ちゃん)
『アイちゃん』
(あい、ちゃん)
『アイちゃん』
(にい、ちゃん………?)
『うん、おにいちゃんだよ』
(にい、ちゃん……)
『そう、おにいちゃん』
(───、にいちゃん)
『ちがうよ、そのなまえは、もういないよ』
(いない……?)
『うん、もういないの』
(しんじゃっ、た……)
「しんでないよ」
声が、響く。
心の臓を、すっと、優しく、撫でる、一筋の、声が。
「おにいちゃんは、しんでないよ。ずっと、ずーっと、ここにいるよ。ここにいたんだよ」
(…………………………)
「本当は分かってたんでしょ? こわくて、こわくて、ぜんぶぜんぶ、わすれちゃったんだね?」
(…………………………)
「いいんだよ。わすれて、いいんだよ。なぁんにも、しらなくて、いいんだよ。ちっとも、くるしまなくて、いいんだよ。いたいいたいのなくて、いいんだよ。ぜんぶ、ぜーんぶ、いたいの、いたいの、おにいちゃんがもらってあげる」
(…………………………)
「おにいちゃん、いたくても、いいんだよ? いっぱいいっぱいいたいのあっても、ぜーんぜん、いいんだよ? だいじょうぶだよ?」
(…………………………)
「でもね、わすれないで。おにいちゃんのおなまえだけは、わすれないで。ねえ、いってごらん? おにいちゃんは、だあれ? さあ、いってごらん? おれのかわいいかわいい、おれのはつこいの────あいちゃん」
(ぁ、あ………)
「ねえ、あいちゃん?」
(ご、め……)
「あやまらなくて、いいんだよ?」
(こえ、が、でな……)
「こえにしなくても、いいんだよ?」
(あ、あ………おれ、は……)
「うん、わかってるよ」
ゆっくりと、ゆっくりと、声は、心臓から喉をなぞって、くすくすと笑う。
「おにいちゃんは、なーんでもしってるんだよ? だって、だってね、ほうら、アイちゃん、こっちをみてごらん」
その無邪気にキスする眼差しは──線を、しっかりと、引いて、
「うまれるまえからずっと、だいすきだよ」
(ゆうき、にいちゃん………)
「せいかい」
生気が、漲る、兄の声が、
いきてる、いきてる、おれの、おにいちゃんの声が、
欠けた思い出のピースが、やっと、やっと、はまった。
『……………ありがとう。アイスケくん』
満月の瞳の、あの子の声が、
優しい、優しい、あの子の深い声が──
穴の空いた胸に、抱き止めるように、ぴったりと、はまった。
その名が、はまった。
(……………あい、すけ)
『アイスケくんはアイスケくんです』
(お、れ、は………アイスケ)
ぽちゃん、ぽちゃん、と、声のしずくが、音色が、弾むように増えていく。
『やっぱりアイスケは甘えん坊だ〜』
『あんた末っ子で生まれてきて正解ね』
『加えて言うならバカで単純ですよ』
『子供のくせにおませな子だしねぇ』
『でもアイちゃんはとびっきり可愛いじゃん』
『確かに泣き顔ならそそるな』
『おいこらアイスケ、テメェ余計な手間かけさせまくって!! 一ヶ月パシリの刑だかんな!』
『お兄ちゃんの言うこと聞けよぉ〜! 聞いときゃいーことあんぞっ!』
『ねえアイちゃん、それが家族ってもんじゃないの?』
「そうそう、そうだよ、だから、そろそろ起き上がろうよ、アイちゃん?」
声が、水たまりみたいに、波紋を広げて、揺れ動いて───胸の真ん中に、大輪の花を一気に咲かせた。
瞳を見開くと、色の無くした世界が、ぐるん! と笑い飛ばすように、ひっくり返って、熱い吐息を漏らすように、視界が色付いた。
馬鹿みたいに混じり合った、バラバラの個性派すぎる色が、喧嘩し合い笑い合いまた殴り合う声が、孤独を忘れた九人ぼっちの生きた顔が、生き生きとしたイマが、輪になって、囲んでいた。
凍っていた灰色の心臓が、ばりん! と割れて、色が焼ける。
焼けて、焼けて、焦げて、黒い、黒い、真っ黒な、禍々しいほどの、黒き血の色が、灯った。
そうだ。
それが、選ばれた、魔王の子。
それが今の俺たち、黒野家だ。
前しか見ないで突っ走る、黒光りして突き進む、地獄の底を這い上がる弓矢の如く、最高に不吉で最強にハッピーな血肉を分け合った家族だ!!
「うぉぉぉおおおおおおあああああああああ!!」
痛い。熱い。胸が、ひりつく。冷たい殻が、割れて、散って、煮えて、真新しい心臓が、顔を出して、根から燃えて、燃えて、燃えて、燃え上がって、殻を爆破して! 黒炎の花が咲き誇る!!
熱い! 熱い! 熱い! 熱い!
今、この黒い心臓は生きているんだ!
天使も、悪魔も、兄ちゃんも、姉ちゃんも、
泣いて、笑って、キスして、死んで、
でも、もう一度、この優しい世界で────
生まれ変わって、血の色も変わって、
(みんな、また、会えたんだ)
血を吐いてもなお歌い続けた
天使の最期の祈りが響いて、
(また、家族になれたんだ!)
それはきっと、今宵奇跡の物語になるだろう!
だから────生きろ!!
腹いっぱいに息を吸え! 胸を撫で下ろして存分に吐け! 鼓動の音を打ち鳴らせ! うるさいくらいに響かせろ!!
生きろ。
生きろ生きろ生きろ生きろ生きろ生きろ!!
傷だらけの拳を握りしめた。
記憶なんて脳みそ逆さまにしてばら撒いてみろ。
胸を弄り回して抉ってみやがれ。
夜半の嵐よ真正面から来い。
どんな苦痛の渦に飲まれようが、この胸の真ん中に繋ぎ直した塊は、新しい闇の息吹は、消えない!!
もう死なない!
もう死なせない!
もう悲劇な結末は繰り返さない!
主人公は、俺たちだった。
十人ぼっちは、俺たち兄弟だった。
俺たちは確かにその狭い地獄に生きて、笑って、泣いて、愛して、神様の手をも振り払って、絶対の裁きを受けた。
だけど、そこにいた。
俺たちは、あの頃から、そこにいたんだ。
何もかも忘れたって、心のどこかでは繋がってた、記憶のかけら。
それが、大好きだった、物語の、大好きだった、本当の理由。
忘れかけてた、真実。
不思議な、懐かしさ。
泣き叫んだ、想い。
だけど────壊そう。
そんなもん、壊しちまおう!
悲劇な結末しかないルートなんて、そんなクソッたれな運命は、マジでつまんねえクソゲーだからぶっ壊す!!
マジで笑えねえ神ゲーだからぶっ壊す!!
そんならしくない生き様は、この黒血が漲る尻尾で、ぶち殺す!!
イマを、いまを、今を、進め!!
あの子の前に、影が落ちる。朦朧と、朦朧と、それでも僅かに唇を開こうと、生きようと動いている、あの子の前に! ひまわりのように笑っていた、その笑顔を殺されてしまった、あの子の前に!!
夢見る勇気をくれた、勇気の言葉をくれた、あの子の前に!! 立ち塞がった、黒き肉と紅き目の、憎い、憎い、ただ、ただ、邪魔くさい、毛むくじゃらの巨獣。
その咆哮の波動さえも、逆らって、むしろ鳥肌ごと武者震いに変えて、走って、走って、走って、尾を地に弾いて飛び上がって!
この巨なるケモノを、ちっぽけな主人公がぶちのめすんだと!!
自らの、チカラで、新しいページを開くんだと!!
白い羽を黒い血潮で掻き乱し、この血塗られた尾を天へ突き上げ、そのまま尻尾ビンタをぶちかます!!
ぶちゅりッ!! と、自慢の愛武器は仇敵の肉に食い込み、迷わず制裁の一撃を────振り落とす!!
「天使様なんてもういねえっ!! メンヘラな病み兄弟なんぞここにはいねえっ!! 新時代の主人公はぁッ!! このパーティーピーポーファミリーズだぁっ!!」
割れた肉片、鮮やかな血飛沫、目を瞠る家族、止まる満月の瞳。
これが────紛れもない、現実だ。
「もう天使様じゃない!! 俺はッ!! ヒーローだぁッ!!」
惜しむことなく羽を散らせ!! 瞼が擦り切れても視界を開け!! ただ一心に前へ突っ走れ!! 血も、涙も、いくらだって流していいから突き進め!!
「ぁ、い、す、け、く………」
見えた。
あの子の瞳の奥に浮かぶ、小さな泣き顔が。
だったらもう、この手を伸ばすだけだろうが!!
「ありったけの愛で助けるッ!! 俺はぁっ!! 黒野 アイスケだぁぁぁぁぁぁっ!!」
背後から、獣が鳴いた。
林から、乱れた足音が飛び散って────顔を後ろへ向けると──
「振り返るなァッ!!」
兄は吠えた。いつもの優美な面影を牙で引きちぎるように獣性剥き出しに吠えたけて、黒い獣の胴体を貫通させる人間離れの飛び膝蹴りをかまして。
「アイちゃんッ!! 行けッ!! アイちゃんにしかできないんだぁッ!!」
「ユウキ、にいちゃ……」
「行けッ!!」
「っ………」
ユウキの有無も言わせない吠え声に続いて、獣にはケダモノをと皮肉っぽく宣戦布告するように、ファミリーズの兄姉たちが軽い足取りで舞い降りて、背後に囲む魔獣の群れに重い鉄壁の如く立ち塞がった。
みんな、力も違って、顔も違って、性格なんててんでバラバラで、共通点といえば、汗だくで傷まみれのボロっちい勇姿。
心は一つなんて、クサイ台詞かもしれないけど、あの地獄の中で寄り添った十人ぼっちは、眼差しも血の色もまるで別人と化したのに、あの愛を乞うて伸ばした手は、無性に愛を求めた手は、優しく愛を育む手だけは、今、この黒い心臓を鷲掴みにして繋がってるんだ。
『生まれ変わっても、家族になろう』
(約束………守れたね)
小さな笑みがこぼれた。
だいすきな、おにいちゃんが、少しだけ、笑い返した。
だいすきな、おにいちゃんたちが、少しだけ、笑い返した。
綻びた、眼差しで、黙って、見つめ合った。
もう何も言わない。
言葉なんていらない。
口にしたら、きっと、また涙が溢れそうだから、キュッと唇を軽く噛んだ。
本当は、自分は、まだまだ、弱いから。
弱いんだって、知っている。
泣き虫だって、知っている。
何度も血を吐くほど、痛い思いをして、知っている。
でも、
自分にしか成せない試練が、待ち受けているのだから。
目の前に、ただ、壁があるのだから。
そう、泣いてばかりの天使は死んで!
もう、壁をぶち壊すだけの悪魔に成り果ててしまったのだから!
無防備な背中を散りゆく羽ごと悠々と見せて、最高に最強の家族に、命を託そう。
「いってきます」
今日だけは、そっぽを向いて挨拶をしよう。
信じよう。救ってくれた家族と、救いたいと誓ったあの子を。
擦りむいた足よ、進め。
一歩一歩、跪くあの子へと、瞳の奥でもがき苦しむあの子へと、このちっぽけな手を伸ばせ。
限界の、限界の限界のその先まで、伸ばし切れ!
月の瞳の奥に、最後の壁が待っている!
「はぁっ!」
小さなヒーローは、舞い散る羽を掻き分け、手を振りかざす。
かざされた少女の二色の月から、乱反射した涙にも似た白い底光りが這い上がった。光は緩徐に散乱し、ゆっくりと両開いて、まっさらな光の扉が解き放たれた。
光の中には、爛々と輝く無数の星屑が散らばっている。ちらちら点滅しながら、白い川の上を流星が走って、そのたびに全身を軽く撫でて、くすぐるように星は踊った。
闇に属した愛のヒーローは、そのいたずらな光を、きれいだ、と口に零した。
瞼に焼きつけた少女の光に、ありがとう、と微笑んだ。
心と心臓を一緒になぞって、沸き上がる生命の熱に、やってやる、と宣言した。
「俺は、ヒーローだ」
何度だって呟こう。きみに嫌われたって、この狂詩曲を紡いでみせよう。
「俺は、ヒーローになったんだ」
光を向いて頷き、くすんだ瑠璃の大地を蹴り上げて、白い扉の奥へと飛び込んだ。
(この胸の高鳴り──今なら分かる)
この感情に名をつけるなら、胸にうるさいくらいに鳴り響く音に、名前をつけるなら────それは、神も知らぬ、未知なる運命。




