第六十五話 ねむれ、よい子よ
半透明のガラスの部屋で、蹲る一人の少女。
窓も、扉もない。
人も、悪魔も、獣もいない。
ガラス一面に映る母だけで、ありふれている。
ひまり。ひまり。
名前を呼んで。
ひまり。ひまり。
もっと呼んで。
ひまり。ひまり。
どうか、消えないで。
ひまり。ひまり。
このままで、いて。
ひまりの名前は、ママがくれた光。
ママの光は、ひまりの命。
ひまりが左手を伸ばせば、ママが右手を伸ばすように。
ママはひまりの鏡だから。
ここは、ママとひまりだけの鏡だから。
だから知らない。何も知らない。ガラス越しの、部屋の外なんて────知らない。
『俺はファミリーズのリーダー、──────。きみの───は、何て言うの?』
知らない。
『どんな手も救ってみせる! 俺たち────の、ありったけの──で!!』
そんなの、知らない。
『お気になさらないでください。お嬢様がご無事で──────ことが何より────です』
怖い。
『あの時のきみの目は──────戦場を駆ける───みたいに見えた!』
違う。
『例えこの先一生、──────に恨まれても…………──────を縛るものは…………どんな────しい鎖だって、斬ってみせます」
やめて!
ノイズを拾って這い寄る声が、怖い。
この温かな部屋から引きずり出されそうで、怖い。
怖い。うるさい。寒い。痛い。たすけて。
『誰に?』
たすけて。
『誰に、助けてほしいの?』
傷だらけの手を伸ばした少年が、ガラスに映った。
「あ………」
『ひまり』
だけどすぐに、母の名を呼ぶ声が降ってきて、少年の歯を見せた笑顔が微細に粉砕した。原形も辿れないほど、粉々の塵となって、パラパラと足元に散らばった。
これは、だれ。
知らない。分からない。
頭が、真っ白になって、うっすら浮かぶシルエットも、白く塗り潰されて、見えなくなって。ただ視界が、母で埋め尽した。
「ママ…………」
塵の上を踏んで、歩む。
「ママ…………」
『おいで、ひまり』
ガラスをすり抜けて差し伸べられた、その愛おしい手に惹きつけられて、触れた瞬間───
ふわっ、とサテンのベールに包まれたような、心地よい温もりが体を覆った。
ねむれ。ねむれ。よい子よ。母の胸にねむれ。
母の腕に抱かれて、母の心音を聴いて、母の子守唄で瞼がゆっくりと落ちる。
おやすみ、と額に柔らかな唇が触れた。




