第三十七話 母子の涙
母の瞳に映る息子は、母を見ていなかった。
殺す。ただそれだけの刃物の如く感情に塗り潰され、その真紅の瞳は誰も見ようとしていなかった。
『お母さん、僕私立の中学に行きたい! いっぱい勉強して、将来はお医者さんになるんだ!』
昨日のことのような日の、幼い息子のいきいきとした声が蘇る。
『お母さん笑わないでよ! 僕は本気だよ! もうっ! どうして笑うんだよ!』
「純…………」
『お母さん…………僕、サッカー部に入りたいな。エースに………なれるかなぁ? あーっ! また笑う!』
「純…………」
『お母さん、お父さんにはまだ内緒だよ! もっと成績上がってからじゃないと、恥ずかしいし………えーっ! 言っちゃったの!? もうお母さん〜〜!!』
「純…………」
『お母さん!! 受かった!! 受かったよぉ!! 僕の番号があったよ!! ほらっ! やったぁ!! やったぁ!!』
「純…………」
『お母さん、ありがとう。あの、えっと………』
「殺す!!」
『大好きだよ!!』
「純!!」
純だ。そこにいるのは、紛れもなく純だ。あの生真面目で努力家で、臆病なくせに強がりで怒りっぽい、自分が産んだたった一人の最愛の息子、純なのだ。そう確信した時、母の身体は動いて、青く燃える息子を強く抱きしめた。
「純! 辛かったね! 苦しかったね! お母さん何の力にもなれなくてごめんね! 純、ごめんね! ごめんね!」
殺意にもがいてあがく息子を、母は臆することなく抱きしめた。
周囲が大声で呼び止めても、母は一切なびかなかった。
青瘴気に右半身がジュウ、と焼かれ、群青の傷に体が蝕まれながらも、母は手を離さなかった。
「もう大丈夫だからね! お母さんがいるからね! お母さんはずっとあなたの味方だから! 純! もう怖がらなくていいのよ! お母さんがいる! お母さんがずっとそばにいる!!」
流れる涙は、痛みでも恐怖でもなく、溢れ出る愛情。
「ねえ、純。覚えてる? あなたがお医者さんになりたいっていった日のこと。お母さん、嬉しくて嬉しくて笑っちゃったら、笑わないでって、僕は本気なんだって、小さなあなたに怒られちゃったのよ?」
目が潤みながらも唇は綻び、母は息子に焼けた頬を擦り付けた。
「でも純、笑ってた。キラキラした目で、幸せいっぱいに笑ってた。お母さん、それが一番嬉しかったの。それだけでもう十分だったの。他に何もいらないって、思えたの」
「こ、ろ、す。あ」
純の吐き出す唸り声が弱小する。
「あ、あぁ…………」
母の涙を頬に浴びた純は、壊れた傀儡人形のようにカクカクと全身が痙攣した。
あれほど燃え盛っていた青瘴気が、次第に虚空へ吸収されていくように鎮圧し始めた。
周囲の少年少女は言葉も失い、目を見開いて母子を見た。
まるで二人だけの世界に閉じこもった、母子を。
「純、お母さん、ね………」
「ぁ、あぁあ」
「純の、笑顔が見たい、な。あの時、みたいな、純の、え、がお………」
パタリ、と母は微笑みながら、地へ伏せた。
「梶山さん!!」
アイスケは言葉より前に走り出した。
自ら青瘴気を浴びた梶山さんの右半身の皮膚は、おびただしいほど群青の痣に覆われていた。
かすかな呼吸は聞こえるが、いつ消えてもおかしくないほど弱すぎる、虫の息だった。
一方で少年も、殺意から一変して苦痛に呻いているようだった。
言葉にもならないうわ言を発して、焦点の合ってない目は涙に濡れていた。
母の涙が、彼の涙か。少なからず、泣いているように見えた。
きっと、この禍々しい青い瘴気に一番苦しめられているのは、少年自身なのかもしれない。
「アイちゃんっ! あんまり動いちゃダメだよ! アイちゃんも魔障を受けたんだから!」
足がふらついたアイスケを、ユウキは抱き止めるようにして支えた。
だけど、アイスケは兄の腕を肘で突き放して、自力で立ち上がる。
音を上げそうになる腹の青い傷を爪でひっかいて、無理やり痛みで全身の神経を叩き起こす。
『俺が、俺たちが、絶対に救ってみせます。あなたたちを』
数十分前の己の言葉と、この衰弱した母子の姿を照らし合わせた。
(俺は、一体、何をやってんだ…………)
ただ己の無力さを、この現実を、ぶち殺したいほど恥じた。
へたりそうになる体を、殴り殺したいほど恥じた。
痺れて感覚が鈍った指先を、弱々しく握り込んで、緩い拳を震わせる。
「ひまりちゃん………教えてくれ」
アイスケは少女に問いかけた。
「あの青瘴気は、どうやったら消せる………?」
「え………」
「分かることだけでいいっ! 教えてくれ!」
「そんな………消すなんて、無理です! だって、だってあれは」
「シャドウ、だからね」
その声に振り返った時、不思議に眩しいと思った。
「ラム兄ちゃん…………」
光のない淀んだ眼差しの悪魔を見て、確かに、そう思ったのだ。




