第三十四話 重なる泣き声
閉ざされたドアを前に、アイスケはゆっくりと深呼吸をした。
母親の梶山さんは一度ノックして、「ファミリーズの方がいらしているわよ」と一声かけたが、またいつもの如く無反応のようで、ため息混じりで一階へ降りていった。
ここからは、ファミリーズだけの闘いになる。
「初めまして、純くん。ファミリーズのリーダー、黒野 アイスケです」
アイスケは明るく、はきはきと、それでも圧を感じさせないように優しく、ドア越しに挨拶をした。
「兄のラムがお世話になったみたいで………ごめんねぇ〜、あいつ見た目と趣味とその他もろもろ怖いけど、一応良い先生やってるんで…………今日はその兄に、純くんを紹介されました。突然でビックリさせちゃったね。本当にごめんなさい」
返事はない。
だけど、かすかに聞こえる。
母親よりもずっとか細く、短く、不安定な呼吸が。
アイスケは滲み出る手汗ごと握りしめた。
「お母さんから、きみのことを聞きました。俺は、すっごい悔しい気持ちになった。きみをいじめてたヤツらに対する怒りが、押し殺せない。許せないし、納得できない。殴れるならそいつらをぶん殴りたい!………そして何より、きみのお母さんと、きみが、そんなヤツらのせいで、ずっと光のない世界で苦しんでいることも」
ひっ、と少年の嗚咽が聞こえた。
顔が見えなくとも、彼は確かに、言葉を聞いている。
「でもそんな苦しみは、今日で終わらせよう」
終止符を打つ。
その覚悟が、そう言い切る自信が、アイスケの心に宿った。
だから、もう迷いはなかった。
「……うん、でしょ………?」
「!」
ほんの一瞬だけ聞こえた。少年の、声変わりもまだ迎えていない、あどけなく、やや高い声が。
「………外に出ろって、言うんでしょ…………!? お母さんも、ラム先生も、君だって………本当はこんな僕を、恥ずかしいって、思ってるんでしょ………!?」
「そんなこと!」
「思ってるんだよっ!! みんな上辺では励ますようなこというけどっ! 本当は呆れてるんだ! 小学校から六年間、塾に通わせてもらって、中学に入ったら部活でエースになりたいからって、有名なサッカークラブまで入って、親にたくさんお金使わせて、体の弱いお母さんまで働かせて、それで受験に成功して憧れの中学に入って、親も親戚も友達もみんな応援と期待でいっぱいでこれからだって時に…………僕は負けたッ!! たかが周りの冷たい視線や、どうでもいい反応に! くだらないイタズラや子供じみた嫌がらせに…………たったそれだけの些細な変化に!! 僕は怖気付いて負けたんだッ!! 何かも捨てて逃げたんだッ!! 必死に築き上げた居場所を!! 僕の弱さがぶち壊したんだッ!!」
少年は叫んだ。
礼儀と自尊の皮も剥ぎ取って、吠えたける獣性を剥き出しに叫んだ。
その声色は、怒りすら超えた、憎悪に燃え上がるような──────いや、少し違う。
彼は、自分に叫んでいるんだ。
まるで懺悔する罪人のように、己に訴えかけているんだ。
「僕がこうなってから、お母さんは怖いくらい、いつも以上に優しく接してくれた。無口で仕事人間だって言われるお父さんまで、毎日ビデオ通話でたくさん話してくれた。お母さんも、お父さんも、ラム先生も、みんなが言った。大丈夫だよって、自分を責めちゃダメだって、もっと楽しんでいいんだよっ、て………なんで? そんな、こと……できるわけないだろぉッ!?」
少年の金切り声に近い叫びに、五人はびくりと慄いた。
「大丈夫なわけがない!! 僕を責めなきゃこの消えようのない怒りはどこにぶつける!? 楽しめるわけなんてないよぉ!! だって何もかも無駄になっちゃったんだよ!? 勉強も、サッカーも、学校も、夢に描いた将来も、僕には何もない。何もできなくなった!! ご飯を食べたら吐いちゃうし、窓を閉めても聞こえる子供たちの笑い声がまるで僕を嘲笑うように聞こえて、夜になっても眠れない。あの無力だった僕を思い出して、あの嫌な視線を思い出して、ゴミ箱に捨てられたお弁当箱を思い出して、怖くて、怖くて、怖くて、今も怖くて、でも…………本当、はっ、悔し、ぐで、情け、なぐで………かわり、だいのにっ、できなっ…………ヒック、うぅっ 何で、僕は………」
頭を殴られるような衝撃が走って、フラッシュバックした。
ずっと見ないふりしていた、頭の隅に置いやった過去が、あの時とよく似た少年の咽び泣きによって。
そこは、舞台。
客席などない、狭くて飾り気もない、まだ表に出る前の、未来のスターを生む修練の場。
アイスケは、物心ついた頃からそこにいた。
彼にとって、そこの稽古は子供の戯れに過ぎなかった。
彼の歌声は、天使のようだと称賛された。彼の踊りは、誰もが目を引くほど魅了するものだった。彼の演技は、大人の凍った心も溶かして熱を与えた。
彼はその道の才が溢れすぎていた。
ただ無心で戯れるように、あらゆる課題をこともなげにやってのけた。
君には約束された将来がある。
当時はよく分からなかったけど、そこの偉い人たちは目を輝かせながらそう言っていた。
だけど、弾むように進むうちに、聞こえ始めた。
歌いながら、踊りながら、役に溶け込んでいる背後から這い寄る耳障りな声が。
悪魔のくせに。
悪魔がスターになれるわけがない!
許せない。
憎たらしい。
不愉快だ。
虫唾が走る。
あれは、人殺しの子だ!
悪魔。悪魔。悪魔。悪魔。悪魔。悪魔。悪魔。悪魔。悪魔。悪魔。
悪魔は出て行け!!
声が、震えた。足が、すくんだ。笑みが、引きつった。呼吸が、乱れた。
耳を塞いでも、声は消えなかった。ずっと頭の中で呪いのように響いた。消えない傷跡が、痛くて、痛くて、痛くて、幼い心には抱えきれないほど痛すぎて、
オーディションの前日、アイスケは舞台をめちゃくちゃに荒らして逃げた。
あの時、確かに自分は泣いていた。
まだ未発達な情緒はいとも簡単に崩壊して、叫びながら、罵りながら、泣きじゃくった。
どうして自分は悪魔なんだ。どうして悪魔は駄目なんだ。神に嘆くように、天に向かって泣き叫んだ。声が枯れるまで泣き喚いた。
それでも、もはや命の灯火と化した夢は、消えることはなかった。
ただ、実現する居場所を失った。
幼心でも分かったのは、約束された将来なんて、簡単に砕け散ってしまうものなんだ、と。




