第二十一話 鬼畜王子の逆鱗
男には、意地でも負けられない戦いがある。
それは必ずしも、誇らしげな勝利ではない。
卑劣で、幼稚で、馬鹿げていても、やられっ放しでは終わらせたくない。
やられたら、それ以上にやり返す。
その命懸けの抵抗こそが、面白い生き方。
面白けば、楽しければ、もうそれだけで一つ勝った気になれる。
黒野 アイスケというのは、いかなる時も遊び心を忘れない、そんな少年だった。
無敗の鬼畜王子も、ある意味一つ負けたということだ。
顔を伏せて、わなわなと小刻みに震え、こめかみに癇癪筋を走らせ、腕に力を込め、弟の喉を潰し、
「あ、れ。マジギレっすか………?」
「ぶっ殺す」
「ガアアアアアアアアアアアアッ!!」
ユウキの全身にライゴウが感電し、体が千切れんばかりの叫び声を上げて、痙攣した手足が空気を掻き回すようにあがいた。
「ユウキ兄ちゃん!!」
一瞬で意識を奪い取ると、腕からすり抜け、焼け焦げた床に力なく倒れ込んだ。
ゆらり、と顔を上げたバニラは、赤黒い血色の目を開眼し、そこには憤怒や憎悪をさえも超えた、殺意の一色に染まり切っていた。
そして、手加減という健全な言葉で抑えていた悪魔の風貌が剥き出しになる。
紫黒の火花と瘴気が加減など忘れて身体から解き放っていた。
「ひ、ぃ」
殺意の視線は、末っ子ただ一人に向けられていた。
屍のように転がるユウキを蹴り飛ばして、鬼畜王子は歩み出す。
一歩踏むたびに、床が放電して焦がされていく。
アイスケは生まれたての小鹿のように震える足で、後ずさる。だが、すぐ後ろの壁で行き止まった。
大悪魔は地獄へと導く足を止めない。
ピロロン、とコミカルな効果音が、殺伐とした空気に飛び込んだ。
「ロミオ十二号…………!」
ロボット掃除機が、まるでアイスケを庇うように二人の間に這い寄ったのだ。
モーター音を立てて、ブラシを回転させながら、バニラの足元に寄る。
あろうことか、ガンッ、ガンッ、と、恐れもなく、鬼畜王子のつま先に体当たりしていくのだ。それも、何度も。
「ロミオ十二号!! やめろ!!」
アイスケの叫びも聞かずに、ロボット掃除機、いやロミオ十二号は体当たりを続ける。
「もういい! もういいんだ!! 俺が悪かったから…………ユウキ兄ちゃんの次に、お前まで、体を張る必要なんてないんだよっ!!」
それでも、ロミオ十二号は体当たりを続ける。
「っぜぇな………掃除もマトモにできねーのか」
バニラは汚いものを見るような目で見下ろし、躊躇もなく蹴り飛ばした。
「ロミオ十二号っ!!」
逆さまになって床に転げ落ちたロミオ十二号。
「掃除機がゴミに成り果てるとはな…………」
「ロ、ロミオ十二号はゴミじゃねえ!! 俺たちの家族だっ!!」
「はぁ? 頭沸いてやがんなぁ。役割を果たせねえモノはただのゴミなんだよ。潰すなり燃やすなり処分するしかねーが…………」
にやり、とバニラは悪どい笑みを浮かべる。
「そうだな。コイツには、悪ガキが二度と逆らえねーように躾の見せしめになってもらうか…………」
「や、やめろぉ!!」
バニラのツノから電流が走ると、ゴゴゴ、と空が鳴く音が聞こえた。
ピロロン、ピロロン、と、鬼畜王子から死刑執行の合図が出されているというのに、ロミオ十二号は、戯れるように音を鳴らし続けた。
「ロミオ十二号………お前…………」
まるで、涙目のアイスケを励ますように、そして、別れを告げるように。
ずっとずっと、音は鳴り続けた。
「さあ、躾の時間だ」
鬼畜の中の鬼畜王子が、足を踏み鳴らす。
刹那、漆黒の柱が天から振り落とされた。
遅れて、根こそぎ掻っ攫っていくような雷鳴が響き渡る。
まさに、瞬殺だった。
天井どころか屋根も貫通し、床には巨大な禍々しい焼け跡が広がっている。
「ロミオ十二号──────────っ!!」
ロミオ十二号は、原型をとどめない消し炭になった。
アイスケは糸を切られた操り人形のように、両足を折って膝をついた。
ロミオ十二号。
彼は半年前、野獣双子のサッカーボールとなってこの世を去った十一号の次に、我が家にやって来たお掃除ロボット。
彼はよく、家具にガンガン衝突するだけのポンコツだった。
彼は一ヶ月経っても、間取りを覚えず同じ場所を往復するだけのポンコツだった。
彼は三ヶ月経っても、ソファと壁の間に挟まって遭難するポンコツだった。
うるさい、面倒くさい、不良品、金返せ。兄姉は罵る言葉ばかりかけた。
それでも、彼は我が家の汚れた床を掃除し続けた。もう汚れてもない同じ場所も掃除し続けた。
彼はゴミには気付かないが、人の気配にはよく気付いた。
アイスケが落ち込んだ様子で膝を抱えていると、一直線に床を這い寄ってきて、ポロロンと可愛い効果音と、ぴかぴかランプを点滅させて必死に慰めているようだった。
アイスケがただいまと言うと、ピロピロと笑うように音を出して、返事をしてくれた。
アイスケが歌いながら歩く後ろを、犬のように追いかけてはやっぱり最後はガンッ、と壁に衝突するポンコツだった。
ポンコツでも、家族だった。
ホコリだらけでも、嬉しかった。
今度こそ、大切にしようと、ケダモノの兄姉から守り抜こうと、そう思っていたのに。
「ロミオ十二号…………ごめんなぁ………ごめんなぁ」
床に大粒の涙が落ちて、小さな水たまりを作る。
悔やんでも、もう帰ってこない。
ロミオ十二号は最後までアイスケを慰め、跡形もなく消えてしまったのだ。
「たかがゴミの始末で泣くのかよ…………うちのおチビは泣き虫でちゅねぇ〜」
冷たい声に、覆い被さる影。
見上げると、そこには真っ黒の瘴気に包まれ目だけ紅く光る大悪魔。
アイスケは魚みたいにぱくぱく口を開くが、恐怖のあまり声が出ない。
涙が蛇口の水のように流れて、全身がビクビクと震え慄く。
そんな末っ子の醜態を見て、鬼畜王子は口だけ嗤った。
「いつもの悪ふざけならそのクソ可愛い泣き顔で足でも舐めりゃ許してやらんこともないがな……………俺を欺いたうえにコレクションを壊した罪は重罪だぜ? これが魔界の下僕なら拷問処刑でミンチにして魔獣の餌だぞボケェ。そこを、俺の可愛い可愛い弟に免じて、ちょいと強めなビリビリの刑に超減刑してやんだよ。優しいお兄ちゃんに感謝しな」
「っ!」
「おい? ピーピー泣いてねーで謝罪の一つでもしやがれクソチビィ!!」
「いぎゃっ!」
ガッ! と髪を壁に縫い付けるように足で踏まれ、突っ張るような頭痛が襲う。
「うぅっ! あぁっ! いぎっ! いぃっ!」
ピリピリと走る静電気に、体が跳ねながら泣き叫んだ。
「情けねえなあ、たかが三千ボルトでへばってんじゃねーよ…………ディアボロスの名が泣くぜ?」
「うぅ…………うぐっ」
「テメーはあぐあぐ赤ん坊みてーに泣くしか能がねーのか? 何ならオムツつけてケツからショートさせて豪快にお漏らししてみるかァ!? あァ!?」
「ひぃっ!」
謝りたい。もうプライドなんか捨ててもいいから、許しを乞いたい。だけど、声が上手く出ない。出そうと思うほど、喉が震えて、絞り出せないのだ。
「ちょっとあり得ないんだけど!?」
「わ〜っ! お星様が見える〜っ!」
「男ってマジでバカ!」
二階の断崖から、ココロとユメカが顔を覗かせる。落雷のせいで屋根に巨大な穴が空き、満天の星が浮かんで見えた。
「ひゃっはァー!! 喧嘩か? 混ぜろ混ぜろぉ!!」
「バカコウガ! 火に油注ぐ真似すんな! 家が崩壊すんだろーがッ」
「もう崩壊してね?」
「まだギリ寝れる!」
双子が断崖から飛び降りてくる。
「ねえ何やらかしてんの?」
「ああっ、新鮮な空気………」
一階のドアを蹴り開けた白衣のラムと、その横、ジャラジャラと鎖で椅子に縛られそのまま持ち上げられた真っ青な顔のベリー。
いち早く状況を把握したラムは、バニラの背中をまっすぐと睨みつけた。
「バニラ。そんなに遊びたいならお兄ちゃんが相手になるよ? 言っとくけど、お前への不敬罪より、弟への虐待の方がよっぽど重罪だからね?」
「お、お兄ちゃんへの虐待は…………罪に、ならないんですかぁ? うぇっ、はきそ……」
「タラシ兄さんはちょっと黙ってて。どうせ勝てっこないんだから」
「うっ」
月明かりが照らすリビングに、兄弟全員が集合した。
火傷だらけの体で横たわるユウキと、泣きべそ顔で縮こまるアイスケを見ては、誰もがこの悪状況を理解してしまう。
皆、四男のバニラを刺すような目で見た。
「おいおい、最初に吹っかけてきたのはこのマセガキだぜ? しかも俺のコレクションまでぶっ壊されたってのに…………何だぁ? この悪人を見るようなクソ苛立つ視線は」
バチン、と火花が飛ぶと同時に、バニラのこめかみの血管がブチ切れる。
「いいぜ来いよ三下どもが。全員まとめて黒焦げに料理してやる」
鳥の断末魔のような音が鳴り響き、浮いた髪から紫黒のスパークが弾けた。
さらに皮膚を破って爪から滲み出た黒血が、十本のワイヤーとなって、綱火のようにライゴウが纏わりつき、引き裂かんばかりに両手を振り上げる。
「どいつもこいつもうッぜぇんだよ失せろボケェ!!」
「バニちゃん、メッ」
大悪魔の瞬殺劇が、フリーズした。
ワイヤーが融解し、形ない血溜まりに成り果てる。盛んな火花が電池の切れたスタンガンのように虚しく消失した。
家を崩壊させ、弟を嬲り、兄弟全員八つ裂きにしようとした鬼畜の王子の、その噴火した殺意が、一瞬で凍りつけられた。
彼の年子の兄、三男の、ミントの声によって。
「それ以上はダメ。家もなくなっちゃうし、みんな死んじゃうよ。それで一番悲しいのはバニちゃんでしょ?」
焼け焦げた地の上を、ミントは臆することなく歩んでゆく。
「悔しかったね。腹が立ったね。バニちゃんの大好きなコレクションだもんね。でも、ゲームならまた買えるよ? データが残ってたわけでもないから、ちょっと待つだけの辛抱だよ」
バニラの目前まで歩み寄ったミントは、血に飢えた目の弟を見て、にっこりと微笑む。
赤ん坊に触れるような優しい手つきで、そっと銀の髪を撫で、牙が覗く唇に、包み込むようなキスをした。
「バニちゃんはとってもいい子。だから、もうおしまいできるよね?」
子供をあやすような言い振りで、ミントは溶けてしまいそうなほど儚げに、それでも愛おしげに瞳を細めて笑う。
「……………………」
まさに、呆気なく、さらさらと砂が散るように、大悪魔はツノも牙も静かに消散させた。
今の彼は、悪魔でも、鬼畜王子でもなく、ただ兄に愛でられる幼い弟のようだった。
紫紺の瞳が、いたいけな眼差しで兄を見上げ、退屈そうに呟いたのだ。
「腹減った」




