幕間㉜ 佐伯、一本の電話をかける
日曜日の朝、佐伯正は、自宅のダイニングテーブルの前で、四十分、座っていた。
テーブルの上には、スマートフォンと、一枚のメモ用紙。
メモ用紙には、昨夜、東雲台駅の貼り紙から書き写した、携帯電話の番号。
その下に、ボールペンで、びっしりと、文字が書き込まれていた。
――突然のお電話、失礼いたします。
――私、佐伯と申します。
――娘さんのことで、お伝えしたいことがあり、お電話いたしました。
――決して、怪しい者ではございません。
最後の一行を、佐伯は、ボールペンで二重線を引いて消した。
怪しい者ではない、と言う者ほど、怪しい。部下にも、取引先にも、そう教えてきた。
「……お父さん、何してんの」
台所から、高校二年生の娘が、怪訝そうな顔で覗き込んでいた。
「ちょっと、大事な電話をな」
「日曜の朝に? 仕事?」
「仕事じゃない」
娘は、テーブルの上のメモ用紙を、ちらりと見た。
それから、父親の顔を見た。
「お父さん、最近、変だよね。夜中に、ずっとスマホ見てるし。昨日も、終電で帰ってきたし」
「……すまん」
「別に、いいけど」
娘は、冷蔵庫から牛乳を出して、コップに注いだ。
それから、少しだけ、ためらってから、言った。
「でも、最近のお父さん、前より、ちょっと楽しそう」
佐伯は、顔を上げた。
娘は、もう、牛乳を持って、リビングに行ってしまっていた。
◆ ◆ ◆
掲示板を見つけたのは、偶然だった。
残業続きの、終電の電車の中。
眠れずに、スマートフォンで、何とはなしに掲示板を眺めていた時。
――【悲報】勇者が殺せない件
なりきりか、創作だろう、と思った。
でも、読んでしまった。
魔王を名乗る誰かが、毒が効かない、魔獣が手懐けられた、と大真面目に嘆いていた。
胃が弱い、と書いてあった。
三百年、一人で国を治めてきた、と。
佐伯は、電車の中で、自分の胃を押さえていた。
同じだ、と思った。
上からは数字を求められ、下からは人手不足を訴えられる。
誰にも相談できず、誰にも弱音を吐けず、胃薬を飲みながら、毎日、書類と向き合う。
家族とは、ろくに話もしない。
魔王は、異界の者たちに、相談していた。
草とは何だ、と聞きながら。
佐伯は、気がつくと、書き込んでいた。
――横から失礼します。過去スレを、最初から読ませていただきました。
あれから、もう、何か月も経つ。
◆ ◆ ◆
午前十時。
佐伯は、スマートフォンを、手に取った。
メモ用紙の番号を、一つずつ、押していく。
指が、少し、震えていた。
呼び出し音が、鳴った。
一回。二回。三回。
出ないかもしれない、と思った。
知らない番号からの電話だ。
一年間、貼り紙を貼り続けてきた家族のもとには、
きっと、心ない悪戯の電話も、かかってきたことだろう。
四回目の呼び出し音の途中で、音が、途切れた。
「……はい」
女性の声だった。少し、かすれた。
警戒するような、それでいて、何かを待っているような。
佐伯は、メモ用紙を見た。
書いてきた言葉が、全部、頭から抜け落ちていた。
「……あの」
「はい」
「突然、お電話して、申し訳ありません。私、佐伯と申します」
「……はい」
「東雲台駅の、貼り紙を、拝見しまして」
電話の向こうで、息を呑む音がした。
佐伯は、目を閉じた。
課長として、何百回も、謝罪の電話をかけてきた。
取引先に。部下の家族に。上司に。言葉を選ぶのは、得意なつもりだった。
でも、今は、選べなかった。選ばずに、一番大事なことだけを、言うことにした。
「あかりさんは、ご無事です」
電話の向こうが、静まり返った。
「元気で、いらっしゃいます。
……今、ちゃんと、ご飯を食べて、お仕事をして、仲間と、笑っていらっしゃいます」
長い、長い、沈黙。
それから、電話の向こうで、何かが、崩れ落ちるような音がした。
「……あかりが」
震える声だった。
「あかりが、生きてるんですか」
「はい」
「どこに。どこにいるんですか。あの子は、今、どこに」
佐伯は、一瞬、言葉に詰まった。
異世界です、とは、言えなかった。
言っても、信じてもらえない。それどころか、悪戯だと思われて、切られてしまうかもしれない。
「……とても、遠いところです。すぐには、帰ってこられない場所です」
「遠いところ……」
「でも、あかりさんは、帰るつもりでいらっしゃいます。
今、帰り道を、皆で、探しているところです。
私も、その手伝いを、させていただいています」
電話の向こうから、嗚咽が聞こえた。
佐伯は、何も言わずに、待った。
◆ ◆ ◆
どれくらい、そうしていたか分からない。
やがて、電話の向こうの声が、いくらか、落ち着いた。
「……佐伯さん、とおっしゃいましたか」
「はい」
「あなたは、あかりと、話をしたんですか」
「直接では、ありません。……手紙のような、もので」
「あの子は、何か、言っていましたか」
佐伯は、目を閉じた。
昨夜の、掲示板の書き込みを、思い出していた。
――驚かせないように。……できれば、私が、元気でいるって、それだけでも。
それから、もっと前の、書き込みも。
――お母さんに、会いたい。
――桜、見たい。
「……お母様に、会いたい、と」
佐伯は、静かに言った。
「それから、貼り紙の、お母様の手書きの文字を、読まれたそうです。
どこにいても、いいから、元気でいてね、と。
……ありがとう、と、伝えてほしいと」
電話の向こうで、また、泣き声が聞こえた。
今度は、さっきとは、少し違う泣き声だった。
◆ ◆ ◆
電話を切ったのは、一時間後だった。
白石あかりの母親は、最後に、こう言った。
――信じられない話だと、思います。
でも、あなたの声を聞いていたら、嘘を言っている人じゃないって、分かりました。
――一度、会いに来ていただけませんか。
あかりの話を、もっと、聞かせてください。
そして、住所を、教えてくれた。
長野の、山あいの、小さな町だった。
佐伯は、スマートフォンを、テーブルに置いた。
メモ用紙の、書き込みだらけの文字が、涙で、少し滲んでいた。
いつの間にか、自分も、泣いていたらしい。
「……お父さん?」
リビングから、娘が、顔を覗かせていた。
「泣いてるの?」
佐伯は、眼鏡を外して、目元を拭った。
「……なあ」
「なに」
「今度の休み、どこか、行くか。二人で。お母さんも、誘って」
娘は、目を丸くした。
「……え、なに急に。気持ち悪」
そう言いながら、娘は、少しだけ、嬉しそうな顔をしていた。
佐伯は、スマートフォンを手に取って、異界掲示板を開いた。
61:◆PDCAおじさん
白石さん。
お母様と、お話しできました。
あなたが、元気でいることを、お伝えしました。
お母様は、泣いておられました。
でも、最後は、少しだけ、笑っておられました。
会いに来てほしい、と。あなたの話を、もっと、聞かせてほしい、と。
来週末、長野のご実家に、伺ってまいります。
62:白石
>>61
……課長さん。
ありがとうございます。
本当に、ありがとうございます。
63:魔王 ◆VaLgRaVe
>>61
課長。
我からも、礼を言う。
それと、お前の胃は、大丈夫か。
64:◆PDCAおじさん
>>63
……はい。
不思議と、今日は、痛みません。




