第32話 東雲台駅(前編)
土曜日の夕方、東雲台駅の改札前に、三人の男が立っていた。
一人は、四十代の後半。
紺のスーツに、少しくたびれたネクタイ。
休日なのにスーツなのは、他に外出着を持っていないからだった。
手には、分厚いクリアファイル。
胃のあたりを、無意識に押さえている。
一人は、五十代の前半。
日焼けした顔に、短く刈った白髪まじりの髪。
作業着の上に、ウインドブレーカーを羽織っている。
足元には、大きな道具鞄。
一人は、二十歳そこそこ。
パーカーにジーンズ、肩からカメラを提げた、大学生らしい青年。
三人は、改札前で、互いの顔を見合わせた。
掲示板の書き込みでは、毎日のように言葉を交わしてきた。
けれど、顔を合わせるのは、初めてだった。
「……あの」
スーツの男が、おずおずと口を開いた。
「PDCA、です」
作業着の男が、一瞬、目を見開いた。それから、ふっと笑った。
「ビルメン二十年、です」
大学生が、慌てたように頭を下げた。
「あ、えっと、東雲台の近くに住んでるって書いた、名無しです。森川っていいます」
三人は、しばらく、黙って向かい合っていた。
それから、誰からともなく、小さく、笑い出した。
◆ ◆ ◆
「佐伯と申します。物流会社で、課長をしております」
駅前の喫茶店で、スーツの男は、名刺を二枚、差し出した。
休日に名刺を持ち歩いているあたりが、いかにも、だった。
「権田です。ビルメンテナンスの会社で、現場の班長をやってます」
作業着の男は、名刺の代わりに、ごつい手を差し出した。
「森川です。大学三年です。……すみません、名刺とかなくて」
「いえいえ」
佐伯は、クリアファイルを開いた。
中には、掲示板の過去ログを印刷したものが、色分けした付箋つきで、びっしりと綴じてあった。
魔王が最初に立てたスレから、昨日の調査スレまで、全部。
「……全部、印刷してきたんですか」
森川が、目を丸くした。
「昼休みと、終電の電車の中で」
佐伯は、少し照れたように言った。
「紙で見ないと、頭に入らない世代でして」
権田が、声を上げて笑った。
◆ ◆
東雲台駅、二番線ホーム。
夕方のホームは、帰宅する人々で、ほどほどに混み合っていた。
蛍光灯の白い光。
白線の内側に下がってお待ちください、というアナウンス。
ホームの端の、自動販売機。
三人は、ホームの中ほどの柱の前で、足を止めた。
貼り紙が、あった。
透明なビニールに覆われた、A4の紙。端が、少しよれている。
――行方不明者を探しています
――白石 あかり(二十八歳)
紺色の作業着を着て、少し緊張した顔でカメラを見ている、若い女性の写真。
三人は、長いこと、その写真を見つめていた。
「……この人が」
森川が、小さく呟いた。
掲示板の向こうの、白石さん。
毒入りシチューを完食して、魔獣を手懐けて、千の亡者を成仏させて、
魔王の胃の心配をして、システムの紋を自分の手で拭い取った人。
写真の中の彼女は、どこにでもいそうな、普通の女性だった。
権田が、写真の、作業着の胸元の社名を、じっと見ていた。
「……○○クリーンサービス」
「ご存知ですか」
「同業です。うちより小さい会社ですが、丁寧な仕事をするって、評判のところです」
権田は、写真の白石に向かって、小さく頭を下げた。
「お疲れさまです。……先輩、なんて呼ばれて、柄にもなく浮かれてましたけど。
あんたの方が、よっぽど、すごい現場をやってますよ」
貼り紙の一番下に、手書きの文字があった。
――あかり。どこにいても、いいから。元気でいてね。お母さんより
佐伯は、それを読んで、眼鏡を外して、目頭を押さえた。
◆ ◆ ◆
改札へ続く階段の脇に、一本の木が植わっていた。
金木犀だった。
秋も深まって、花は、もう盛りを過ぎかけていた。
それでも、小さな橙色の花が、枝のあちこちに残っていて、甘い匂いが、ホームの端まで漂っていた。
「……ここ、ですね」
佐伯が、クリアファイルの付箋のついた頁を見ながら、言った。
「白石さんが、足元が光ったのは、金木犀の前だった、と」
三人は、金木犀の前の、ホームの床を見下ろした。
何の変哲もない、灰色のタイルだった。
点字ブロックの黄色い線が、その脇を走っている。
「何も、ないですね」
森川が、少しがっかりしたように言った。
権田は、何も言わずに、その場にしゃがみ込んだ。
タイルの表面に、顔を近づける。
目を細めて、じっと見つめる。
それから、指先で、タイルの目地を、そっとなぞった。
「……権田さん?」
「待ってください」
権田の声が、低くなっていた。仕事の時の声だった。
「これ、見てください」
佐伯と森川が、しゃがみ込んだ。
タイルの目地に。点字ブロックの溝に。
小さな、黒い粒が、こびりついていた。
墨の一滴を、さらに小さくしたような。
普通の汚れとは、どこか違う、妙に濃い黒。
「……普通の汚れじゃない」
権田が、呟いた。
「二十年、駅のホームを掃除してきました。
油汚れ、タバコのヤニ、靴底のゴム、鳥の糞。
だいたいの汚れは、見れば分かります。
これは、そのどれでもない」
「まさか」
佐伯が、息を呑んだ。
「異世界の、黒い染みと……」
「同じかどうかは、分かりません。でも」
権田は、立ち上がって、ホームの時計を見上げた。
午後六時を、少し回ったところだった。
「白石さんが消えたのは、終電の一本前、でしたね」
「はい。二十三時四十二分発です」
佐伯が、即答した。調べてあった。
権田は、道具鞄を、ホームのベンチの脇に下ろした。
「待ちましょう。その時間まで」
◆ ◆ ◆
夜が、更けていった。
ホームの人影が、少しずつ、まばらになっていく。
三人は、ベンチに並んで座って、自動販売機で買った温かいお茶を飲みながら、時計を見ていた。
二十三時三十分。
ホームには、もう、ほとんど人がいなかった。
二十三時四十分。
金木犀の匂いが、少しだけ、強くなった気がした。
二十三時四十二分。
電車が、ホームに滑り込んできた。扉が開き、閉じ、走り去っていく。
その、テールランプが、闇に消えた瞬間だった。
金木犀の前の、ホームの床から。
細い、細い、光の糸が、一本、すうっと、夜空に向かって立ち上った。
三人は、息を止めた。
光の糸は、ほんの一瞬だけ、そこにあった。
髪の毛よりも、細く。今にも、消えそうに、ちらちらと揺れながら。
そして、すうっと、消えた。
「……見ましたか」
森川の声が、震えていた。
「見ました」
佐伯は、胃のあたりを、押さえていた。
痛くは、なかった。ただ、胸が、どくどくと鳴っていた。
権田は、何も言わずに、金木犀の前に歩いていった。
しゃがみ込んで、光の糸が立ち上った場所の、タイルを見つめた。
黒い粒が、さっきより、少しだけ、増えていた。
「……詰まってる」
権田は、呟いた。
「向こう側だけじゃない。こっち側の出口も、詰まってるんだ」




