幕間㉛ 白石、自分の貼り紙を読む
ミラージュの鏡に、駅のホームが映った時、白石は、息ができなくなった。
東雲台駅。二番線。
毎日、使っていた駅だった。会社の帰り、終電の一本前の電車を待つ、あのホーム。
白線の内側に下がってお待ちください、というアナウンス。
蛍光灯の、白い光。ホームの端の、自動販売機。いつも、温かいお茶を買っていた。
ホームの向こう、改札へ続く階段の脇に、小さな木が植わっていた。
金木犀だった。
橙色の、小さな花が、こぼれるように咲いていた。
光の糸に触れた時の、あの匂い。
(……ここだったんだ)
あの夜、足元が光ったのは、ちょうど、この金木犀の前だった。
◆ ◆ ◆
鏡の中の、ホームの柱に、紙が貼ってあった。
A4くらいの、白い紙。雨に濡れたのか、端が少し、よれていた。
透明なビニールで、丁寧に覆ってある。誰かが、何度も、貼り直してきたのだろう。
紙の真ん中に、写真があった。
自分の顔だった。
会社の、社員証の写真だった。
紺色の作業着を着て、少し緊張した顔で、カメラを見ている。
入社した年に撮った写真。髪が、今より短い。
写真の上に、大きな文字があった。
――行方不明者を探しています
写真の下に、小さな文字が並んでいた。
――白石 あかり(二十八歳)
――昨年十月○日の夜、東雲台駅二番線ホームで目撃されたのを最後に、
行方が分からなくなっています。
――身長百五十八センチくらい。黒髪。肩くらいの長さ。
左目の下に、小さなほくろがあります。
――当日の服装:紺色の作業着(○○クリーンサービス)、黒いリュック。
――どんな小さなことでも構いません。お心当たりの方は、下記までご連絡ください。
その下に、電話番号が二つ、並んでいた。
一つは、警察の番号。
もう一つは、見覚えのある、携帯電話の番号だった。
母の、番号だった。
◆ ◆ ◆
紙の一番下に、手書きの文字があった。
印刷ではなかった。ボールペンで、少し震えた字で、書き足されていた。
白石は、その字を、知っていた。
毎年、正月に届く年賀状の字。実家の冷蔵庫に貼ってある、買い物メモの字。
上京する日に、駅で手渡された手紙の字。
――あかり。
――どこにいても、いいから。
――元気でいてね。
――お母さんより
◆ ◆ ◆
白石は、両手で、口を押さえていた。
声が、出なかった。涙だけが、止まらなかった。
どこにいても、いいから。
帰ってきて、ではなかった。
一年間、探して、探して、それでも見つからなくて。
それでも、母は、帰ってきて、とは書かなかった。
どこにいても、いいから。元気でいてね。
(……お母さん)
鏡が、曇り始めた。ミラージュの手が、震えていた。
「もう……少しだけ……」
千年の幻術師が、歯を食いしばって、鏡を支えていた。
白石は、鏡の中の、手書きの文字を、目に焼きつけた。
一文字も、忘れないように。
鏡の像が、すうっと、消えた。
ミラージュが、宙から、崩れ落ちた。
セルシアが、その体を受け止めた。
「ミラージュさん!」
「……大丈夫、ですわ」
ミラージュは、セルシアの腕の中で、薄く笑った。
「白石様。……ちゃんと、読めましたか」
白石は、泣きながら、頷いた。
「はい。……はい。読めました」
「よかった」
千年の幻術師は、手鏡を、胸に抱きしめた。
「わたくしの鏡が、誰かの家族の言葉を、届けられるなんて。
……千年で、一番、いい仕事でしたわ」
◆ ◆ ◆
その夜。
聖王国の宿の部屋で、白石は、ネフィと並んで、寝台に座っていた。
シロが、白石の足元で、丸くなっていた。
「勇者さん」
「ん」
「……あかり、さん、って言うんですねぇ」
白石は、ふっと、笑った。
「うん。言ってなかったね」
「きれいな、名前ですぅ」
「お母さんが、つけてくれたの。暗いところを、明るくする子になりますようにって」
ネフィは、しばらく、黙っていた。
それから、白石の肩に、こつんと頭を乗せた。
「……ぴったりですねぇ」
白石は、何も言わなかった。
窓の外に、月が出ていた。
東雲台駅のホームにも、今、同じような月が出ているのだろうか。
金木犀の匂いの中で、あの貼り紙が、風に揺れているのだろうか。
(お母さん。私、元気だよ)
(どこにいてもいいって、言ってくれて、ありがとう)
(でも、ちゃんと、帰るからね)
白石は、くたくたの布を、胸に抱いて、目を閉じた。




