第31話 光の糸(前編)
聖王国の召喚の間は、白石が掃除した時のまま、綺麗だった。
柱の彫刻の溝に、埃はない。窓から、午後の光が、まっすぐに差し込んでいる。
床の召喚陣の線だけが、白石が拭かずに残したまま、うっすらと浮かんでいた。
その召喚陣の中心から、天窓へ向かって、細い光の糸が、伸びていた。
「――これが、そうですのね」
幻惑の魔女ミラージュが、宙に浮かんだまま、光の糸を見上げた。
周りを、大小の手鏡が、衛星のように回っている。
「美しい糸ですわ。……でも」
ミラージュは、眉をひそめた。
「細いですわね」
陣の外で、黒騎士ヴォルフが、腕を組んで頷いた。
「私がここの警護についた十日前より、目に見えて、細くなっている」
白石は、思わず、黒騎士を振り返った。
「細く……?」
「最初は、指くらいの太さがあった。今は、髪の毛ほどだ」
召喚の間に、沈黙が落ちた。
◆ ◆ ◆
「調べますわ」
ミラージュが、手鏡の一枚を、光の糸の前に、すうっと滑らせた。
鏡面に、光の糸が映り込む。
ミラージュが指を動かすと、鏡の中の糸が、ぐんと大きく拡大された。
白石は、鏡を覗き込んで、息を呑んだ。
光の糸は、一本の糸ではなかった。
細い、細い、無数の線が、編み込まれていた。
円と線を組み合わせた、複雑な模様。
勇者の紋と、同じ形の模様が、どこまでも、どこまでも、連なって、一本の糸を形作っていた。
「……紋で、できてる」
「ええ。この道は、システムが編んだもの、ということですわね」
ミラージュが、もう一度、指を動かした。
鏡の中の糸の表面が、さらに大きく映し出される。
編み込まれた紋の模様の、隙間に。
小さな、黒い粒が、びっしりと、こびりついていた。
「これは……」
白石は、鏡に顔を近づけた。
墨の一滴を、さらに小さくしたような、黒い粒。
湖の岸辺の染みと、同じ色だった。
「瘴気、ですか」
「おそらく」
氷姫セルシアが、陣の縁にしゃがみ込んで、光の糸の根元に、そっと指先を近づけた。
触れはしない。冷気だけを、そっと、当てる。
糸の周りの空気が、白く凍った。
凍った空気の中で、糸にこびりついた黒い粒が、くっきりと、浮かび上がって見えた。
「……行き場を失った瘴気が、ここにも、溜まっているのね」
セルシアが、静かに言った。
「糸が細くなっているのは、たぶん、この黒い粒のせい。
詰まっているのよ。井戸の、水の道と、同じように」
白石は、聖王国の共同井戸を、思い出した。三百年分の泥と苔で、水の道が詰まっていた井戸。
「このまま、詰まり続けたら……」
「いずれ、糸は、切れるでしょうね」
セルシアの言葉に、ネフィが、白石の作業着の袖を、ぎゅっと握った。
◆ ◆ ◆
白石は、光の糸の前に、膝をついた。
胸のポケットから、くたくたの布を取り出した。
「勇者さん!?」
ネフィが、悲鳴のような声を上げた。
「だ、だめですぅ! その線、拭いちゃだめって、勇者さんが言ったんですよぉ!」
「うん。線は、拭かない」
白石は、布を、光の糸の表面に、そっと、近づけた。
糸を、拭うのではなかった。
糸にこびりついた、黒い粒だけを。
気になったので、手を入れた。
布の端で、黒い粒を、一粒ずつ、そっと、払い落としていく。
糸そのものには、触れないように。糸を編んでいる紋の模様を、傷つけないように。
細かい作業だった。指先の感覚だけが、頼りだった。
元の世界で、古い寺の欄間を掃除した時のことを、思い出した。
繊細な彫刻の、一番奥の溝の埃を、筆の先で、一つずつ払った。
あの時と、同じだった。
召喚の間は、静まり返っていた。誰も、息をしていないようだった。
黒い粒が、一つ、また一つと、払い落とされていく。
払い落とされた粒は、床に落ちる前に、すうっと消えていった。
糸が、少しずつ、明るくなっていった。
◆ ◆ ◆
半刻ほどして、白石は、布を下ろした。
額に、汗が浮かんでいた。
光の糸は、さっきより、ほんの少しだけ、明るかった。
ほんの少しだけ、太かった。
髪の毛ほどから、細い紐くらいに。
「……戻った」
ヴォルフが、低く呟いた。
ミラージュが、鏡で糸を確かめて、目を見開いた。
「黒い粒が、手の届く範囲は、全部、取れていますわ。
……紋の模様は、一本も、傷ついていない」
「よかった」
白石は、ほっと、息をついた。
それから、天窓を見上げた。
光の糸は、天窓の、ずっと向こうまで、伸びていた。
白石の手が届くのは、陣の中心から、ほんの少しの長さだけだった。
糸の先の方は、まだ、黒い粒に、覆われているのだろう。
「……手入れが、要るんですね。この道」
白石は、呟いた。
「放っておいたら、詰まって、切れちゃう。定期的に、誰かが、手を入れないと」
セルシアが、白石の隣に、しゃがみ込んだ。
「井戸と、同じね」
「はい。井戸と、同じです」
白石は、くたくたの布を、ぎゅっと握った。
帰り道は、ある。でも、放っておけば、なくなる。
それが、今日、分かったことだった。




