幕間㉙ ヴァルグレイヴ、本音を書く
夜更けの執務室で、ヴァルグレイヴは、一冊の帳簿を開いていた。
三百年前、魔王に任じられた最初の年に、自分の手で書いた帳簿だった。
古戦場の平原。
魔王軍の戦死者、二百十三。
聖王国軍の戦死者、千余り。
その次の頁に、自分の字で、一行だけ、こう書いてあった。
――死にたくない。
三百年前の、若い魔王の字だった。
今より、ずっと、震えていた。
◆ ◆ ◆
魔王に任じられた日のことを、ヴァルグレイヴは、よく覚えている。
目の前に、初めて、半透明の板が浮かんだ。
――汝を、魔王に任ずる。
――魔王は、勇者によって、討たれる。
任命と、死の宣告が、同時に届いた。
怖かった。
死ぬのが、怖かった。
だから、勇者を殺した。
勇者に攻め込まれる隙を作らぬよう、世界を征服した。
民に恨まれぬよう、必死に国を治めた。
全部、死にたくなかったからだ。
三百年、その一行だけを、支えに生きてきた。
◆ ◆ ◆
昨日、白石に、帰れと言った。
我が消えるのは構わない、と。
嘘ではなかった。
白石が、母のもとに帰れるなら。
自分一人が消えることで、それが叶うなら。
それで構わないと、本当に思った。
三百年分の償いだとも、思った。
でも。
ヴァルグレイヴは、帳簿の、三百年前の一行を、指でなぞった。
死にたくない。
その言葉の意味が、今は、三百年前とは、少し違っていた。
三百年前は、ただ、怖かった。死という、得体の知れないものが。
今は、違う。
湖で、子どもたちに釣りを教わった。
小魚一匹で、三百年で一番嬉しかった。
角に花の冠をかけられて、眠った。
リリエラに、焼き魚の土産を渡した。
異界の者たちと、草だの胃弱同盟だのと、くだらないことで笑った。
露台で、白石と、大福を食べた。
――消えたら、もう、それができない。
◆ ◆ ◆
扉が、静かに叩かれた。
「陛下。お茶を、お持ちしました」
リリエラだった。夜更けにもかかわらず、いつもの、きちんとした秘書官の装いだった。
「……ああ。すまん」
リリエラは、湯気の立つ茶を、机に置いた。
それから、主の手元の、開かれた帳簿に、ちらりと目をやった。
三百年前の、震えた字の、一行に。
秘書官は、何も言わなかった。
「リリエラ」
「はい」
ヴァルグレイヴは、茶碗を両手で包んだ。
三百年、誰にも、言ったことがなかった。
言えば、弱いと思われる。魔王は、弱さを見せてはならない。
そう思っていた。
「……我は、消えたくない」
執務室に、静寂が落ちた。
リリエラは、しばらく、黙っていた。
それから、静かに、言った。
「存じております」
ヴァルグレイヴは、秘書官を見上げた。
リリエラは、ほんの少しだけ、口元をゆるめていた。
「三百年、陛下の隣で、陛下の字を、見てまいりましたので」
秘書官は、帳簿の、三百年前の一行を、そっと指さした。
「その一行は、私が秘書官になった日に、もう、そこにありました。
……陛下が、いつか、それを口に出してくださる日を、三百年、お待ちしておりました」
ヴァルグレイヴは、何も言えなかった。
胸の奥が、熱かった。胃ではなく、もっと、別のところが。
「明日の作戦会議で」
リリエラは、続けた。
「白石様にも、それを、おっしゃってください。帰れ、ではなく。我も、生きたい、と」
「……白石は、怒るだろうか。昨日と、言っていることが違うと」
「いいえ」
秘書官は、きっぱりと、首を横に振った。
「白石様は、きっと、喜ばれます。
昨日、白石様が泣いておられたのは、陛下が、ご自分の命を、粗末にされたからですから」
◆ ◆ ◆
リリエラが下がった後、ヴァルグレイヴは、羽ペンを取った。
三百年前の帳簿の、あの一行の、すぐ下に。
三百年ぶりに、自分のことを、書いた。
大きくて、角ばっていて、ところどころ、力を入れすぎてインクが滲んだ字で。
――死にたくない。
――生きたい。
――皆と、白石と、一緒に。
ヴァルグレイヴは、その三行を、長いこと、見つめていた。
それから、帳簿を閉じて、窓の外を見た。
東の客間の窓に、まだ、灯りがついていた。
白石も、眠れずにいるのだろう。
魔王は、窓の灯りに向かって、小さく呟いた。
「……明日、話そう。ちゃんと」
茶は、少し冷めていた。それでも、温かかった。




