第29話 帰らなくていい(前編)
白い花の木の下に、魔王が立っていた。
夕陽を背にした黒いマントの影が、根元に座る白石とネフィとシロの上に、長く伸びていた。
「……ネフィ。少し、外してくれ」
ネフィは、白石の顔を見た。
白石は、小さく頷いた。
ネフィは、シロの首輪に手をかけて、何度も振り返りながら、中庭を出ていった。
白い花びらが、はらはらと散っていた。
ヴァルグレイヴは、白石の隣に、腰を下ろさなかった。
立ったまま、木の幹に、片手をついた。
「白石」
「……はい」
「帰れ」
白石は、顔を上げた。
◆ ◆ ◆
「帰り道は、ある。光の糸の先に。
異界の者たちも、そなたの両親に、知らせる方法を探してくれている」
魔王の声は、静かだった。
いつもの、執務室で書類を読み上げる時と、同じ声だった。
「帰り道が開いたら、帰れ。迷うな」
「……ヴァルさんが、消えても、ですか」
「そうだ」
即答だった。
「我は、三百年、生きた。十分だ。それに、我は、十人の勇者を殺した。
森戸も、我の兵の前で死んだ。
……その償いが、我一人が消えることで済むなら、安いものだ」
白石は、立ち上がった。
「償いとか、関係ないです」
「関係ある」
「ないです! ヴァルさんが殺したんじゃない、システムが殺させたんです!
森戸さんだって、ヴァルさんを恨んでないって言ってました!」
「だとしても、だ」
魔王は、白石を見下ろした。
「そなたの母が、待っている。年に一度しか帰れなかったと言っていたな。
一年、そなたが突然消えて、どれほど心配しているか。我には、それを奪う権利はない」
白石は、唇を噛んだ。
「……私、帰りません」
「白石」
「この世界に残ります。黒い染みは、私が拭きます。
一生かけて、世界中、拭いて回ります。
そうすれば、ヴァルさんは消えないし、世界も汚れないです」
魔王の顔が、初めて、歪んだ。
「――それは、我が三百年やってきたことだ」
低い声だった。
「一人で、全部背負って。
誰にも言わずに。自分さえ我慢すれば、皆が助かると思って。
その結果が、この胃だ。血を吐いて、倒れて、それでも、何も解決しなかった」
魔王は、木の幹を、拳で、どんと叩いた。
白い花びらが、一斉に散った。
「そなたに、同じことをさせるくらいなら、我は、消えた方が、ましだ」
◆ ◆ ◆
「……ずるいです」
白石の声が、震えた。
「ヴァルさん、ずるいです。自分は消えてもいいって言うのに、私が残るのは、だめって」
「当然だ。そなたには、帰る場所がある」
「ヴァルさんにも、あります!
リリエラさんも、ネフィも、シロも、四天王の人たちも、沼地の村の子どもたちも!
湖で一緒に釣りした子が、また来てねって、言ってたじゃないですか!」
魔王は、黙った。
「ヴァルさんが消えたら、みんな、泣きます。
リリエラさん、三百年、一緒にいたんですよ。
お茶、淹れて待ってるって言ってたんですよ。
それを、安いとか、十分とか……!」
白石の目から、涙がこぼれた。
止まらなかった。
「私だって、帰りたいです! お母さんに会いたいです!
でも、ヴァルさんが消えるなら、帰りたくないです!
帰って、桜見ても、大福食べても、ずっと、ヴァルさんのこと考えちゃう!
そんなの、帰ったって、意味ないです!」
「白石……」
「ヴァルさんの、そういうところが、嫌いです!」
叫んで、白石は、走り出した。
中庭を突っ切って、回廊の向こうへ。
魔王は、追いかけなかった。
追いかけられなかった。
白い花の木の下に、一人、立ち尽くしていた。
◆ ◆ ◆
回廊の陰に、ネフィとシロがいた。
走ってきた白石を、ネフィが抱き止めた。
白石は、ネフィの肩に顔を埋めて、子どものように泣いた。
シロが、二人の周りを、おろおろと回っていた。
回廊の反対側の柱の陰に、もう一人、立っていた。
銀髪の秘書官。
リリエラは、中庭の真ん中で立ち尽くす主の背中を、静かに見つめていた。
三百年で、陛下が、誰かと喧嘩をするのを、初めて見た。
秘書官は、手の中の帳面に、何も書かずに、そっと閉じた。




