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幕間㉘ 白石、帰らないと決める

中庭の、白い花の木の下に、白石は座っていた。

森戸さんが、光になって空へ還っていった場所。

木の根元には、ヴォルフが埋めた錆びた指輪が、眠っている。

日が暮れかけていた。

白い花びらが、夕風に、はらはらと散っていた。

白石は、膝の上に、くしゃくしゃの紙切れを広げていた。

元の世界の、電車の切符。

終電の一本前。


◆ ◆ ◆


帰りたかった。

今でも、帰りたい。

母の声が聞きたい。

父の、無口な背中が見たい。

実家の台所の、大福が食べたい。

事務所の、朝礼の声。

先輩の、病院のベッドの横顔。

金木犀の匂い。

満開の桜。

森戸さんと、約束した。

帰ったら、桜を見る、と。

森戸さんの分も。

帰り道は、ある。

光の糸の先に。

ちゃんと、ある。


(……でも)


帰れば、ヴァルさんが、消える。

三百年、世界中の汚れを、一人で体の中に溜め込んできた人。

胃が痛いのを、責任の重さのせいだと思って、誰にも言わずに、毎日、書類と向き合ってきた人。

初めての休みの日に、小魚一匹で、三百年で一番の戦果だと喜んでいた人。

角に、花の冠をつけたまま、眠っていた人。

その人が、自分が帰った瞬間に、溜め込んだ汚れと一緒に、消える。

新しい魔王が任じられて、また、誰かが、器になる。

白石は、切符を、握りしめた。


◆ ◆ ◆


木の根元に、黒い染みが、浮かんでいた。

指先ほどの、墨の一滴。

根元の土の上に、じわりと、滲み出していた。

白石は、布を取り出して、それを拭った。

消えた。

少し離れた根元に、また、浮かんだ。

拭った。

消えた。

また、浮かんだ。

白石は、拭き続けた。

何度も。

何度も。

きりがなかった。

それでも、拭いている間だけは、何も考えずにいられた。


(……私が、ずっと、拭き続ければいい)


ふと、そう思った。

帰らなければ、ヴァルさんは消えない。

帰らなければ、瘴気は世界に溢れ続ける。

でも、溢れた端から、自分が拭けばいい。

この世界中を、一生かけて、拭いて回ればいい。

そうすれば、誰も、消えなくて済む。

白石は、拭く手を止めて、夕暮れの空を見上げた。

空は、もう、何も浮かんでいなかった。


「……うん」


小さく、呟いた。


「帰らない」


◆ ◆ ◆


「――勇者さん」


背後で、声がした。

振り返ると、紺色の作業着のネフィが、木の陰に立っていた。

いつから、そこにいたのか分からなかった。

足元で、シロが、心配そうに鼻を鳴らしていた。


「ネフィ」

「探しましたぁ。陛下も、探してますぅ」


ネフィは、白石の隣に、すとんと座った。

しばらく、二人とも、黙っていた。

白い花びらが、二人の肩に、はらはらと落ちてきた。


「……ネフィ」

「はい、ですぅ」

「私、帰らない」


ネフィの肩が、ぴくりと跳ねた。


「この世界に、残る。それで、黒い染みを、一生、拭いて回る。

そうすれば、ヴァルさんは、消えないから」


白石は、切符を、荷物の奥に、そっとしまった。


「お母さんたちには、課長さんに頼んで、元気でいるって、伝えてもらう。それで、いい」


ネフィは、何も言わなかった。

長い沈黙の後、夢魔の少女は、小さな声で、言った。


「……勇者さん」

「うん」

「それ、陛下が、三百年やってきたことと、同じじゃないですかぁ?」


白石の手が、止まった。


「一人で、全部、背負って。誰にも頼らないで。自分さえ我慢すれば、みんなが助かるって」


ネフィの声が、震えていた。


「陛下は、それで、三百年、胃が痛かったんですよぉ……」


白石は、答えられなかった。

シロが、白石の膝に、そっと顎を乗せた。

白い花の木の向こうから、重い足音が、近づいてくるのが聞こえた。

黒いマントの、大きな人の足音だった。

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