幕間㉗ リリエラ、魔王代理を務める
魔王の椅子は、思っていたより、ずっと、座り心地が悪かった。
背もたれが高すぎる。
肘掛けが遠すぎる。
何より、目の前の書類の山が、高すぎた。
陛下を執務室から追い出した後、リリエラは、魔王の椅子に座って、一枚目の陳情書を手に取った。
北の砦の改修。
予算の再配分。
南の街道の、橋の補修。
東の港町の、関税の見直し。
湖の周りの、新しい水田の区画割り。
聖王国との、国交の再開についての、各町からの意見書。
一枚読むごとに、三枚増えた。
昼前には、胃が、きりきりと痛み始めていた。
(……陛下は、三百年、これを、毎日)
分かっていたつもりだった。
隣で、ずっと見ていたのだから。
分かっていなかった。
隣で見ているのと、この椅子に座るのとでは、まるで違った。
◆ ◆ ◆
昼過ぎ、執務室の扉が、叩かれた。
「――おい、秘書官」
入ってきたのは、赤銅色の肌の、大柄な男だった。
炎獄のイグニス。
「陛下が休みだって聞いたぞ。で、お前が一人で全部やってるって」
「……代理を、務めております」
「一人でか」
「はい」
イグニスは、机の上の書類の山を見て、顔をしかめた。
「馬鹿か、お前。陛下と同じことしてどうする」
それから、書類の山の一番上から、束を一つ、無造作に引っこ抜いた。
「北の砦の件は、俺がバルドのところに持っていく。砦の改修なら、あいつの方が詳しい」
「イグニス殿、それは――」
「いいから」
炎の四天王は、ひらひらと書類を振って、出ていった。
入れ違いに、氷の靄をまとった白い髪の女が、顔を覗かせた。
「リリエラ。……湖の周りの水田の件、私が、沼地の村の村長と話してくる」
氷姫セルシアは、書類の束を一つ取ると、静かに一礼して、出ていった。
その後に、黒い甲冑の騎士。
「聖王国との国交の件、私が預かろう。ディートリヒと、話ができる」
黒騎士ヴォルフ。
その後に、宙に浮いた銀髪の魔女。
「東の港町の関税、わたくしが行ってまいりますわ。商人たちと話すのは、得意ですもの」
幻惑の魔女ミラージュ。
その後に、ずんぐりした工兵隊長。
「南の橋は、わしだ。言うまでもねえ」
ドルガン。
気がつくと、机の上の書類の山は、半分以下になっていた。
リリエラは、空いた机の上を、しばらく、呆然と見つめていた。
◆ ◆ ◆
夕方。
書類は、全部、片付いていた。
四天王も、工兵隊長も、幻術師も、それぞれの書類を持って、戻ってきた。
全部、片付けて。
「……皆様」
リリエラは、立ち上がって、頭を下げた。
「ありがとうございました」
「礼なんかいらねえよ」
イグニスが、鼻を鳴らした。
「陛下が三百年、一人で背負ってたのを、俺らは、黙って見てたんだ。
手伝えって言われなかったから、手伝わなかった。……それが、間違いだった」
セルシアが、静かに頷いた。
「陛下が、私の話を聞いてくださった時。……私も、陛下の話を、聞けばよかったと思った」
ヴォルフが、兜の奥で、言った。
「これからは、陛下が休む日には、我々が、分ける」
リリエラは、何も言えなかった。
三百年、陛下の隣で、陛下を支えてきた。
一人で。
そう思っていた。
でも、本当は、周りに、こんなに大勢、手を差し伸べてくれる者がいたのだ。
誰も、頼まなかっただけで。
◆ ◆ ◆
日が暮れて、しばらくした頃。
執務室の扉が、また、叩かれた。
入ってきたのは、黒いマントの、大きな人だった。
角に、白と黄色の小さな花を編んだ冠が、引っかかったままだった。
「……陛下」
「戻った」
ヴァルグレイヴは、空になった机の上を見て、目を見開いた。
「……全部、片付けたのか。一人で」
「いいえ」
リリエラは、首を横に振った。
「四天王の皆様と、ドルガン殿と、ミラージュ殿が、分けてくださいました」
魔王は、しばらく黙っていた。
それから、小さく、笑った。
「……そうか」
魔王は、懐から、笹の葉に包んだ何かを取り出して、机の上に置いた。
「土産だ」
リリエラは、包みを開いた。
小さな焼き魚が、一尾。
手のひらくらいの大きさの。
「我が釣った。……三百年で、一番の戦果だ」
リリエラは、焼き魚を、長いこと見つめていた。
「陛下」
「何だ」
「明日からは、月に一度、お休みを取ってください。私が、そう、予定に組み込みます」
「……分かった」
魔王は、素直に頷いた。
それから、考えるような顔をした。
「リリエラ」
「はい」
「お前も、三百年、一日も休んでいないな」
秘書官の手が、止まった。
「……私は」
「月に一度。お前もだ。上司命令だ」
リリエラは、顔を上げて、主を見た。
角に花の冠を引っかけたままの、魔王の顔。
三百年で一番、穏やかな顔だった。
「……承知しました」
秘書官は、深く、頭を下げた。
顔を上げた時、その口元は、ほんの少しだけ、ゆるんでいた。
「陛下。頭に、花が」
「……知っている」
「お取りしましょうか」
「いや」
魔王は、花の冠に、そっと手を触れた。
「もう少し、このままでいい」




