第27話 魔王、有給を取る(後編)
翌朝、ヴァルグレイヴは、いつもの時刻に目を覚ました。
夜明けの一刻前。
三百年、一日も変わらなかった時刻だった。
身支度を整え、黒いマントを羽織り、いつものように、執務室の扉を開けた。
執務室の机に、リリエラが座っていた。
魔王の椅子に。
「おはようございます、陛下」
秘書官は、羽ペンを走らせる手を止めずに言った。
「本日は、お休みです。お引き取りください」
「……少しだけ、昨日の陳情書の続きを」
「お休みです」
「北の砦の改修の件だけでも」
「お休みです」
リリエラは、顔も上げなかった。
ヴァルグレイヴは、しばらく、扉の前で立ち尽くしていた。
三百年で、初めて、自分の執務室から追い出された。
◆ ◆ ◆
廊下を、当てもなく歩いた。
どこへ行けばいいのか、分からなかった。
何をすればいいのか、分からなかった。
角を曲がったところに、伝令の兵が、陳情書の束を抱えて立っていた。
執務室に届けるところらしい。
「……それを、見せてみろ」
「へ、陛下!? いえ、しかし、秘書官様から、今日は陛下にお渡ししてはならないと――」
「一枚だけだ」
伝令の兵が、困り果てた顔で、陳情書の束を差し出しかけた、その時。
「ヴァルさん」
背後から、声がした。
振り返ると、紺色の作業着ではなく、白いシャツに麻のスカートという、
見慣れない格好の白石が、腕を組んで立っていた。
隣で、同じく私服のネフィが、にやにやと笑っている。
足元で、シロが、尻尾を振っていた。
「お休みの日ですよね」
「……少しだけ、と思った」
「だめです」
白石は、伝令の兵に、にっこり笑いかけた。
「それ、リリエラさんのところに持っていってください。お願いします」
「は、はいっ!」
兵が駆けていくと、白石は、魔王の袖を、くいと引っ張った。
「行きましょう、ヴァルさん」
「……どこへ」
「お休みの日に、行くところです」
◆ ◆ ◆
転移の光が、湖畔に瞬いた。
勇者の湖。
朝の光を受けて、湖面が、きらきらと光っていた。
岸辺には、柔らかな草が青々と茂り、その向こうに、小さな村の屋根が並んでいる。
湖の南側には、新しく開いたばかりの水田が、来年の田植えを待って、整然と区切られていた。
三百年、腐泥の湿原だった場所だ。
「……ここに、来たことはなかった」
ヴァルグレイヴは、湖を見渡して、呟いた。
「報告書でしか、知らなかった」
「でしょうね」
白石は、くすりと笑った。
「ヴァルさん、全部、報告書と帳簿で知ってるんですもん。たまには、実物を見ないと」
「現場主義、か」
「はい。現場主義です」
「――まおうさまだ!」
村の方から、甲高い声が響いた。
子どもたちが、わあっと、駆けてきた。
十人、二十人。
先頭に、あの、咳をしていた子がいた。
「ほんとに、まおうさまだ!」
「つのがある!」
「おっきい!」
あっという間に、魔王は、子どもたちに取り囲まれた。
マントの裾を引っ張られ、角を指さされ、足元にしがみつかれる。
ヴァルグレイヴは、どうしていいか分からず、固まっていた。
咳をしていた子が、魔王の前に立って、まっすぐに見上げた。
「まおうさま。ひもの、たべた?」
――まおうさま ありがとう。
藁の結び目に挟まっていた、あの札を、思い出した。
「……ああ。食べた。うまかった」
子どもは、ぱあっと、顔を輝かせた。
◆ ◆ ◆
【休日】魔王さんの初めての有給を見守るスレ Part4
1:白石
ヴァルさんの代わりに、スレを立てます。
今日は、ヴァルさんの、三百年で初めてのお休みの日です。
朝、執務室に行こうとして、リリエラさんに追い出されていました。
それから、廊下で陳情書をもらおうとしていたので、捕まえて、勇者の湖に連れてきました。
今、村の子どもたちに、囲まれています。
2:名無しさん
初手で執務室行ってて草
3:名無しさん
予想通りすぎる
4:名無しさん
白石さん、見張りおつかれ
5:白石
ヴァルさん、子どもたちに、釣りを教わっています。
全然、釣れていません。
子どもたちに、「まおうさま、へた!」って言われて、
すごく真剣な顔で、もう一回、竿を振っています。
6:名無しさん
かわいいかよ
7:名無しさん
世界の八割を支配する魔王、釣りが下手
8:名無しさん
子どもに「へた!」って言われる魔王
9:◆PDCAおじさん
仕事と関係ないことに、真剣になる。
それが、一番の休息です。
10:白石
釣れました!
小さいお魚です。手のひらくらい。
ヴァルさん、子どもたちと一緒に、すごく喜んでいます。
三百年で一番の戦果だ、って言ってました。
11:名無しさん
wwwwww
12:名無しさん
三百年で一番の戦果が小魚
13:名無しさん
世界征服より嬉しそう
14:白石
お昼に、釣ったお魚を、村の人が焼いてくれました。
ヴァルさんと、子どもたちと、湖のほとりで食べました。
ヴァルさん、湖を見ながら、
「報告書には、こんなに綺麗だとは書いていなかった」って言っていました。
15:名無しさん
いい休日だ……
16:名無しさん
泣ける要素ないのに、なんか泣ける
17:白石
ヴァルさん、寝ました。
湖のほとりの、木の下で。お昼ご飯の後、座っていたら、こくこくし始めて、そのまま。
リリエラさんいわく、陛下が昼寝をしているところは、一度も見たことがないそうです。
18:名無しさん
うおおおお
19:名無しさん
昼寝できた!
20:名無しさん
三百年分の睡眠不足……
21:白石
子どもたちが、寝ているヴァルさんの角に、花の冠をかけています。
起こした方がいいでしょうか。
22:名無しさん
>>21
起こすな
23:名無しさん
>>21
そのままにしておいて
24:◆ビルメン二十年
>>21
休憩中の作業員は、起こさないのが鉄則です。
25:◆PDCAおじさん
>>21
寝かせてあげてください。
……私も、こんな休日が欲しいです。
◆ ◆ ◆
ヴァルグレイヴが目を覚ました時、湖は、夕焼けに染まっていた。
頭が、妙に重かった。
手をやると、角に、何かが引っかかっていた。
花の冠だった。
白と黄色の小さな花を、子どもたちが器用に編んだもの。
「……」
「おはようございます、ヴァルさん」
隣で、白石が、膝を抱えて座っていた。
「よく寝てましたね。三刻くらい」
「……三刻」
「すごく、気持ちよさそうでした」
ヴァルグレイヴは、花の冠を、そっと外した。
手のひらの上で、しばらく眺めていた。
不思議だった。
胃が、痛くなかった。
朝、目を覚ましてから、一度も。
「……白石」
「はい」
「休むというのは、こういうことか」
白石は、少し考えてから、笑った。
「たぶん、そうです」
◆ ◆ ◆
帰る前に、白石は、一人で、湖の岸辺を歩いた。
夕焼けの湖は、本当に綺麗だった。
水は澄んで、底の小石まで見える。
三週間かけて、この湖にしたのだと思うと、少しだけ、誇らしかった。
岸辺の、葦の根元で、白石は、足を止めた。
水面に、小さな、黒い染みがあった。
指先ほどの大きさ。
墨を一滴、垂らしたような。
それが、水の中で、ゆらりと揺れていた。
白石は、しゃがみ込んで、布で、それを拭った。
染みは、すうっと、消えた。
ほっとして、立ち上がろうとした時。
少し離れた水面に、また、同じ染みが、浮かんでいた。
白石は、それも拭った。
消えた。
顔を上げると、また、別のところに。
小さな、小さな、黒い染み。
拭けば消える。
けれど、拭いた端から、どこか別の場所に、滲み出してくる。
(……どこから、来てるんだろう)
白石は、葦の根元に、しゃがみ込んだまま、湖を見渡した。
湖は、夕焼けに染まって、変わらず、綺麗だった。
黒い染みは、目を凝らさなければ分からないほど、小さかった。
けれど、確かに、そこにあった。
「白石?」
背後で、魔王の声がした。
白石は、立ち上がって、振り返った。
笑顔を作った。
「何でもないです。帰りましょう、ヴァルさん」
今日は、ヴァルさんの、初めてのお休みの日だから。
話すのは、明日にしよう、と思った。
ヴァルグレイヴは、白石の顔を、じっと見た。
それから、何も言わずに、頷いた。




