幕間㉖ ディートリヒ、箒を握る
聖騎士団の詰所の廊下には、歴代の団長の肖像画が並んでいる。
三百年分。
十四枚。
白銀の鎧に、白いマント。
誰もが、胸を張り、感情のない目で、こちらを見下ろしている。
廊下の一番奥、最も古い一枚の前で、ディートリヒは、足を止めた。
初代聖騎士団長。
絵の具はひび割れ、表面は、煤と埃で真っ黒にくすんでいた。
顔立ちも、ほとんど判別できない。
ただ、右手の指にはめた、銀の指輪だけが、かろうじて、見て取れた。
ディートリヒは、自分の右手を見下ろした。
指輪のない、指を。
◆ ◆ ◆
昼間、勇者の――白石殿の、仕事を見ていた。
三百年涸れたことのない井戸が、涸れたのではなく、詰まっていただけだと言った。
泥だらけになって底に降り、水の道を開いた。
女たちに、井戸の手入れの仕方を、一つ一つ教えていた。
王の間の窓を拭いた。
陛下に、布を渡した。
陛下は、生まれて初めて、自分の手で、玉座を拭いた。
そして、召喚の間。
白石殿は、自分が呼ばれたその場所を、黙々と掃除した。
床の陣の線だけを、拭かずに残して。
光の糸に触れた時、白石殿は、泣いていた。
ディートリヒに背を向けて、泣いているのを、隠そうとしていた。
――この線だけは、拭かないでください。大事な、道なので。
三百年、この国が、異界から人を呼び寄せてきた道だった。
呼び寄せて、使い捨ててきた道だった。
その道を、白石殿は、「大事な道」と言った。
◆ ◆ ◆
ディートリヒは、詰所の物置から、箒を一本、持ち出してきた。
下働きの者が使う、古い箒だった。
騎士団長が、手にするようなものではなかった。
肖像画の前に戻ると、ディートリヒは、箒の柄の先に、白い布を巻きつけた。
地下牢の白石殿に差し入れたのと、同じ布だった。
不慣れな手つきで、肖像画の額縁の、上の方から、埃を払った。
埃が、ぶわりと舞い上がった。
ディートリヒは、咳き込んだ。
何度か、繰り返した。
額縁の溝。
絵の表面。
煤を、少しずつ、少しずつ、拭い取っていく。
白石殿が、どうやっていたか、思い出しながら。
上から、下へ。
端から、真ん中へ。
やがて、肖像画の顔が、見えてきた。
若い男だった。
ディートリヒと、あまり変わらない年頃の。
白銀の鎧に、白いマント。
胸を張り、感情のない目で、こちらを見下ろしている。
けれど、その目の奥に、何かがあった。
三百年の煤の下に隠れていた、何か。
怯え、だろうか。
迷い、だろうか。
あるいは、指輪を光らせた、あの戦場の後に、刻まれた何か。
ディートリヒは、箒を下ろして、先祖の顔を、長いこと、見つめていた。
「……あなたも」
誰もいない廊下で、小さく呟いた。
「あなたも、指輪が、怖かったのですか」
肖像画は、答えなかった。
◆ ◆ ◆
「――団長?」
廊下の向こうから、声がした。
若い聖騎士が、目を丸くして、こちらを見ていた。
騎士団長が、箒を手に、肖像画の前に立っている。
騎士にとって、見てはいけないものを見てしまった顔だった。
ディートリヒは、箒を下ろさなかった。
「物置に、まだ箒はあるか」
「は……? は、はい。何本か」
「全部、持ってこい。それと、布と、水を張った桶も」
「団長、何を……」
「掃除だ」
ディートリヒは、廊下に並ぶ、十四枚の肖像画を、見渡した。
「明日の朝までに、この廊下の肖像画を、全部、拭く。聖騎士団、全員でだ」
若い騎士は、しばらく、ぽかんと口を開けていた。
それから、何かを悟ったように、背筋を伸ばした。
「……はっ!」
若い騎士が駆けていった後、ディートリヒは、もう一度、初代団長の肖像画を見上げた。
この絵は、外さない。
先祖が何をしたのか。
この国が、三百年、何をしてきたのか。
忘れないために。
そして、拭き続ける。
二度と、煤に埋もれさせないように。
◆ ◆ ◆
夜更け。
ディートリヒは、王城の地下牢の、一番奥の扉の前に立っていた。
格子の向こうに、白い法衣の老人が、座っていた。
大神官オルヴェン。
神託の板を失ってから、一言も、口をきいていなかった。
「大神官殿」
老人は、顔を上げなかった。
「今日、異界の勇者が来た。
井戸を掃除し、王の間を掃除し、召喚の間を掃除していった。
陛下が、自分の手で、玉座を拭かれた」
オルヴェンの肩が、ぴくりと動いた。
「……愚かな」
満月の夜以来、初めて、老人が口を開いた。
しわがれた、乾いた声だった。
「愚かなことを。……あの娘は、何も分かっておらぬ。お前たちも、魔王も」
「何を、ですか」
オルヴェンは、ゆっくりと、顔を上げた。
格子越しに、騎士団長を見た。
穏やかさの消えた目で。
「神は、汚れを、集めておられたのだ」
ディートリヒは、眉をひそめた。
「世界中の瘴気を、穢れを、一か所に集めて、まとめて、消しておられた。
勇者と魔王を、ぶつけることで。
三百年、そうやって、この世界を、清めておられた」
老人の声が、かすかに、震えた。
「あの娘は、それを止めたのだ。神の、掃除を」
地下牢の松明が、ゆらりと揺れた。
「……いずれ、分かる。集める者のいなくなった汚れが、どこへ向かうのか」
それきり、オルヴェンは、また、口を閉ざした。
ディートリヒは、格子の前に、長いこと、立ち尽くしていた。
上の階から、聖騎士たちが、慣れない手つきで箒を動かす音と、
誰かが咳き込む声と、小さな笑い声が、かすかに聞こえていた。




