第26話 聖王国の大掃除(前編)
聖王国から、手紙が届いた。
ピッチが運んできた封筒には、聖騎士団の紋章の封蝋が押されていた。
差出人は、聖騎士団長ディートリヒ。
宛名は、「魔王領環境整備局 現場担当 白石殿」だった。
「……私宛て?」
詰所の机で封を切ると、硬い、几帳面な字が並んでいた。
――白石殿。突然の書状、失礼する。
――満月の夜から、聖王国は、神の恩寵を失った。
井戸が、次々と涸れている。
畑の実りも、目に見えて悪くなった。
民は、神に見捨てられたと嘆いている。
陛下は、王の間に閉じこもったまま、誰とも口をきかれない。
――私は、あの夜、陛下に申し上げた。
これからは、自分たちの手で井戸を掘ろう、と。
だが、何から手をつければいいのか、誰にも分からない。
三百年、恩寵に頼りきってきたこの国には、自分の手で何かを直すという習慣が、ない。
――厚かましい頼みだとは、承知している。
白石殿に、聖王国の現場を、見てもらえないだろうか。
――報酬は、払えるだけ払う。
……払えるものが、ほとんど残っていないのが、恥ずかしいが。
白石は、手紙を、二度読んだ。
それから、立ち上がった。
「ネフィ。シロ。出張の準備」
◆ ◆ ◆
魔王の執務室で、ヴァルグレイヴは、ディートリヒの手紙を、黙って読んでいた。
「……行くのか」
「はい」
白石は、作業着の上に、旅用の外套を羽織っていた。
背中の背負子には、バケツと、ほうきと、ブラシの束と、氷蚕の布が、きっちりと詰め込まれている。
「三百年、そなたを殺そうとしてきた国だ。そなたを処理しようとした国だ」
「知ってます」
「それでも、行くのか」
白石は、ちょっと考えた。
「困ってる人がいて、手を貸してって言われたら、行きます。
それが、現場担当の仕事なので」
ヴァルグレイヴは、しばらく、白石の顔を見ていた。
それから、羽ペンを置いた。
「ヴォルフをつける」
「え」
「護衛だ。断るな。上司命令だ」
白石は、目を丸くして、それから、くすりと笑った。
「……はい。ありがとうございます、ヴァルさん」
◆ ◆ ◆
聖王国の王都は、灰色だった。
満月の夜に潜入した時は、夜の闇で分からなかった。
昼の光の下で見ると、白い石造りの街並みは、どこもかしこも薄く煤け、くすんでいた。
壁には黒ずんだ雨の跡。
石畳の隙間には、苔と枯れ草。
屋根の樋は、落ち葉で詰まっていた。
大通りを行き交う人々の顔も、街と同じように、くすんでいた。
「……ひどいな」
白石の隣で、黒騎士ヴォルフが、低く呟いた。
漆黒の甲冑の上から、目立たないよう灰色の外套を羽織っている。
白石は、何も言わなかった。
ただ、街並みを、じっと見回していた。
汚れていた。
でも、それ以上に、手入れがされていなかった。
汚れは、誰かが拭けば落ちる。
けれど、この街は、三百年、誰も拭こうとしなかったのだ。
王城の門の前で、白いマントの騎士が、待っていた。
「――白石殿」
聖騎士団長ディートリヒは、深く、頭を下げた。
「来てくれたか」
「お手紙、ありがとうございました、ディートリヒさん」
白石は、にっこり笑った。
「地下牢の時の布、まだ使ってます。すごく、いい布でした」
ディートリヒの、感情の薄い顔が、ほんのわずかに、ゆるんだ。
それから、騎士団長は、白石の隣の、灰色の外套の騎士を見た。
「……黒騎士」
「聖騎士団長」
二人の騎士は、しばらく、無言で向かい合っていた。
それから、どちらからともなく、手を差し出して、短く、握手を交わした。
◆ ◆ ◆
ディートリヒに案内されて、白石は、王都の外れの、共同の井戸に向かった。
石組みの、大きな井戸だった。
周りに、桶を抱えた女たちが、途方に暮れたように集まっていた。
「涸れたのは、満月の夜の翌朝からだ」
ディートリヒが、井戸を覗き込みながら言った。
「三百年、一度も涸れたことのない井戸だった。
神の恩寵で、いつも澄んだ水が、なみなみと湧いていた」
白石は、井戸の縁に手をついて、中を覗き込んだ。
暗かった。
底が、見えない。
縁の石に、手を滑らせた。
ざらりとした、分厚い苔の感触。
石組みの隙間には、黒い泥が、びっしりと詰まっている。
「……ディートリヒさん」
「何だ」
「この井戸、最後に掃除したのって、いつですか」
騎士団長は、一瞬、言葉に詰まった。
「……掃除?」
「はい。井戸の底の泥をさらったり、壁の苔を落としたり。
普通、井戸って、何年かに一度は、そういう手入れをするんです」
ディートリヒは、周りに集まった女たちを見た。
女たちは、互いに顔を見合わせて、首を横に振った。
誰も、知らなかった。
三百年、神の恩寵が、水を湧かせてくれた。
井戸の底がどうなっているかなど、誰も、気にしたことがなかった。
白石は、背負子を下ろして、作業着の袖を、肘までまくった。
「たぶん、涸れたんじゃないと思います」
「……何?」
「水の道が、詰まってるんです。
三百年分の泥と苔で。
今までは、恩寵が、その上から水を押し出してくれてたから、気づかなかっただけで」
白石は、井戸の縁に、縄を結びつけ始めた。
「掃除すれば、また、湧くと思います」
井戸の周りの女たちが、ざわめいた。
ディートリヒは、白石の手元を、じっと見ていた。
「……白石殿。井戸の底に、降りるのか」
「はい」
「危険ではないのか」
白石は、縄の結び目を確かめながら、考えた。
「ちょっと、待ってくださいね。先輩に、聞いてみます」
「先輩?」
白石は、ヴォルフを振り返った。黒騎士は、懐から、小さな水晶を取り出した。
ピッチを通じて、魔王城の水晶玉と、つながっている。
その向こうで、魔王が、異界掲示板を開いて待っているはずだった。




