幕間㉕ 白石、ネフィとお風呂に入る
魔王城には、大浴場があった。
地下から湧く温泉を引いた、石造りの広い湯殿。
湯気が天井まで立ちこめ、壁の魔石灯が、ぼんやりと橙色に光っている。
白石は、湯殿の入り口で、立ち止まっていた。
隣に、ネフィがいた。手ぬぐいを胸に抱えて、そわそわと、白石の顔を見上げている。
「……勇者さん」
「うん」
「本当に、いいんですかぁ?」
白石は、小さく、笑った。
「約束、したでしょ。いつか、一緒に入ろうって」
湖の夜。ネフィに、「いつか、一緒に入ってくださいねぇ」と言われて、「うん。いつかね」と答えた。
兜を被っていた頃の、約束だった。
ネフィの顔が、ぱあっと、輝いた。
◆ ◆ ◆
湯は、少し熱めで、とろりとしていた。
白石は、肩まで湯に浸かって、長い息を吐いた。
「……はあぁ」
「勇者さん、おばあちゃんみたいな声出てますぅ」
「だって、気持ちいいんだもん」
一日中、宝物庫で膝をついて、立って、また膝をついて。
体中が、心地よく疲れていた。この疲れ方は、知っていた。
元の世界で、大きな現場を一つ終えた日の夜と、同じだった。
「宝物庫、すごかったですねぇ」
ネフィが、湯の中で、翼をぱたぱたさせながら言った。
「リリエラ様、目録作りながら、ずっと手が震えてましたぁ。
『これで北の砦の改修が……南の街道が……』って、ぶつぶつ言ってましたぁ」
「リリエラさん、ああいう時、ちょっと嬉しそうだよね」
「はいぃ。陛下と同じくらい、お金の計算が好きなんですぅ」
二人で、くすくす笑った。
湯気の向こうで、シロが、湯殿の入り口に寝そべっていた。
男湯と女湯の区別があるのかどうか、白石にはよく分からなかったが、
シロは、なぜか入ってこなかった。
見張り番のつもりらしい。
◆ ◆ ◆
「勇者さん」
しばらくして、ネフィが、少しだけ真面目な声で言った。
「あの、石の板のこと、気になってますかぁ?」
白石は、湯の表面を、手のひらで撫でた。
宝物庫の一番奥の、石の板。
埃を拭ったら、円と線の紋様が出てきた。
右手の甲に刻まれていたのと、同じ形。
「……うん。ちょっとね」
白石は、自分の右手を、湯から出して見た。
何もない、ただの手の甲だった。
「でも、今日は、宝物庫の仕事の日だったから。
石の板のことは、ヴァルさんと、課長さんたちに、任せようと思って」
「勇者さん、そういうとこ、すっごく大人ですぅ」
「大人っていうか、職業病かな。
一つの現場が終わるまで、次の現場のことは考えない、って、先輩に言われてたから」
「先輩さん、いっぱい色んなこと教えてくれたんですねぇ」
「うん」
白石は、湯気の向こうの天井を見上げた。
「胃に穴を開けて、入院しちゃった人なんだけどね。……元気かなあ」
ネフィは、何も言わなかった。代わりに、湯の中で、こつんと、白石の肩に頭を乗せた。
◆ ◆ ◆
湯から上がって、部屋に戻ると、窓の外に、月が出ていた。
満月から、半分ほど欠けた月。
白石は、寝台に腰かけて、荷物の奥から、くしゃくしゃの紙切れを取り出した。
元の世界の、電車の切符。
終電の一本前。あの夜、乗るはずだった電車の切符。
(お母さん、お父さん)
心の中で、呼びかけてみた。
(私、元気です。
新しい仕事、始めました。
異世界の、お城の、掃除。……信じてもらえないよね、たぶん)
笑ってしまった。
笑いながら、少しだけ、目の奥が熱くなった。
課長さんが、伝える方法を考えてくれると言っていた。
掲示板の向こうの、顔も知らない人たちが、自分の家族のために、知恵を絞ってくれている。
帰り道も、きっと、見つかる。
ヴァルさんと、みんなと、一緒に探せば。
白石は、切符を、魔王の返事と、置き手紙の隣に、丁寧にしまった。
「……明日も、がんばろ」
寝台に潜り込むと、扉の隙間から、シロが、のそのそと入ってきた。
いつものように、白石の足元で、丸くなった。
隣の部屋から、ネフィの、楽しそうな鼻歌が聞こえていた。
白石は、目を閉じた。
召喚されてから、一番、よく眠れた夜だった。




