第25話 初出勤(前編)
「――こちらが、白石様の作業着でございます」
リリエラが広げた服を見て、白石は、しばらく言葉を失った。
漆黒の生地に、銀糸の縁取り。
肩には魔王軍の黒い竜の紋章。
腰には、ひらりと揺れる短いマント。
袖口には、繊細な刺繍まで施されている。
作業着というより、どう見ても、近衛騎士の礼装だった。
「……あの、リリエラさん」
「はい」
「すごく、素敵なんですけど」
「恐れ入ります。陛下のご指示で、城の仕立て職人が三晩かけて仕上げました」
「掃除、しにくいです」
リリエラの表情が、ぴしりと固まった。
「マントは、脚立に乗った時に引っかかります。
袖口の刺繍は、水に濡れたら傷みます。
あと、黒は、埃が目立つので」
白石は、申し訳なさそうに頭を下げた。
「ポケットが、たくさんある方がいいです。
布とか、小さいブラシとか、入れておけるように。
膝のところは、二重にしてもらえると助かります。
床に膝をつくことが多いので。
それから、色は、汚れの目立たない灰色か紺で……」
リリエラは、無言で、懐から手帳を取り出した。
白石の言うことを、一言一句、書き留め始めた。
「……承知いたしました。明日の朝までに、作り直させます」
「えっ、そんな、急がなくても」
「白石様」
秘書官は、手帳を閉じて、真顔で言った。
「現場の声を聞かずに支給品を決めるのは、管理側の怠慢です。
陛下も、そうおっしゃるはずです」
その日の夕方、執務室で、魔王が胃のあたりを押さえながら
「……すまなかった」と白石に頭を下げていた、と、ネフィが後で教えてくれた。
◆ ◆ ◆
翌朝。
白石は、作り直された作業着に袖を通していた。
紺色の、丈夫な綿の生地。
胸と腰と太腿に、大小合わせて八つのポケット。
膝には、革の当て布が二重に縫いつけてある。
袖は肘までまくれるように、留め紐がついていた。
肩に、小さく、黒い竜の紋章だけが刺繍してあった。
リリエラが、そこだけは譲らなかったらしい。
「……うん。いい」
姿見の前で、白石は、くるりと回ってみた。
動きやすい。
ポケットに手が届く。
膝をついても痛くない。
召喚されてから、ずっと重たい鎧を着ていた。
全身を覆って、顔まで隠して。
鎧は、部屋の隅の台に、きちんと磨いて飾ってあった。
今は、顔を出して、自分の仕事の服を着ている。
胸のポケットに、くたくたの布を差した。
「勇者さぁん! 準備できましたぁ?」
扉の向こうから、ネフィの声がした。
開けると、そこに、白石と同じ紺色の作業着を着たネフィが立っていた。
背中の蝙蝠の翼が出せるように、上着の背中に、器用に切れ込みが入っている。
「ネフィ、その服……」
「えへへぇ。わたしも、今日から、環境整備局ですぅ」
ネフィは、胸を張った。
二人で廊下を歩くと、すれ違う兵や侍女が、一人残らず、振り返った。
「……あれが、勇者殿か」
「娘御だったとは」
「兜の下があれなら、あの鎧は、さぞ重かったろうに」
ひそひそ声が、背中を追いかけてくる。
白石は、少しだけ、肩をすくめた。
兜を外してから、まだ二日しか経っていない。
見られるのは、まだ慣れない。
厨房の前で、料理長のグスタフが、鍋を抱えたまま固まっていた。
「……勇者殿。あの、最初のシチューの件は」
「おいしかったです」
「いや、そうではなく」
オーク族の料理長は、毒を盛った張本人として、何か言わねばと思ったらしい。
結局、何も言えずに、深々と頭を下げて、鍋ごと厨房に引っ込んでいった。
中庭へ出る角を曲がったところで、赤銅色の大男と鉢合わせた。
炎の四天王、イグニス。
白石を上から下まで眺めて、鼻を鳴らした。
「女だったんだってな」
「はい。言ってなかったみたいで」
「どうでもいい」
イグニスは、胸の炉を、親指でとんと叩いた。
煤のない、澄んだ青い炎が、そこで静かに燃えていた。
「女だろうが男だろうが、俺の煤を拭った奴は、拭った奴だ。
……今日から現場だろ。せいぜい、こき使われてこい」
それだけ言って、大股で去っていった。
「……イグニス様なりの、お祝いですぅ」
ネフィが、くすくす笑った。
白石も、少しだけ、笑った。
「陛下に、諜報部から異動させてもらいましたぁ。役職は、現場補佐ですぅ」
「現場補佐」
「勇者さんの、相方ってことですぅ!」
ネフィの足元で、シロが、首に何かをぶら下げていた。
小さな木の札だった。
――環境整備局 現場犬
白石は、思わず吹き出した。
「シロも?」
「わふ」
シロは、誇らしげに、胸を張った。
◆ ◆ ◆
環境整備局の詰所は、魔王城の一階の、厨房の隣の小部屋だった。
もともとは、食器を仕舞っておく納戸だったらしい。
窓が一つ、机が一つ、椅子が三脚。壁際には、真新しい道具が、ずらりと並んでいた。
木の桶が、大中小と三つ。
ドルガンが鍛えたという、取っ手の丈夫なブリキのバケツ。
柄の長さを変えられる、ほうき。ブラシが七種類。脚立が二台。
それから、棚の上に、ふわふわした白い布が、山のように積んであった。
「これは……?」
「セルシア様からの差し入れですぅ。
北の氷蚕っていう虫の糸で織った布で、すっごく吸水性がいいんですってぇ」
白石は、一枚、手に取ってみた。
柔らかい。軽い。指で撫でると、きゅっと、心地よい手応えがある。
「……すごい。マイクロファイバーより、いいかも」
白石の目が、きらきらと輝いた。
ネフィとシロは、顔を見合わせた。
魔王を前にした時より、宝物庫の財宝を見た時より、嬉しそうな顔だった。
◆ ◆ ◆
詰所の扉が、こんこんと叩かれた。
入ってきたのは、黒いマントの大きな人だった。
「ヴァルさん」
「……おはよう、白石」
魔王ヴァルグレイヴは、狭い詰所の入り口で、身を縮めるようにして立っていた。
角が、天井にこすれそうだった。
「どうした。何か、足りないものはないか」
「十分です。むしろ、多すぎるくらいで」
「そうか」
魔王は、少しほっとしたように頷いた。
それから、詰所の中を、そわそわと見回した。
「……その」
「はい」
「我は、そなたの、上司ということになるのだろうか」
白石は、きょとんとした。
「えっと……雇い主、ではありますね」
「上司というのは、何をすればいいのだ。
我は、三百年、部下に命令を出すことはしてきた。
だが、そなたに、何を命じればいいのか、分からん」
魔王は、真剣な顔だった。
「そなたの方が、この仕事に詳しい。
我が、掃除について、何か言えることがあるとも思えん」
白石は、少し考えてから、言った。
「じゃあ、一つだけ、お願いしてもいいですか」
「何だ」
「どこが一番困ってるか、教えてください」
白石は、詰所の机の上の、まっさらな帳面を指さした。
「私、この国のこと、まだ全然知らないので。
どこが汚れてて、誰が困ってて、どこから手をつけたらいいのか。
それを一番知ってるのは、三百年、全部の陳情書を読んできたヴァルさんでしょう?」
魔王は、目を見開いた。
「……優先順位を、決めろということか」
「はい。それが、上司のお仕事だと思います。
前の会社の課長も、そう言ってました」
魔王は、しばらく黙っていた。
それから、胃のあたりから手を離して、背筋を伸ばした。
「分かった。午後までに、一覧を作って持ってくる」
「よろしくお願いします、ヴァルさん」
魔王が出ていった後、ネフィが、くすくす笑いながら言った。
「陛下、すっごく嬉しそうでしたぁ」
「そう?」
「はいぃ。陛下、三百年、誰かに『お願いします』って頼まれたこと、ほとんどないんですよぉ。
みんな、陛下にお願いする時は、陳情書なので」
白石は、扉の方を、振り返った。
黒いマントの背中は、もう、廊下の向こうに消えていた。
けれど、その足取りが、いつもより少しだけ軽かったような気がした。




