第24話 対面(中編)
笑いが収まるまで、しばらくかかった。
ヴァルグレイヴは、目尻の涙を拭いながら、ようやく椅子に座り直した。
卓の端の、三包目の胃薬には、手をつけなかった。必要なかった。
「……すまん。取り乱した」
「いえ」
白石は、くすくすと笑っていた。
「ヴァルさん、そんなふうに笑うんですね」
「三百年で、初めてだ」
「え」
「本当だ」
白石は、少しだけ目を丸くして、それから、ふわりと笑った。
ヴァルグレイヴは、茶器を取り、二つの茶碗に、茶を注いだ。
慣れない手つきだった。
三百年、茶は、リリエラが淹れてくれるものだった。
「冷めないうちに」
「ありがとうございます」
白石は、茶碗を両手で包んだ。
兜の隙間からではなく、直接、口をつけた。
「……おいしい」
それから、白石の目が、皿の上の、白い菓子に止まった。
白くて、丸くて、ふっくらとした、粉をまぶした菓子。
「……これ」
白石の声が、少しだけ、震えた。
「大福、ですか」
◆ ◆ ◆
「ネフィの報告に、そなたの好物だとあった」
ヴァルグレイヴは、少しだけ、照れくさそうに言った。
「作り方は、異界の者たちに教わった。
粘る米は、そなたが湖にした湿原の跡地で、沼地の村の者たちが、初めて実らせたものだ。
赤い豆は、北の砦の近くで採れる。
城の料理長が、三度失敗して、四度目に、これを作った」
白石は、大福を、一つ、手に取った。
柔らかかった。指が、少し沈んだ。
一口、かじった。
もちもちとした生地の中から、甘い餡が、とろりとこぼれた。
少しだけ、豆の皮が残っていた。砂糖の甘さが、少しだけ、強かった。
母の大福とは、違った。
それでも。
白石の目から、ぽろりと、涙がこぼれた。
「……あ」
止まらなかった。ぽろぽろと、頬を伝って、膝の上に落ちていく。
「し、白石殿!? 口に合わなかったか!?」
「ちが……違うんです……」
白石は、大福を両手で持ったまま、泣きながら、首を振った。
「おいしいんです……すごく、おいしいんです……」
あの湿原の、泥の中から。子どもたちが、小石を拾って、枯れ枝を運んで。
咳をしなくなった子が、ありがとう、と言ってくれた、あの場所から。
実った米。
「お母さんの、とは、違うけど……でも、なんか……」
言葉にならなかった。
ヴァルグレイヴは、黙って、自分の懐から、布を取り出しかけた。
それから、それが白石の布ではないことに気づいて、手を止めた。
代わりに、卓の上の、きちんと畳まれた手ぬぐいを、白石の前に、そっと押しやった。
「ゆうしゃ」と、下手な刺繍の入った手ぬぐいだった。
白石は、それを見て、泣きながら、また笑った。
◆ ◆ ◆
涙が落ち着いた頃、白石は、背筋を伸ばした。
「ヴァルさん」
「ああ」
「最初に、言わせてください」
白石は、椅子から立ち上がって、深々と、頭を下げた。
「ごめんなさい」
ヴァルグレイヴは、黙って聞いていた。
「守ってくれてた結界、拭いちゃって、ごめんなさい。
謁見の間で、刺しちゃって、ごめんなさい。
……それから、ずっと、顔を見せなくて、ごめんなさい」
顔を上げて、白石は、続けた。
「それと、ありがとうございます」
「……」
「逃げろって、教えてくれて。結界で、守ってくれて。
会おうって、返事をくれて。焚き火の夜、お茶を一緒に飲んでくれて。
指輪を、砕いてくれて。腕輪を、三回光らせてくれて。
迎えに来てくれて。布を、返してくれて」
白石は、一つ一つ、指を折って数えた。
「……数え切れないです」
ヴァルグレイヴは、しばらく、何も言えなかった。
それから、自分も、立ち上がった。
魔王が、勇者に向かって、頭を下げた。
「我の方こそ、謝らねばならん」
「え」
「我は、そなたを殺そうとした。
宿の食事に毒を盛り、魔獣をけしかけ、罠を仕掛け、呪いの腕輪を贈った。
三百年、勇者を、殺してきた。そなたの前の十人も、我が」
「……知ってます」
白石は、静かに言った。
「森戸さんが、教えてくれました。
ヴァルさんも、ずっと、予言に縛られてたって」
「それでも、だ」
魔王は、頭を下げたまま、言った。
「すまなかった。そして」
顔を上げた。
「ありがとう。
湖を、子どもたちを、我の兵を、セルシアの涙を、イグニスの炎を、モルドの三百年を。
……我が三百年かけてできなかったことを、そなたは、布一枚で、やってのけた」
白石は、きょとんとして、それから、照れたように頭をかいた。
「いえ、そんな……ただの、掃除ですから」
「その、ただの掃除に、我は三百年、勝てなかったのだ」
二人は、顔を見合わせた。
それから、同時に、吹き出した。
◆ ◆ ◆
「そういえば」
白石が、二つ目の大福に手を伸ばしながら、ふと言った。
「毒、って、最初の宿のシチューのことですか? ちょっと苦いなとは思ったんですけど」
「……竜が九日寝込む量を、入れさせた」
「え」
白石の手が、止まった。
「なんで、私、平気だったんでしょう」
ヴァルグレイヴは、少し考えてから、言った。
「異界の課長が、こう言っていた。
そなたの力は、そなたが『汚れている』と思ったものを、取り除く、と」
「はい」
「そなた、体の中に、妙なものが入ってきた時、どう感じる」
白石は、首を傾げた。
「……なんか、お腹の中が、ちょっと濁ってる感じがして。
気持ち悪いなって思ってたら、いつの間にか、すっきりしてます」
「それだ」
「えっ」
「そなたは、自分の体の中まで、無意識に、掃除していたのだ」
白石は、自分のお腹を見下ろした。
「……私、職業病、ひどすぎません?」
ヴァルグレイヴは、また、笑ってしまった。
◆ ◆ ◆
茶が、二杯目になった。
朝日が、少しずつ高くなっていた。
露台の手すりの向こうで、城下の街が、本格的に動き出している。
ヴァルグレイヴは、茶碗を卓に置いた。
聞かなければならないことが、あった。
「白石殿」
「はい」
「……帰りたいか」
白石の手が、止まった。
「元の世界に。ニホンに」
露台に、風が吹き抜けた。白石の黒い髪が、さらりと揺れた。
「聖王国の召喚陣から、細い光の糸が、どこか遠くへ伸びているそうだ。
異界の者たちは、それが、ニホンにつながっているかもしれないと言っている。
まだ、確かではない。だが」
ヴァルグレイヴは、まっすぐに、白石を見た。
「そなたが帰りたいと言うなら、我は、帰り道を探す。
全力で。三百年、勇者を殺してきた。今度は、勇者を、帰す」
白石は、長いこと、黙っていた。
茶碗の中の、揺れる水面を、見つめていた。
やがて、顔を上げた。
「帰りたいです」
はっきりと、言った。
ヴァルグレイヴは、黙って、頷いた。
胸の奥が、少しだけ、痛んだ。
それは、胃の痛みとは、違う痛みだった。
「お母さんに、会いたい。事務所の、みんなにも。……でも」
白石は、露台の手すりの向こうを、見た。
城下の街。南の湖。手ぬぐいを振っていた、何千人もの人たち。
「今じゃ、ないです」
ヴァルグレイヴは、目を見開いた。
「システム、っていうのが、まだ、止まってないんですよね。再計算中、って」
「……ああ」
「それが終わったら、また、新しい予言とか、新しい勇者とかを、作るかもしれない。
森戸さんみたいに、私みたいに、何も分からないまま呼ばれて、
紋を刻まれて、使い捨てにされる人が、また出るかもしれない」
白石は、腰の布を、手に取った。
「それに、湖が、また濁りかけたって、ネフィから聞きました。
私が拭いても、汚れの元が残ってたら、また汚れちゃう」
くたくたの布を、白石は、ぎゅっと握った。
「掃除の基本なんです。汚れの元を断たないと、きりがないって」
ヴァルグレイヴは、言葉を失った。
「だから、帰るのは、汚れの元を、ちゃんと掃除してからにします」
白石は、少しだけ、照れくさそうに笑った。
「それで、ヴァルさん。一つ、お願いがあるんですけど」
「……何だ」
「前に、断っちゃった、お仕事の話。環境整備局、でしたっけ」
白石は、背筋を伸ばした。
「局長じゃなくて、現場担当で、雇ってもらえませんか。
期間限定で。帰り道が見つかるまで」
露台に、沈黙が落ちた。
それから、ヴァルグレイヴは、また、笑ってしまった。
今日、何度目だろう。
「……現場担当」
「はい。管理職は、胃を壊すので」
「ああ。よく知っている」
魔王は、立ち上がった。
卓越しに、右手を差し出した。
「白石殿。魔王領環境整備局、現場担当として、そなたを迎える。
期間は、帰り道が見つかるまで」
白石も、立ち上がった。
紋の消えた右手で、魔王の大きな手を、しっかりと握った。
「よろしくお願いします、ヴァルさん」
「ああ。よろしく頼む、白石」
殿、がなくなっていた。
白石は、それに気づいて、少しだけ、嬉しそうに笑った。
入り口の陰で、ネフィが、リリエラの袖をつかんで、声を殺して泣いていた。
リリエラは、何も言わずに、夢魔の少女の頭を、そっと撫でていた。
魔王と勇者は、それから、残りの大福を、一つずつ分け合って食べた。




