幕間㉓ 白石、兜を外すと決める
目を覚ますと、柔らかい寝台の上だった。
東向きの窓から、夕陽が差し込んでいる。
白いカーテンが、風に揺れていた。
石造りの、けれど温かみのある部屋。
壁に、小さな花の絵が掛かっている。
「……勇者さん?」
寝台の脇で、ネフィが、顔を上げた。
目の下に、ひどい隈があった。
「勇者さぁぁん……!」
ネフィが、白石の胸に、飛び込んできた。
鎧の上から、ぎゅうぎゅうと抱きしめてくる。
寝台の足元で、シロが、ぶんぶんと尻尾を振っていた。
「ネフィ……ここ……」
「魔王城ですぅ……! 陛下が、勇者さんを、ここまで連れて帰ってきてくれたんですぅ……!
勇者さん、五日も、ずっと寝てたんですよぉ……!」
白石は、ゆっくりと、右手を持ち上げた。
籠手が、外されていた。
手の甲が、夕陽に照らされている。
何も、なかった。
円も、線も。
ただの、自分の手だった。
白石は、しばらく、その手を見つめていた。
それから、左手で、そっと撫でた。
(……落ちたんだ)
◆ ◆ ◆
ネフィが、全部、話してくれた。
満月の夜のこと。
森戸さんが、骨にひびを入れながら、紋の半分を引き受けてくれたこと。
聖騎士団長が、剣を下ろしたこと。
魔王城で、イグニスという人が目を覚まして、城を守ってくれたこと。
帰り道、街道の両側で、何千人もの人が、手ぬぐいを振っていたこと。
それから、魔王のこと。
「陛下、勇者さんが寝てる間、毎日、この部屋の前まで来てたんですぅ。
でも、入らないで、戸口から、ちょっと覗いて、帰っていくんですぅ」
「……どうして」
「勇者さんが、自分で兜を外すまで、待つって」
ネフィは、少しだけ、目を伏せた。
「陛下、たぶん、気づいてるんですぅ。
わたしが、何か隠してるって。
でも、一度も、聞かなかったんですぅ」
白石は、何も言えなかった。
「それでぇ」
ネフィは、顔を上げて、少しだけ笑った。
「陛下から、伝言ですぅ。
『明日の朝、東の客間の露台で、茶を飲もう』って。
……この部屋の、そこですぅ」
ネフィが指さした先に、窓の外の、小さな露台が見えた。
白い石の手すり。
小さな丸い卓。
向かい合った、二脚の椅子。
同じ高さの、椅子だった。
◆ ◆ ◆
夜。
ネフィが、ようやく寝台の脇の長椅子で眠りについた後、扉が、こつこつと叩かれた。
入ってきたのは、骸骨だった。
襤褸の外套。骨のあちこちに、白い氷が張りついている。
ひびを、氷で固めてあるのだと分かった。
「……森戸さん」
「目が覚めたか、異界の者よ」
モルドは、寝台の脇の椅子に、ゆっくりと腰を下ろした。
骨が、ぎしりと軋んだ。
「すみません。私のせいで、骨が……」
「構わぬ。三百年ぶりに、紋のない手を見た。
それに比べれば、骨の一本や二本、安いものだ」
骸骨は、自分の右手の甲を、白石に見せた。
何も刻まれていない、ただの骨。
「礼を言う。白石殿」
初めて、名前で呼ばれた。
白石は、首を横に振った。
「私こそ。森戸さんが、汚れだって言ってくれなかったら、私、ずっと、拭けなかったと思います」
モルドの眼窩の炎が、穏やかに揺れた。
しばらく、二人とも、黙っていた。
やがて、モルドが、静かに言った。
「約束を、覚えているか」
「……はい」
全てが終わったら、我を拭ってくれ。
古城で、そう頼まれた。
「明日、魔王と話をした後でいい。急ぎはせぬ」
骸骨は、立ち上がった。
「三百年、待ったのだ。あと一日くらい、どうということはない」
「森戸さん」
白石は、扉に向かう骸骨の背中に、声をかけた。
「……拭いたら、どうなるんですか」
モルドは、振り返らなかった。
「帰るのだ。我の、帰るべきところへ」
それだけ言って、骸骨は、部屋を出ていった。
◆ ◆ ◆
白石は、寝台の上で、膝を抱えた。
帰る。
窓の外に、月が見えた。
満月から、少しだけ欠けた月。
荷物の中には、まだ、元の世界の電車の切符があった。
くしゃくしゃになった、終電の一本前の切符。
帰りたい、と思った。
氷の中で、はっきりと。
母の大福。
事務所の朝礼。
先輩の、病院のベッドでの言葉。
でも。
東の窓の外の、小さな露台。
同じ高さの、二脚の椅子。
手ぬぐいを振っていた、何千人もの人たち。
咳をしなくなった子ども。
シロの温かい毛並み。
ネフィの寝息。
不器用な、大きな字。――会おう。
(……まだ、決められない)
白石は、膝に顔をうずめた。
決められなくていい、と思った。
明日、ちゃんと会って、ちゃんと話してから、決めればいい。
そのためには。
白石は、顔を上げて、自分の兜に、両手をかけた。
召喚された日から、一人の時にしか、外したことのない兜。
城の人たちの目が怖くて、自分を隠すために被り続けてきた兜。
「……ネフィ」
長椅子の上で、ネフィが、むにゃむにゃと寝返りを打った。
「ネフィ、起きて」
「……ふぇ……? 勇者さん……?」
寝ぼけ眼のネフィに向かって、白石は言った。
「私、明日、兜を外す」
ネフィの目が、ぱちりと開いた。
「ヴァルさんに、ちゃんと、顔を見せて会いたい。
……ずっと、守ってくれて、ありがとう、ネフィ」
ネフィは、長椅子の上で、しばらく固まっていた。
それから、くしゃくしゃの顔になって、泣き出した。
「……はい、ですぅ……」
泣きながら、笑っていた。
「勇者さんが、自分で、言いたくなる時、来たんですねぇ……」
シロが、寝台の足元で、満足そうに、ふんと鼻を鳴らした。
白石は、兜を、両手で抱えたまま、窓の外の月を見上げた。
明日の朝。
ちゃんと、会おう。




