第23話 ちゃんと会うために(前編)
魔王城に帰り着いたのは、満月の夜から三日後のことだった。
シロの背に揺られる、眠ったままの勇者。
その手をずっと握っているネフィ。
骨のひびを氷で固めてもらったモルド。
大剣を担いだヴォルフ。
手鏡を抱いて、うとうとしているミラージュ。
少し疲れた顔のセルシア。そして、旅装束の魔王。
北街道の途中から、沿道に、人が立ち始めた。
最初は、数人だった。畑仕事の手を止めた農夫。
荷馬車を止めた行商人。
それが、町を一つ過ぎるごとに、増えていった。
誰も、声を上げなかった。
眠っている勇者を、起こさないように。
ただ、手ぬぐいを、振っていた。
「ゆうしゃ」と下手な刺繍の入った手ぬぐい。
「勇者の布」と染め抜かれた手ぬぐい。
何も書かれていない、ただの手ぬぐい。
何百枚、何千枚もの手ぬぐいが、街道の両側で、音もなく揺れていた。
ヴァルグレイヴは、その光景を、黙って見ていた。
沼地の村の子どもたちが、道の脇で、背伸びをして手を振っていた。
あの、咳をしていた子が、先頭にいた。
魔王は、シロの背の上から、小さく、手を上げて応えた。
子どもたちが、ぱっと顔を輝かせた。
◆ ◆ ◆
魔王城の城門は、新しくなっていた。
ドルガンの工兵隊が、三日三晩で建て直したのだという。
城壁の石は、イグニスの炎に洗われて、真っ白に輝いていた。
城門の前に、リリエラが立っていた。
いつもの、きちんとした秘書官の装い。
髪の一筋も乱れていない。
ただ、目の下に、くっきりと隈ができていた。
ヴァルグレイヴは、シロの背から降りた。
秘書官の前まで、歩いていった。
「……戻った」
「お帰りなさいませ、陛下」
リリエラは、深く、頭を下げた。
そのまま、しばらく、顔を上げなかった。
「リリエラ」
「……はい」
「城を、守ってくれて、ありがとう」
秘書官の肩が、小さく、震えた。
「お茶を」
リリエラは、顔を伏せたまま、言った。
「お茶を、淹れてございます。執務室に。
……陛下が、お戻りになったら、すぐにお出しできるように。
三日間、毎朝、淹れ直して、お待ちしておりました」
ヴァルグレイヴは、秘書官の頭に、そっと手を置いた。
三百年で、初めてのことだった。
リリエラは、顔を上げなかった。
上げられなかったのだと、魔王には分かった。
◆ ◆ ◆
勇者は、城の客間に運ばれた。
日当たりのいい、東向きの部屋。
リリエラが、あらかじめ用意させておいたものだった。
医官によれば、命に別状はない。
紋に体を操られ、それを自分の力で拭い取った反動で、深く眠っているだけだという。
目覚めるまで、二、三日はかかるだろう、と。
ネフィは、寝台の脇に椅子を置いて、そこから一歩も動かなかった。
シロは、寝台の足元に丸くなった。
兜は、被ったままだった。
「……ネフィ」
客間の戸口で、ヴァルグレイヴは、声をかけた。
「兜を、外して楽にしてやったらどうだ。眠りにくかろう」
ネフィは、振り返らずに、首を横に振った。
「勇者さんが、自分で外すまで、だめですぅ」
静かな、きっぱりとした声だった。
「約束、したんですぅ。
勇者さんが、自分で言いたくなる時まで、ずっと被っててくださいって。
わたしが、勝手に外すわけにはいかないんですぅ」
ヴァルグレイヴは、しばらく黙っていた。
嵐の山小屋の夜のことを、ネフィは、報告していなかった。
素顔を見たか、と聞いた時、ネフィは、若い、とだけ答えた。
何かを、伏せている。
それは、分かっていた。
分かっていて、問いただしたことは、一度もなかった。
「……そうか」
魔王は、それだけ言って、戸口から離れた。
勇者が、自分で外すまで。
それなら、待とう、と思った。
◆ ◆ ◆
二日が過ぎた。
城は、少しずつ、日常を取り戻していった。
北方守備軍は砦に戻り、工兵隊は灰岩の渓谷の修繕に向かい、民はそれぞれの町や村へ帰っていった。
勇者の湖の濁りは、イグニスが炎で洗い流し、再び澄んだという。
ヴァルグレイヴは、執務室で、溜まった書類を片付けていた。
片付けていた、つもりだった。
「陛下。その書類、先ほどから、三度、同じ頁をめくっておられます」
「……そうか」
「勇者のことが、気になりますか」
ヴァルグレイヴは、羽ペンを置いた。
「気になる。目覚めたら、会う。約束した。……だが、何を話せばいい」
「謝罪と、お礼でしょう。勇者の方は」
「我の方は」
リリエラは、少し考えてから、答えた。
「それは、陛下が、ご自分で考えることかと」
「……厳しいな」
「三百年、甘やかしすぎました」
秘書官は、湯気の立つ茶を、机に置いた。
ヴァルグレイヴは、茶をすすった。
それから、窓の外の、東の客間の方角を見た。
そして、異界掲示板を、開いた。
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【通知】再計算中です。
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システムの板は、満月の夜から、ずっと、それしか告げていなかった。




